9月14日の週報コラム「ひだり手」
〈「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」……「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』。」(ヨハネによる福音書8章31~32節。58節)。
★「わたしはある」とのイエス様の言葉は、もっとつづめれば「わたしだ」「わたしです」となります。
★「わたし」というたった一人の人間がいて、「世の光」だとか「救い主」だとか「メシア」だとか「神の子」だとか、立派な肩書きも付けられないような、ただ「わたしです」と言うしかないようなありふれた小さな存在なのだけれども、その小さな存在の中に、「アブラハムの子孫だ」などと言って自分を誇る以上に、もっともっとこの上なく大切なものが宿されているのだということを言っているのだと思うのです。
★イエス様は、この「わたしだ」というたった一言のイエス様の言葉にとどまりなさい、とわたしたちに教えているのです。何の肩書きもなく、裸一貫の姿でこのわたしに「わたしだ」「わたしがここにいるよ」と語りかけるこのイエス様のたった一言の言葉にとどまるならば、あなたは本当にわたしの弟子だよ、と。「わたし」という何に肩書きもない、ありふれた小さな一人ひとりの人間の中に、神様が他の何ものにも代えられない尊いものを授けてくださっているということ、これがイエス様の言われる「真理」というものなのでしょう。この「真理」をわたしたちが知る時、わたしたちは本当に「自由」な者とされるのです。