6月14日の週報コラム「ひだり手」
〈あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。……わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。〉(フィリピの信徒への手紙1章6~8節)
★「祈ってるよ」「お祈りしています」。クリスチャンの間でしばしばそんな呼びかけが交わされます。有り難いことだと思う。でも時に、こんなふうに思ってしまうときもある。「祈ったところで、多分この難しい状況は変わらない」と。祈っても祈っても、願ったようにうまくいかなかった経験はいくらでも。教会は「祈りましょう」と勧めるけれど、祈ることなど何に役にも立たないではないか。祈っているヒマがあったらもっと具体的に行動することではないかと。
★パウロはローマで軟禁状態に置かれ、間もなく処刑されるかもしれないという退っ引きならない状況です。フィリピの教会の人たちは、パウロが守られるように、助けられ、救われるようにと、繰り返し祈ったことでしょう。ですがパウロは処刑されてしまいます。それでもこの手紙でパウロが繰り返し勧めているのは「喜びなさい」ということです。一体何を喜べとパウロは言うのだろうか。パウロはここで繰り返し「キリスト・イエス」「イエス・キリスト」とその名前を挙げています。パウロが語るのは「誰よりもイエス様が真っ先に祈っているではないか」ということ、そして「イエス様が実りある場所へと、わたしたちを導いてくれるだろう」という希望です。イエスという人はよく祈る人でした。最後には裸にされ十字架に釘付けにされ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と叫び、呻きながら息絶えた人でした。「この杯をわたしの前から取りのけてください」との祈りも空しく。でも、最後まで祈る人だったことは確か。
★誰よりも惨めな姿をさらしたイエスという人が、それでもなお祈っている。だからこそ、どれだけ惨めな状況に陥ったとしても、祈っても祈っても、そこから抜け出せなかったとしても、なお「喜んで」祈りなさいとパウロは勧めたのではないでしょうか。
6月14日の礼拝後、教会学校の子どもたちが、教会近くの交番のおまわりさんにお花を届けました。
「いつもわたしたちの安全をまもってくださってありがとうございます。これからもよろしくお願いします」と、子どもたちが挨拶しました。
「おまわりさん、仲良くしようね!」