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礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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受難節第2主日
2月25日(日)午前10時30分
説教「神の宣教」
山本光一牧師(京葉中部教会)

【聖書】ルカによる福音書15章1~3節
【讃美歌】29.448.280.200.64.88.
【招詞】イザヤ57章15節
【交読文】イザヤ書42章1~7節

# by oji-church | 2018-02-22 11:33 | 全体のお知らせ
「夜昼、寝起きすることは」

〈神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。〉(マルコによる福音書4章26~27節)。

★イエス様のこのたとえ話を聞いていた人たちは、貧しい農民だったでしょう。権力者たちから「生かさず、殺さず、搾り取れるだけ搾り取られる」、そんな生活を送る人たちです。今日と明日を生きるために、夜昼、ただただ寝起きするためだけにも、畑に出て種まきをしなければならなりません。こんなことしていたって、ちょっとでも暮らしが楽になるわけでもないのに、というため息混じりにも。
★今日と明日、ただ夜昼寝起きするためだけに、種まきに出かけていくという、イエス様の話を聞く農民にとっては当たり前のツマラナイ光景を、しかしイエス様は「神の国は次のようなものである」と言われるのです。イエス様は「いやいや、そうでもないぞ」と言うのです。「今日と明日を生きるために、畑に種まきに出かけていくことは、決してツマラナイことなんかじゃないぞ。それは、ひょっとすれば、この世界全体を創って、取り仕切っておられる神様の働きと、どこかで繋がっているかもしれないぞ」。そう伝えることが、もしかしたらイエス様がこのたとえ話を語った意味だったのかもしれません。(つづく)
# by oji-church | 2018-02-22 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「ともし火としての悲しみと喜び」

〈ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められているもので、公にならないものはない〉(マルコによる福音書4章21~22節)。

★ここで「ともし火」と言われているのは、イエス様が宣べ伝えた「神の国」の福音のことでしょう。この世界は神様が創られたもの。そこに生きるすべての命あるもののために神様は、今日も働いておられ、わたしたちの命を養い回復される。それが「神の国」の福音というものです。
★そんな「神の国」の福音は、特定の限られた人たちだけに打ち明けられるのではなく、この空の下に生きている「みんな」に打ち明けられるはずのものだ、というのが、ここでイエス様が言われていることなのだと思います。
★「ともし火」という小さなものが、みんなを照らす「神の国」という大きなものに繋がっていることが語られています。わたしたちは日々の生活の中で、いろいろな小さな出来事を経験し、その中で、それぞれに小さな喜びや悲しみや痛みを経験するものです。そんな小さな経験の一つ一つを互いに打ち明け合い、受けとめ合いして分かち合う積み重ねの中から、神の国という大きな喜びが、わたしたちのもとを訪れるということではないかと思います。
★わたしたちの日々経験する小さな出来事の中での喜びや悲しみの中にこそ、「神の国」の大きな喜びが秘められており、それはみんなを照らすともし火となるのだ。「神の国」の大きな喜びは、わたしたちの、お互いの小さな経験を打ち明け合い、受けとめ合い、分かち合う積み重ねの中から、いつかきっと必ず、みんなが分かる仕方で明らかになる。イエス様の言葉は、そんな希望をわたしたちに告げています。
# by oji-church | 2018-02-13 11:59 | 牧師からのメッセ-ジ
「食べる」

