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礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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11月18日(日)(降誕前第6主日)

・子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】わたしは〜であるⅡ

*子どもの教会礼拝には、おとなもご参加いただけます。


・主日礼拝 午前10時30分

 説教「子どものように受け入れる」大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書10章13〜16節

【讃美歌】29.60.171.425.65-1.92-3.

【招詞】コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節

【詩編交読】82編1〜8節

*礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



# by oji-church | 2018-11-17 11:16 | 全体のお知らせ

いのちの価値のありか(1)

〈ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロといった。〉(ヨハネによる福音書11章1節)。

★ここではラザロという人が、名前よりも先に「ある病人」と紹介されています。もしかしたらそれは、このラザロという人が相当に長い月日にわたって病を患っていたことを表しているのかもしれません。「病人」と訳されている言葉は、「力のない、弱い」という意味の言葉です。当時、一般の民衆の人間としての価値は何によって測られたかと言えば、それは労働力としてでした。ほとんどは農民でしたから、十分に農作業に携わり、十分に実りを生み出す力を持った成人男性こそが、もっとも価値のある人間と見なされました。女性や子どもはその傍らにあって男性の所有物と見なされていました。そのような社会の中で、病気であること、そして、その病気が治らず、長い月日、労働に携わることができない者は、まさに「力のない、弱い」存在、価値の低い存在と見なされたのです。現在でもそのような価値観で人間を測ろうとする人がいます。国政に携わる人が、「LGBTには生産性が無い」という発言をして問題になったことは記憶に新しいことです。

★ラザロという人は、病のゆえに「無力で、弱く」価値がない人間であると思われていたのかもしれません。しかしイエス様は、ラザロの病気の知らせを受けて、こう言われます。「この病気は死で終わるものではない」。わたしはこのイエス様の一言のうちに、単にこの病気で死ぬことはない、という楽観論以上のものを感じるのです。病気のゆえに、ラザロは価値の無い人間であるというレッテルを貼られてしまうことに対する憤り、とでも言いましょうか、イエス様はむしろラザロはこの病気によって、「神の子としての栄光を受けるのだ」と言われます。(つづく)



# by oji-church | 2018-11-17 11:09 | 牧師からのメッセ-ジ
降誕前第7主日
主日礼拝 10時30分〜
 説教「神が結び合わせたもの」
 大久保正禎牧師
【聖書】マルコによる福音書10章1〜12節
【讃美歌】28.364.493.81.64.92-2.
【招詞】コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節
【詩編交読】33編12〜22節

*礼拝へはどなたでもご参加いただけます。


# by oji-church | 2018-11-07 09:36 | 全体のお知らせ

振り返れば、そこに福音

〈もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい〉(マルコによる福音書9章43節)。

★マルコによる福音書は、「十字架のイエスに従う」をテーマに書かれています。でもこの福音書を読み進めるうちに明らかになるのは、最後までイエス様に従いきることのできた弟子は誰一人いなかったということです。実は弟子にとって、そういう自分たちのふがいない有様を振り返ること以上に、わが身を切るように辛く痛みを伴うことは無かったのではないでしょうか。でもこのマルコによる福音書が訴えているのは、まさにその最も辛いこと、「弟子」を自称しながら、「イエスに従う」ことができず、イエス様を裏切り、見捨てて逃げ去ってしまった自分の情けない姿を振り返り、省みるということ、それをこそするように、ということだったのではないかと思うのです。

★歳を重ねるにつれ、振り返った我が身は情けない姿でしかないことを思い知らされます。でもそれを振り返り、省みる時、ふと気づくことがある。情けない自分の傍らに、一人の誰かがいることに気がつくのです。イエス様がわたしの傍らに、わたしと共におられることに気がつくのです。

★本当のキリストとの出会いとは、痛みを伴いながら自分を振り返り、省みることの中にあるのではないでしょうか。ふがいなく、だらしなく、なさけなく、みっともない自分の傍らにイエス様が共におられることを見いだすこと、そこからもう一度、その、わたしと共におられたその「イエスに従う」という歩みが始まるのです。そしてそれこそが、「命にあずかる」こと、わたしたちにとって本当の意味での「喜ばしい知らせ」、福音なのでしょう。



