5月29日の週報コラム「ひだり手」
〈一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉(違う言葉―私訳)で話しだした〉(使徒言行録2章4節)
★牧師のくせに喋るのが苦手です。とっさに喋る自分の言葉に自信がありません。人前で喋らなければならないときには、苦労して原稿を用意します。牧師さんにはおしゃべり上手な人が多いように思いますが、その中でわたしは喋るのはどうも上手でないと思わざるを得ません。そうはいっても思い返すと、案外いろんな場面で結構好き勝手喋っている自分がいます。後になってそんな自分にとても嫌気がさすのですが。
★喋ることが得意な人も苦手な人も、実は誰もがいろいろなところで言いたいことを言っている。そのときわたしたちが話しているのは恐らく、自分を真ん中に据えたその時々の自分の「気分」のようなもの、気分がいいか悪いか。もちろん、自分の気分を語る時があっても一向に差し支えない。だけれども、聖霊がわたしたちに語らせるのは、普段わたしたちが喋る言葉とは「違う言葉」だと言うのです。
★それはどんな言葉か。それは自分を真ん中に据えたのではない言葉、です。自分を真ん中に据えない時、わたしたちがまずすることは、自分以外の人の発する声に耳を凝らして「聞く」ことです。聖霊というのは、わたしたちが言葉を語ることが出来るようにさせる力なのだけれども、でも実は、その根本にあって一番大切なことは、「語る」こととは裏腹の「聞く」ことではないかと思うのです。
★神様はわたしたちに聖霊を送り、声なき人の声、物言わぬ人の悲しみに、謙虚に、静かに、注意深く耳を凝らし、耳をそばだて、耳を傾けて、「聞く」力を、わたしたちに授けて下さいました。そうして、自分を真ん中に据えるのはなくて、物言えぬ人、声なき人に代わって、その物言えぬ悲しみ、声なき悲しみを受けとめて、それをわたしたちの口と声とで言葉に紡ぎ出す力を与えて下さったのです。