★先週月曜日、胃と腸の内視鏡検査を受けました。このところ三年連続で腸にポリープが見つかり、毎年検査を受けるハメになっています。検査前日は検査しやすくするために三食いわゆる「検査食」を食べます。検査当日は絶食。ポリープが見つかって切除すると、一晩入院させられ、終日食事はオアズケ。翌日も一日検査食です。今回もやはりポリープが見つかり、検査食→検査→入院→絶食→検査食のコースを辿りました。検査そのものはもう慣れて、どうってことないのですが、問題は検査食。決してまずくはないのですが、如何せん量が少なく空腹とのたたかいになります。空腹と言っても決して「飢餓」ではないのですが、わたしはどうもこれが苦手のようです。目につく食べ物すべてが美味しそうに見えて、しまいにはウチで猫が食べているキャットフードまでウマそうに見えてくる始末。
★ハタと気付いたのは、普段自分が多分に〈食べる〉ことでストレス解消しているらしい、ということでした。決してゼイタクなものを、あるいは大量に食べているわけでもないのですが、どうやら〈食べる〉ことで気分転換しているらしいのです。それが無くなる、あるいは充分な量でないと落ち着かず、身の置き所がなくなってくる。普段あまり物事がメンタルに響かない鈍感なわたしですが、空腹が一番メンタルに響くことが分かりました。
★わたしを痛めつけたければ、「食べさせない」ことが最大の攻撃です。これもヒトの性(さが)かもしれませんが、ともあれ精神衛生を〈食べる〉に依存しているのはあまりいいことではありません。問題が分かって、さてこれをどう克服すべきか、今のところ見当がつきません。ちょうどいい〈食べる〉は、どのあたりにあるのか、お知恵をいただければと思います。
# by oji-church | 2018-02-07 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「未来からの家族」

〈イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイによる福音書3章33~35節)。

★わたしたちは、未来を見通すことはできず、過去だけが見える人生の中に生きています。すると、往々にして、過去はこうだったから、未来もきっとこうだろうと思いながら生きていくことになります。家族というのは、もともと自分に至るまでずっと繋がってきた血のつながりを表すものです。そういう意味では家族というのは過去を表すものです。一方、イエス様が教えた「福音」というものは、向こうから、未来からわたしたちのもとを訪れるものです。これから神様が行おうとしている新しい働きに希望を寄せながら、いまある自分自身を見つめ直してみなさいということなのです。そこに、イエス様が、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語った意味があるのです。過去がこうだったから未来もこうだろうというわたしたちの思いからわたしたちを自由にして、わたしたちの心に新しい希望の光を灯すために、イエス様は家族、肉親との繋がりをぶった切るような言葉を語ったのだと、そう思うのです。
★わたしたちは過去、お互いに欠けを負った者同士であるけれども、それでもなおわたしたちは、神様がこれから行おうとしている新しい働きによって、必ず、神様はわたしたちを相応しく養い、装わせてくれるんだという希望の光のもとに、肉親を、家族を見出していくということ。勿論それは肉親、家族に限ったことではなく、この世に生きている全ての人が、神様によって養われ、装わせられる希望を与えられている存在なんだと、新しい光の中で見つめ直していくということです。そこに肉親、家族とそうでない人との違いは何もありません。
# by oji-church | 2018-01-31 15:35 | 牧師からのメッセ-ジ
「空の鳥を、野の花を見なさい」(2)

★神様が創られた天と地という隙間があってこそ、わたしたちは自由に羽を羽ばたかせ、わたし色の花を咲かせることがでます。わたしたちはそれぞれに違った「ひとり」「ひとり」であるということを大切に心に留めなければならないと思います。「ひとり」の中でこそわたしたちは、自分自身と向き合って対話し、また、人の役に立つものを作り出すことができます。
★同時にわたしたちは、自分が一人ぼっちではないということも心に留める必要があります。神様が創られた空と大地によってつなぎ結ばれて、違いがあっても共に生きるべき者として、この世界に生かされているのです。恐れなく、自由に、安心して。
 神様が創られた空と大地は、わたしたちに向かってこう告げています。「自分ひとりの孤立した世界の中に閉じこもって、明日のことを思い悩む恐れに取り憑かれてしまうのではなく、わたしが創ったこの空に、この大地に出て行って、そこであなたがた、ひとりまたひとりの違いを差し出し合って、違うひとりまたひとりが、どのように共に生きることが出来るか、安心して、自由によく語り合い、感じ合い、受けとめ合って、違う者同士がその存在を大切にしあって共に生きる愛で満たしなさい」と。
★「わたしの小さな普段の生活」に閉じこもって生きる在り方は容易に、一部の力ある人たちの利益のために、すべてを犠牲にし破壊するあの巨大な塊に飲み込まれてしまいます。そんな悪しき力に立ち向かうには、勇気をもって、安心して、自由に、お互いの違いを差し出し合い、語り合い、感じ合い、受けとめ合う、そんな場が必要です。神様が創られた空と大地のような。教会もまた、その空と大地の中に置かれているはずです。わたしたちはここで羽ばたき、じぶん色の花を咲かせ、そしてまた勇気をもって、安心して、互いの違いを差し出し合い、自由に語り合い、感じ合い、受けとめ合うことを神様から期待されています。そう、わたしたち一人ひとりが「空の鳥」であり、「野の花」なのです。
# by oji-church | 2018-01-25 16:46 | 牧師からのメッセ-ジ
「空の鳥を、野の花を見なさい」