# by oji-church | 2018-11-07 09:31 | 牧師からのメッセ-ジ

一杯の水の中にある「世界」

〈わたしの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける〉(マルコによる福音書9章41節)。

★わたしたちはいくつかの組織に属しながらこの世に生きています。例えば教会に属している。自分の家族に属している。日本という国に属している。わたしたちは、そんな自分の属する組織の中で人生の大半の時間を過ごしています。そこなら気心が知れて、安心して信頼できると思っています。でもここでイエス様が言わるのは、そういう人のことではありません。通りすがりの見ず知らずの人が、自分に一杯の水を与えてくれる。そんな出会いがこの世にはある。そのとき、わたしたちは教えられるのです。自分の属している組織の外にも、人間が、生きているということ、お互いに助け合い、支え合う人間同士の関係がそこにもあるんだということを、です。

★自分の属している組織の外、そこはこの世界全体と言ってもいいでしょう。たった一杯の水が、この世界全体を見直す、広いまなざしをわたしたちに与えてくれることがあるのです。その広いまなざしはおそらく、神様のまなざし、神様がこの世界を見るまなざしなのでしょう。この世界はすべて神様が創られた世界です。だから、神様はこの世界を「敵」と「味方」との色分けして見ることをしません。神様は遠くにおられて、この世界全体を見渡しながら、しかしそれと同時に、旅人に一杯の水を恵む一人の小さな人を見逃すことをしないのです。

★世界全体が「敵」「味方」に色分けされ、分断が進む今の時代、わたしたちに必要なのは、この神様のまなざし、同じ組織に属する仲間内にとどまらない広いまなざし、しかし同時に小さな、見ず知らずの人の人間としての人間らしい温かみを見逃すことのない神様のまなざしを与えられることなのでしょう。



# by oji-church | 2018-10-31 12:16 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(2)

★集まってくる子どもたち一人ひとり、とても子どもひとりには抱えきれない問題・課題を背負わされていて、それがゆえに食堂を開くたびに、いろんな問題がここでも沸き起こってきます。ほとんどはすぐには解決のつかない問題です。そういう子どもたちが抱えた問題を、子ども食堂自身も抱え込みながら続けていくので、食堂は毎回、先の見えない中で続けていくことになります。

★それでもみんなで一緒に続けていくうちに、子どもたち一人ひとりの境遇や、行く先について、「こうであったらいいのにな」という「願い」が、皆の間に芽生えてきます。それは自分一人の自分勝手な「ああしたい、こうしたい」という「欲望」ではありません。また大人のボランティアの、「この子はこうなってほしい」という上から目線の「願望」でもなく、子どもたち一人ひとりの小さな声に耳を傾けながら、また子どもたちの仕草や様子をうかがいつつ、子どもたちの言葉にならない気持ちも受けとめて、「こうであったらいいのにな」という願いが、子ども・大人の垣根を越えて、またキリスト教の信仰を持っているかいないかという垣根も越えて、心の奥深いところで、皆が「こうであったらいいのにな」という「願い」を持つようになる。少しずつ、少しずつ、そんなつながりが出来てくるのを感じさせられています。

★「子はかすがい」という言葉がありますが、集まってくる子どもたち一人ひとりが抱えている問題・課題がむしろ、そうして大人たちも巻き込んで、垣根を越えて、同じ願いを分かち合うように結びつけてくれるのを感じるのです。「欲望」でも「願望」でもない、この「願い」こそは、もしかしたら「希望」というものなのかもしれません。そういうことを教えられている、学ばされています。


# by oji-church | 2018-10-24 08:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(1)

★牧師になって23年になりますが、そのくらい牧師という立場にいると、だんだんと周囲はクリスチャンばかりになってきます。日本の人口の1%に満たないと言われるのがクリスチャンの数ですから、かなりかたよった人付き合いということになるかもしれません。

★子ども食堂を始めるようになって、そこで出会う人は、子どもたちも含めて、いずれもクリスチャンでない人たちばかりです。だったらその人たちに伝道をして、その人たちもクリスチャンになるように努めるのが牧師の務めではないかと言われるかもしれません。でもそういうことは全然していません。わたしの怠慢だと言われればその通りというより他ありません。北区の助成金をいただいていて、そこでは宗教活動や政治活動をしてはならないことになっているので、という言い訳あるのですが。願わくは、このことにいそしんでいるわたしや、教会員の方たちの「後ろ姿」を見て、キリスト教の信仰というものを受けとめてもらえればと思ってはいますが、どうもそうはならないところを見ると、そもそもわたしの「後ろ姿」がちっとも信仰深そうではないから、なのだと悲しく合点するところです。

