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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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1月17日の週報コラム「ひだり手」

「人間の悲惨とイエスの傷」

《「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。……「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」》(ヨハネ20章25~29節)

★ここでは、トマスが復活したイエス様から「見なければ信じない者」として叱られているように読めます。けれどもこの場面を読み返す中で、トマスの態度は、実は大切なことを教えているのではないかと思うようになってきました。
★わたしたちは、救い主と言えば美しく整えられた姿を思い浮かべるのではないでしょうか。わたしたちがもしトマスの立場に立ったなら、「あの方が、真っ白いキレイな服を着て現れ、そのサラサラの布に触れ、そのきらびやかに輝く後光に目をくらませるのでなければ、わたしは決して信じない」なんて言ったかも知れません。トマスは、わたしたち人間の惨めさ、情けなさ、どうしようもなさをその身に負われたがゆえに、手に釘の跡を開け、わき腹に槍の跡を黒々と開けた傷ついた方こそ、本当の聖なる方なのだと訴えているのです。
★韓国の詩人金芝河の戯曲『荊冠のイエス』の中で、金の冠をかぶせられたイエスの像は、「どうか自分を虜囚の身から自由にしてくれ、解き放ってくれ」と懇願し、「どうすればイエスよ、あなたを自由にすることができますか」と尋ねる「ライ病人」に対して、「それを可能にするのは、おまえたちの貧しさ、おまえたちの知恵、おまえたちの柔和な心、いや不正義に反抗する、おまえたちの勇気。…私には荊冠がふさわしい。金冠など、無知で欲深く腐ったものらが、外見を飾るために私にしたお仕着せなのだ」と語り、金の冠を外して荊の冠を被せてもらいます。「聖」とは、世にあって決してキヨクないわたしたち人間の惨めさ、情けなさ、どうしようもなさと、それゆえに傷つきながらなおその傷ついた体を背負いわたしたちと共にあろうとするイエスとの出会いなのでしょう。
by oji-church | 2010-01-22 17:13 | 牧師からのメッセ-ジ