〈空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。……野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。〉(マタイによる福音書6章26~29節)

★新しい年が明けましたが、わたしたちの生きる世界にはあまり明るい兆しが見えません。一部の力持つ人たちが、テロや隣国との紛争の危機感を煽り、人々を、自分に都合のよい同じ一つの方向に向かせるように操作する、そんな見えない圧力がわたしたちの上にのしかかるかのようです。その先にあるのは、わたしたちが一つの大きな塊(かたまり)とされて、自分や隣人の命や生活を犠牲にして顧みなくさせられる「戦争」というものです。
★イエス様が「〈空の〉鳥を見なさい」「〈野の〉花を見なさい」と言っていることに気付きました。〈空〉は神様が創られた〈天〉であり、〈野〉は神様が創られた〈地〉です。イエス様の時代のガリラヤでは、空と言えばどこまでも何も無く広がっているものでしたし、野と言えば、これもまた広く青々と広がって地平線を見渡すことが出来るものでした。そのどこまでも広がる空の中を鳥は舞い、どこまでも広がる野の中に小さな花が咲いています。じゃあ、その鳥は、その花は孤立していただろうか。決してそうじゃない。神様が創られた広い広い天と地によってつなぎ結ばれて、この空と大地に生きている他の鳥、他の花と共に生かされています。
★この空全体がびっしりと鳥に埋め尽くされ、それらが全部ピッタリとくっつき合わせられて巨大な一つの鳥の塊となってしまったら、あるいは、この広い野が一つの花だけでびっしりと埋め尽くされて、それが全部ピッタリとくっつき合わせられて、巨大な一つの花の塊になってしまったとしたら、鳥も花も最早生きられなくなってしまうでしょう。わたしたち一人ひとりの間には隙間が必要です。(つづく)
# by oji-church | 2018-01-18 12:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「正月最良のすごし方」

★年末年始、家族が出払ったのをいいことに、「おひとりさま」の正月最良のすごし方を思案しました。結果、大晦日池袋の書店に行き、普段読みたいと思いつつ読めずにいた本を3冊購入。①カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』②中島岳志『親鸞と日本思想』③ハンナ・アーレント『人間の条件』。
★元日朝から3冊を脇に居間のソファに座り順繰りに読んでいきます。1冊を1時間程キリのいいところまで読んだら次の本。こうすると疲れず飽きずに読み続けられます。それぞれジャンルが違うのがいいようです。元日は一日読書三昧。2日午前中は第2週に控えた諸々の委員会・役員会の準備。午後は人に誘われ外出。3日も昼間は仕事に費やしたので本当の読書三昧は元日だけでしたが、楽しい正月でした。
★読んでいて一番楽しいのは①。ファンタジー仕立ての小説の中、人間の「記憶」をめぐり、各々違った、あいまいな「記憶」を携えた異なる人間同士が、加害/被害の歴史の上に立って、共に生きていくことの困難と意味を考えさせられます。②は戦前、『歎異抄』に著された親鸞の信仰がブームとなり、それが著名な作家や宗教家によって、「日本民族」を称揚する国粋主義に結びつけられ、やがて政府の主導するファシズムに接続されていく様を描き出します。キリスト教において戦前・戦中ファシズムに接続した「日本的基督教」の形成過程と驚くほどよく重なります。③は読むのに至極難儀する本ですが、②との関連で言えば、人間がなぜ、自由を奪い生命や生活を破壊する「右へならえ」のファシズム(全体主義)になだれ込んでしまうのか、それを人間存在の根本から考察した本です。「自分はそんな『右へならえ』になだれ込みはしない」と思っている「普通の人」こそが、社会の構造的変化の中で知らず知らずのうちに飲み込まれてしまう恐ろしさを感じさせられます。世界全体がそのような趨勢(ポピュリズム)に向かっているいま、読むのは大変ですが、本当はしっかり捉えられなければならない本だと思います。
# by oji-church | 2018-01-10 10:06 | 牧師からのメッセ-ジ
「想いを贈る」

