6月7日の週報コラム「ひだり手」
★いま国会で、政府は何としてでも安保法制を可決しようと躍起になっています。野党議員の質問に対する首相の「早く質問しろよ」という不躾なヤジがそれを如実に語っています。質問の主旨に答えず、自説をとうとうとまくし立てているのは首相自身です。しかし、首相のとうとうたる自説を聞けば聞くほど、この安保法制なるものが一体何を目指しているのか、分からなくなっていきます。そもそも戦争・武力の放棄をうたった憲法9条の改憲が困難と見るや、9条をそのままにして勝手な解釈で集団的自衛権(他国の戦争への参加)を容認したところから矛盾は始まっているのです。
★9条により「原則」として海外派兵は禁じられている。「原則」として戦地への派遣は禁じられている。しかし「安保法制」はそれを恒常的に可能にさせる法律です。政府が語っているのは、この「原則」に対する「例外」を設け、その「例外」事態の中で派兵や武力行使を恒常的に可能にしようということです。政府はとうとうとその「例外」事態を説明しますが、そもそも「例外」をすべて網羅することはできません。「例外」とはいわば、「原則」という〈家〉の外側にあって、どこまでも拡がっている〈原野〉のようなものですから。「例外」を規定しようとすること自体がそもそも無理なのです。
★「例外」をどのように規定するのかと問われると、首相は「政府が総合的に判断する」としか答えません。「どう戦争するかはオレたちが考えるから、オマエらは黙って従えばいい」と言わんばかりです。「安保『法』制」と言いながら、これは「法」(ルール)というものの根本を踏みにじる振る舞いです。なぜなら「法」とは「原則」をしっかり確認するためのものなのですから。
★国家政府という大きな権力を持つものが「法」を踏みにじる時、そこにはむき出しの「力」(権力・暴力)が現れます。このむき出しの「力」を抑えることは容易なことではありません。いまわたしたちはむき出しの「力」というモンスターを野に放とうとしているとも言えます。それは苦しみを拒否した野心家には好ましいことでしょうが、苦しみや悲しみを共感しあって共に生きることを求める「人間らしい人間」にとっては、あってはならないことのはずです。