4月22日の週報コラム「ひだり手」
★ある人がこんなことを言っていたのがとても印象に残っています。「教会は、問題が何もない天国ではなくて、問題が持ち込まれる場所だ」と。まったくその通りだと思いました。そして十数年牧師をやってくる中で、わたしが実感しているのは、教会はその持ち込まれた問題をスッキリ解決してくれる便利な場所でもない、ということです。
★牧師に成り立ての頃、問題を解決してあげるのが牧師の仕事だと思い、様々な人の問題に関わっていきました。しかし多くは失敗に終わりました。人の問題に関わることが間違いと言うのではありません。そこに、人の問題を解決してあげて感謝されたい、とか、問題をすっかり解決してスッキリしたい、といった心持ちがないかどうか。それこそが問題なのです。
★イエス様の生き様を思い描いてみます。確かにイエス様は多くの人の病いをいやしました。しかしその結果、イエス様の周りには人間的な軋轢や摩擦がすっかり解決されて無くなったかといえばその逆です。イエス様の歩みはむしろ、敵が増えていく中を進む歩みでした。弟子たちもまた最後には、イエス様のもとを去っていってしまいました。十字架の上でイエス様は自分をあざ笑う者に取り囲まれ、まったく孤独でした。結局イエス様は、最終的には人間同士の摩擦や軋轢をすっかり解決はできないまま、むしろその矛盾を一身に背負って傷つき果て、世を去っていったのです。
★振り返ってみれば、わたしたちの人生の歩みは本当は、日々問題だらけです。でもその問題を誰かに押しつけて、「平和」を味わうこともできます。いまわたしたちが経験している原発事故とその影響を考えれば、そのことはよく分かると思います。わたしたちは放射能という厄介なものを原子炉に閉じ込め、それを地方の人の少ない場所に押し込めてきました。東京ではそこで作られた電気を使って幸せを享受し、その幸せを誇るかのように煌々と夜が照らし出されています。しかし今となって見れば、放射能は噴出する機会を今か今かと待ち受けていたかのようです。
★信仰の道を歩むとは本来、問題から解放されることではなく、わたしたちが本当は抱えている様々な問題と正直に向き合い、それらの問題がすっきり解決されなくても、様々な問題の中を生き通し、歩み通されたイエス様だけを頼みの綱として生きることなのでしょう。「日々順調に問題だらけ」の歩みは、イエス様が共におられるという福音でもあるのです。