★クリスマスが来ると思い出す絵本があります。『しんせつなともだち』という絵本。雪の降る夜、こうさぎが食べ物を探しに出かけて、カブを二つ見つけて帰って来ます。こうさぎは一つを食べて考えます。「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。ろばさんはきっとたべものがないでしょう。このかぶをもっていってあげましょう」。ろばの留守宅にうさぎはカブをおいて帰ります。食べ物を探しにでかけていたロバはさつまいもを見つけて帰って来ます。家に置かれたカブをみてろばは考えます。「「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。やぎさんはきっとたべものがないでしょう。このかぶをもっていってあげましょう」。ろばはやぎの留守宅にかぶを置いて帰ります。食べ物を探しにでかけていたやぎは、はくさいを見つけて帰って来ます。家に置かれたカブをみてやぎは・・・。カブはうさぎからろばへ、ろばからやぎへ、やぎからしかへ、次々と受け渡され、真夜中、うさぎが目を覚まして枕元を見ると・・・。
★どの動物も、「ゆきがこんなにふって、とてもさむい。~さんはきっとたべものがないでしょう」と、誰かのことを想い描き、贈り物を届けます。「おもう」という漢字は二つあります。「思う」と「想う」。「思」の「田」は人の頭を表し、自分の頭の中だけで考えていることを表します。「想う」の「相」は、人が向き合っている様を表し、自分以外の誰かを想い描くことを表しています。
★ルカによる福音書のクリスマス物語には三人の博士は登場せず、黄金・乳香・没薬の豪華プレゼントもありません。出てくるのは貧しい羊飼いと、飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子。羊飼いのもとに天使の声が響きます。「天には栄光、神にあれ。地には平和、喜びの人々に」。神様はこの世に生きるすべての命ある者を想い描き、すべての命ある者に平和をもたらす光を贈ります。照らされた羊飼いたちは、名前も知らない「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」を想い描き、見つけるために出かけてゆきます。神様がすべての命ある者の平和を想い描き、羊飼いたちが飼い葉桶に寝ている乳飲み子を想い描く。それがルカのクリスマス物語の二つの贈り物なのでしょう。
★クリスマスの出来事の奥底には、「想い」を贈る。神様から人へ、人から人へ。そんなプレゼントが秘められているようです。
# by oji-church | 2018-01-03 11:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「地には平和、喜びの人々に」

