6月17日の週報コラム「ひだり手」
★福音書を読むと十字架に掛けられたイエス様に向かって叫ぶ人々のこんな言葉が書かれています。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。で、実際にイエス様は十字架から降りることができません。他人は救ったのに、自分を救うことができません。「他人は救った」ことはまったく評価されません。「自分で自分を救えない」人間はダメな人間だという物差しなのです。
★キリスト教の信仰というのは本来、自分で自分をかっこうよく立派に見せるためには何の役にも立たないものなのです。イエス様は自分を立派に見せるためには本来、全く役に立たない救い主なのです。でも、自分で自分を救えなくても、誰かに助けられつつ、誰かを助ける。そういうつながりを作っていくとき、イエス様は十字架に掛けられながらも、限りなく心強いわたしたちの仲間となって下さることでしょう。それがどんなに世の嘲弄を受ける「役立たず」の救い主、それに導かれる役立たずの人間の集まりであったとしても、そこに教会はあるはずのものです。この、「自分で自分を救う」ことへの「役に立たなさ」にこそ、わたしたちは誇りを持って歩んでゆきたいと思うのです。