7月18日の週報コラム「ひだり手」
《外から人の体に入るものは、人を汚すことができない》(マルコ7章18節)
★わたしたちの外側にあるこの世界の生きとし生けるものすべて、人を汚すことのできるものなど何もないとイエス様は宣言されたのです。そうでしょう。聖書によればこの世界のものすべてを創られた後、神様はそれらすべてのものをごらんになって「見よ、それは極めて良かった」と喜びの声を挙げられたのですから。
★むしろ本当の意味で人の「汚れ」とは何かをイエス様は問い返されるのです。人の本当の「汚れ」とは、「よそ者」のレッテルを貼り、人を見下し排除し差別する。そのような人の悪意こそが人間を悪に染まった醜いものとするものではないかと問い返されたのです。「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」と。
★愛媛県におられ、同和教育のお母ちゃんと慕われた江口いとさんの詩に、「人の値打ち」という詩があります。
いつか、モンペをはいてバスに乗ったら
隣座席の人が「おばはん」と呼んだ
よそいきの着物に羽織を着て汽車に乗ったら
人は私を「奥さん」と呼んだ
どうやら人の値打ちは
着ている着物で決まるらしい
……
江口さんは、着ているもの、肩書き、学歴、生まれた場所といったもので「人の値打ち」を決める、そうした「人の中から出てくる」「あやまち」を鋭く指摘しています。
★では、人の本当の値打ちはどこから生まれてくるのでしょう。それもやはり人の中から生まれてくるのだと思うのです。生まれついて汚れた者など一人もといない。イエス様に従ってそのように思いを定め、その思いに沿って生き、人と出会い、触れ合い、結び合っていく時、そういうわたしたちの間から、誰も汚すことの出来ない本当の人間の値打ちが生まれてくるものだと思うのです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とイエス様が言われたように。