〈いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ〉(ルカによる福音書2章14節)
★聖書のクリスマス物語は、真夜中に羊の番をしていた羊飼いたちだけに、飼い葉桶の中に寝かせられた救い主の誕生を告げています。それは不思議に満ちた物語です。なぜ、真夜中なのか、なぜ知らせを告げられるのは羊飼いたちだけなのか、なぜ、告げられる知らせは、飼い葉桶の中に寝かせられている乳飲み子なのか。この不思議な知らせが、わたしたちへの「しるし」であると言われます。聖書の語るクリスマスの出来事はわたしたちに、この不思議を解くことを求めているのです。
★不思議を解く鍵は、その次の天使の言葉にあります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、喜びの人々に」。光は神様がわたしたちにもたらしてくれるもの。人間は自分の栄光を求めて、かえって競争を引き起こし、敵味方に分かれて争い、暴力と傷をもたらしてきました。光は「いと高きところ」にいる神様が与えて下さるもの、人間はそれを自分だけのものにしようとしてはならない。わたしたちが光を、神様から与えられたものとして分かち合う時、地上に平和が生まれるのです。
★神様が天地万物を創られた時、神様は造られたすべてのものを見渡して、こう言われました。「見よ、それは極めて良かった」。これが神様が最初に挙げた喜びの声です。この世にあるものはすべて、本来神様から「とってもいい!」と喜ばれている存在なのです。ですから、「地には平和、喜びの人々に」というのは、この世界に生きるすべての人のもとに平和があるように、という呼びかけなのです。
★いま、わたしたちの生きる世界を見渡す時、力を持つ人々が自分だけの栄光を求める傍らで、平和を奪われている人たちが生み出されています。そんなもっとも小さくされた人たちのもとに、平和がもたらされる時にこそ、初めてこの世界に生きるすべての人々に本当の平和が訪れるのです。宮澤賢治さんは「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と言いましたが、たぶんそれはほんとうのことです。
# by oji-church | 2017-12-25 09:58 | 牧師からのメッセ-ジ
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# by oji-church | 2017-12-19 18:02 | 全体のお知らせ
「やぶれた家族の中に」

★イエス様とその両親ヨセフさんとマリアさんの集うクリスマスの情景は、「聖家族」として麗しく泰西名画の中にしばしば描かれます。そこから家族というものは無条件に麗しいものだという価値観が、教会の中にも深く根付いているように思います。むしろ教会が率先して「健全な」「麗しい」家族像というものを賞讃してきた歴史があると言えます。けれども、家族の形というのはどの家族一つを取ってみても一様ではないでしょう。麗しい家族像を賞讃することは、そうした家族像に当てはまらない人を排除することにも繋がります。性的少数者の人たちに対して、その人権や存在を認めない差別的な風潮がとりわけ教会に色濃いのも、そうした教会が形作ってきた家族に対する価値観が深く関わっているように思います。
★「麗しい家族像」を賞讃することは、国家が引き起こす戦争とも深く関わっています。先頃ある国会議員が「子どもを4人以上産んだ女性は国が表彰すべきではないか」という発言をして波紋を呼びました。「産めよ、増やせよ」とのかけ声の下に、子どもを産むことが最も奨励されたのは、戦時中でした。子どもを多く産んで、兵士を増やすことが目論まれたのです。
★いまの政府が「学校教材として用いることを否定しない」と閣議決定さえしています。その内容には「爾臣民、父母に孝行し、兄弟や夫婦は仲良く」と「麗しい」家族像が語られています。しかしその最後には「一旦緩急アレバ、義勇公ニ奉シ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ」、家族が「麗しく」あることは、戦争の時に、「この世のある限り永遠に続く天皇の命運を守る」ためにそうしなければならないものだ、と言うのです。さらにいままた、与党は同じように家族の在り方を国が指図する内容の「家庭教育支援法案」なるものを準備しています。
★イエス様は「聖霊によって身ごもった」と言われる、当時の「麗しい家族」に当てはまらない、「やぶれた家族」の中に生まれました。そのことに、このクリスマスを待ち望む時、あらためて心巡らせたいと思います。
# by oji-church | 2017-12-19 17:39 | 牧師からのメッセ-ジ
「レッテル貼りを退ける」

〈身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた〉(マルコによる福音書3章21~22節)

★イエス様が律法学者たちによって誹謗中傷するレッテルを貼られ、イエス様の家族らがそれに急き立てられて「取り押さえに来た」という話です。かつて戦時下、日本では「アカ」とか「非国民」とかいったレッテル貼りが横行しました。権力者たちがそれを奨励し、一般民衆はその尖兵として利用されました。戦時下日本のキリスト教は、自分たちがこのレッテル貼りの対象となることを恐れて、従順に国家の政策に従い、神社参拝や国民儀礼(宮城遙拝・君が代斉唱)を率先して行いました。背う線に出向いて、神社参拝を拒否する朝鮮のキリスト者たちに対して神社参拝を奨励することまでしました。あたかもイエス様を取り押さえにきた身内の者たちのようにです。
★戦後、日本の教会は降って湧いた「キリスト教ブーム」に乗っかり、戦前・戦時下の自らの有り様を反省することがありませんでした。日本の教会が、過去の自らの有り様を省みたのは、1967年に日本基督教団が発表した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、いわゆる「戦争責任告白」が初めてでした。日本の教会は自らのありようを省みるという点で、誠に「鈍い」と言わざるを得ません。
人にレッテルを貼り、人を排除し、抹殺していくような有様に乗っかっていくことが、キリスト教の信仰から見て果たして正しいことなのか、わたしたちはそのことを目を開き、目を覚まして省みる必要があるでしょう。
# by oji-church | 2017-12-06 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「悲しみの力」

〈わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章11節)

★評論家の若松英輔さんがこんなことを語っています。「涙は必ずしも頬を伝うとは限らない。悲しみが極まったとき、涙は涸れることがある。深い悲しみのなか、勇気をふりしぼって生きている人は皆、見えない涙が胸を流れることを知っている」(『悲しみの秘儀』)。
★若松さんはまた、「同じ悲しみなど存在しない」とも言われます。「同じ悲しみなど存在しない。そういうところに立ってみなければ、悲しみの実相にはふれ得まい。同じものがないから二つの悲しいは響き合い、共振するのではないか。独り悲しむとき人は、時空を超えて広く、深く、他者とつながる」。同じ悲しみなど存在しないからこそ、わたしたちは、一人ひとり掛け替えのない存在なのであり、それゆえにこそ、一人ひとり大切に、耳を寄せて一人ひとりの悲しみに聴き、心を寄せ、悲しみを寄せて寄り添い合うことが必要なのです。
★「わたしたちは絶えず、イエスのために死にさらされている」。わたしたちは、それぞれに何かしらその人固有の悲しみを背負って生きざるを得ません。でも、そんなわたしたちだからこそ、イエス様はわたしたち一人ひとりの悲しみに耳を寄せ、心を寄せ、悲しみを寄せて、寄り添い伴って歩んでくれるのでしょう。そのことを覚えるとき、わたしたちの胸の内には悲しみの涙のひとしずくから、生きる力のひとしずくがあふれ出してくる。いや、わたしたちの胸の底の悲しみの涙のひとしずくこそが、生きる力のひとしずくそのものなのです。
# by oji-church | 2017-11-29 10:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」(2)

★どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとすること。それは確かに麗しいことです。でも、不思議とわたしたちは自分が人間であるにもかかわらず、人々のただ中に、人々と共に、人々のそばにずっと居ることに疲れてしまうことがあります。それはなんでなのだろうかと思うのです。お互いに人間同士であるのに、そのただ中に、人と共に、人のそばに居ると疲れてしまうというのは。
★思うに、人間が一緒にいる時、どういうわけかそこに、ある種の「競争」めいたものがどうしても生まれてきてしまうからではないかという気がします。「自分のほうが上だ」「自分の方が正しい」「自分の方が分かっている」。そんな競争。それは教会の中でも変わりがありません。「わたしの方が信仰深い」という競争。教会ではそれが変な風にねじ曲がって、「わたしの方が信仰が薄い」「いやいや、わたしの方が罪人だ」。そんな奇妙な競争になってみたりもするのですが。そこには人間というものをどうしても上下で考えてしまう心の癖のようなものがあるのではないかと思うのです。自分より上だと思えば持ち上げて、自分より下だと思えば貶める。そんな心の癖です。
★「あなたは神の子です」と言えば、それは確かにイエス様をほめる言葉かもしれません。けれども、それは他方で、人間を上と下とに分けて考えてしまうあのわたしたちの心の癖と、どこかで繋がってもいるのではないでしょうか。
★「あなたは神の子だ」という誉め言葉に対して、イエス様が「いや、自分は神の子なんかじゃない」と言ってそれを退けたのは、そんなふうに人間が人間を上と下とに分けて、やがて競争を演じ始める、そんなわたしたちの心の癖、また生き方の癖を退けたということでもあるのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2017-11-22 13:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々のそばに」

〈イエスが多くの病気をいやされたので、、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。〉(マルコによる福音書3章10~12節)

★どうしてイエス様は「あなたは神の子だ」という悪霊の叫びを「言いふらさないように」と厳しく戒められたのでしょうか。イエス様が「神の子」というのは聖書的には決して間違いではないのに。神学では「メシアの秘密」と言って、イエス様が「神の子」であることは、十字架に掛けられて人々の罪を贖(あがな)うまで秘密にされておかれなければならないこと、イエス様の贖いの業を知らないでイエス様を「神の子」と呼ぶのは「間違い」だから、というようなモットモラシイ説明がされるのですが、ナンだかアンマリ、シックリきません。
★こんなふうに想像してみました。病気でずっと悩んできたのが、イエス様に出会って、病気が癒されたのだとしたら嬉しさのあまり、悪霊でなくても思わず知れず、「あなたは神の子です」なんて叫びたくもなってしまうのじゃないかと思うのです。それに対してイエス様は「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応える、そんな場面が幾つもあったのじゃないか、そんなふうに想像するのです。これは「神の子」イエス様に対する冒涜なのでしょうか。
★イエス様に出会って、病気が癒されて、嬉しさのあまり、飛び上がるように「あなたは神の子です」と叫ぶ人に対して、「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応えるイエス様。そこには、「神の子」という特別な立場に立って、人々を「救ってあげる」救い主ではなくて、どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとするイエス様の姿があったのじゃないかと思うのです。(つづく)
# by oji-church | 2017-11-16 12:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「民主主義とキリスト教」

★今週末から、北支区の日韓宣教協議会が始まります。主題は「キリスト教と民主主義~敗戦・解放後の歩みのなかで」というものです。韓国では先年、腐敗した政権を市民がデモを繰り広げることによって退陣に追い込んだ「キャンドル革命」が起こりました。一方日本では、数にものを言わせた与党・政府の恣意的な政治が続き、庶民の生活がないがしろにされる一方で、「戦争をする国」への準備が着々と進められています。この違いは一体何なのだろうかと考えるのです。
★韓国では、戦前・戦時下の日本の植民地支配、また戦後の軍事独裁政権の支配に対して市民自らが声を挙げて抵抗し、時の権力を覆して新しい時代をひらくということをしてきた歴史があります。日本ではそのように、一般の市民が自らの手で歴史をひらくということがなかなかできずに来ました。歴史は、力のある者が作った「出来合い」のものを受け取るだけ、という感覚が根強く色濃いのかもしれません。
★昨年、「安全保障関連法案」に反対するデモが路上を埋めていた国会前には、SEALsの若者たちの「民主主義ってナンだ?」「コレだ!」というコール&レスポンスが響いていました。民主主義とは、権力の集中や絶対化を退け、それぞれの小さな個人が能動的な「主体」(コール)となって、「対話と合意」(レスポンス)の下に社会を形作ることでしょう。その根底には、神のみを神とし、神の前での一人ひとりの人間(個人)の自由と平等を受けとめるキリスト教信仰があったことは確かです。
★いま日本の教会は信徒の数が減少する中で、衰退を余儀なくされています。でも、一人ひとりの個人が、生き生きと自由に呼びかけ、応えするなかで社会を形作る民主主義の奥底に、キリスト教の信仰があることを、もう一度教会は受けとめ直す必要があるように思います。このことを教会・キリスト者がしっかりと噛みしめるとき、今の時代の中で、教会は小さくあっても、市民、一般庶民と共に歴史をきりひらいていく大切な一員になることができるはずだと思うのです。
# by oji-church | 2017-11-08 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ
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11月3日(金)に王子教会オープンチャーチを開催いたします。
午前中はバザー、喫茶、カレー、お弁当、子どもコーナー(ゲームとわたあめ作り、コマ作り)。
午後は、お琴とゴスペル、コーラスのミニコンサートを開催します。
ぜひご来会ください。お待ちしております。



# by oji-church | 2017-10-31 14:04 | 全体のお知らせ
「ゆるしとしての生き方」

〈安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか〉(マルコによる福音書3章4節)

★以前、ある牧師さんがこんな言葉を語っていたことを伝え聞きました。「神様が許しておられるのは、共に生きることだけ」。ひっくり返せば、神様は「共に生きること」以外は全部禁じておられるという意味にもなるでしょう。わたしたちの生き方を律する神様の厳しさが伝わってきます。だけれども、それはまた、もう一度ひっくり返せば、「共に生きる」ためならば、どんなことでも神様はわたしたちに許して下さっておられるということです。
★いかに自分が「正しく」生きるか、あるいはいかに自分が「救われる」か、ということが人生の目的なのではなくて、いかにして「共にいきる」か、ということこそが、わたしたちの生き方の一番大切な目的なのだということです。
★いかにして「共に生きるか」。それをわたしたちの人生の一番の目的として生きようとするとき、その一番の土台となるのは、何よりもまず、このわたし自身が、どうあれ「生きること」を「ゆるされている」ということなのではないでしょうか。神様はわたしたち一人ひとりに、わたしたちの姿がどうあれ、何よりも先ず「生きていていいんだ」とゆるしの声を呼びかけておられる。このことをわたしたちが本当に心の奥底に刻むとき、わたしたちの生き方は、「共に生きなければならない」という義務としての生き方から、「ともに生きていい」という喜びに溢れた「ゆるしとしての生き方」に変えられていくのではないかと思うのです。
★いま、将来への不安から、いたるところで自分中心と、他者への不寛容が、黒雲のように世界を覆っていくような時代の中、「~してはならない」生き方、「~しなければならない」生き方から、「~してもよい」生き方、「生きていていい」と呼び交わす生き方、「共に生きていい」というゆるしの声を喜んで受けとめる生き方、「ゆるしとしての生き方」を、見つけ出してゆきたいと願うのです。
# by oji-church | 2017-10-31 13:44 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱い声と言葉のために」

〈安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある〉(マルコによる福音書2章27~28節)

★今選挙の真最中で街には、「強く、勇ましく、人を圧倒する」言葉が各所に響いています。わたしたちは「強く、勇ましく、人を圧倒する」ことが「いいこと」だと思っています。でも自分自身を振り返ると、弱く、臆病で、人を圧倒しもしない自分に不甲斐なさを感じるものです。でも人間のほんとうの姿って、「強く、勇ましく、人を圧倒する」ものなのでしょうか。
★イエス様の弟子たちが安息日に、麦の穂を摘んで食べたことを見とがめて「安息日にしてはならないことをした」とクレームを付けてきたファリサイ派の人々たちにイエス様が応えた言葉が、上の言葉です。「安息日は人のために定められた」。ここで語られる「人」というのは、道端の麦の穂をちょっと摘んで口に放り込んでみるような、「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のことでしょう。安息日は、神様がこの世界を創られて、休まれたことを覚える日です。安息日が「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のためにあるということは、この世界それ自体がそのような人のために創られたということでしょう。
★「ああ、思った通り、やさしそうな人でよかった」。「今日帰ったら、お母さん、起きてるといいな」。「ええ? 今日ママ、家にいるの?」。どれも、子ども食堂に来ている子どもたちの口から出た、小さな小さな言葉です。人を圧倒することもなく、臆病で、弱い言葉です。そんな小さな声と言葉が、実はわたしたちの日常・普段の生活の傍らには幾つも響いています。神様は、そんな人間のために、そんな人間に向かって、そんな人間を大事にするために、そんな人間に焦点を合わせ、そんな人間を目指して、安息日を与えられたのだ。この世界を造られたのだ。そして今日も今も働いておられるのだ、そう思ってこの世界をもう一度、見渡してみるのです。
# by oji-church | 2017-10-25 16:24 | 牧師からのメッセ-ジ