★でも、そうしてクリスチャンでない方たちと一緒に協力して、地道に活動を積み上げていく中から、わたし自身が教えられることは、本当に豊かにあることを感じさせられています。ボランティアとしてお手伝いくださる方からも、集まってくる子どもたちからもです。何を教えられるのかと問われてもうまく言葉にできない気もしますが、あえて言えば、人間誰しもの奥深いところに秘められている「願い」のようなものを一緒に感じ取り、それを共有していくことです。(つづく)


# by oji-church | 2018-10-19 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ
「欠けたるところにイエス生き給う」(2)

★わたしの命を、わたし一人で、自分ひとりの持ち物のように思って生きている時には、歳を重ねて自分でできることが減り、できないことが増え、そうして自分というものが小さくなっていく、そんな小さくなっていくばかりの人生をただただ生きていくことに一体どんな意味があるだろうと思えるでしょう。だけれども、できることが一つまた一つと自分の手からこぼれ落ちるように減っていき、自分というものが小さくなっていくことが、しかし同時に、一つまた一つとイエス様がわたしたちの傍らに、人の痛み、悲しみ、寂しさに寄り添って生きるようになって行く、イエス様の命が膨らんでいくことだとすれば、たとえどんなにわたしたちの「自分」が小さくなっていったとしても、それは意味あることなのではないでしょうか。そんな見えないイエス様の命を、わたしたちの命の傍らに見いだすことこそが、パウロが語る「イエスの死を体にまとって生きる」ということなのではないかと思うのです。「イエスの死を体にまとって生きる」ことは、同時にまた「イエスの命がわたしたちのこの体に現れてくる」ということでもあるのです。

★実はわたしたちのこの命はすり減って、やがて無くなってしまうのではない、見えないところで、わたしたちの欠けたる命がイエス様の命として生きるようになっていく。やがてわたしたちはこの命を、イエス様の命として生きる者となっていく。そういう希望をパウロは語っているのだと思います。

★わたしたちはこの命を、自分一人で、自分一人の持ち物のように生きているのではない。見えないところで、わたしたちの「できない」ところで、わたしたちの欠けたるところで、イエス様が共に生きておられる。そのことを心に刻んで、日々新たに生かされる者でありたいと願います。



# by oji-church | 2018-10-10 09:54 | 牧師からのメッセ-ジ

「欠けたるところにイエス生き給う」(1)


〈わたしたちはいつも、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために史にさらされています、死ぬはずのこの胃にイエスの命が現れるために。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章10〜11節)

★パウロという人は、その体に何らかのしょうがいを負っていたと言われています。そしてこのコリントの信徒への手紙を書いた頃には、当時としてはだいぶ高齢にもなっていたと思います。人並み以上に、自分でできることが減っていくのを実感していただろうと思います。でもパウロがそのことを寂しがっている様子はありません。なぜだろうか。ここのところでパウロが語っていることを繰り返し読みながら、わたしは、パウロはこんなふうに感じていたのではないかと想像するのです。

★パウロもまたわたしたちと同じように、歳を重ねるにつれて、一つまた一つと自分でできることは少なくなっていくのを実感していたことだろう。だけれども、その一つ一つ減っていく「自分でできること」が、どこかへ消え去ってすっかり無くなってしまう、というようには思っていなかったのじゃないか。むしろ、歳を重ね、自分でできることが一つ減り、二つ減り、できないことが一つ増え、二つ増えしていく、その度ごとに、そうやって自分の欠けたところ、「自分」というものが小さくなったところに、その隙間、空白に、実は一つまた一つと新しいものが芽生えているんだ。新しいものが生まれているんだ。それは何かといえば、イエス様の命だ。このわたしと共に生きるイエス様の命が、このわたしのできなくなったところ、ままならなくなったところ、欠けたるところに、一つまた一つと芽生え、生まれているのだと、そんなふうにパウロは感じ受けていたのではないかと。(つづく)



# by oji-church | 2018-10-03 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「目には見えないかんじんなこと」(3)


★「これはわたしの愛する子、これに聞け」。この言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に響いた声を思い起こさせます。マルコによる福音書の初めのその場面にはこんな声が響いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

★この言葉は、イエス様一人が神様から受けた言葉ではなく、この世に生きているわたしたちみんながイエス様と一緒に受けている言葉だと思います。この場面でもやはり、「これはわたしの愛する子」という声は、イエス様一人が受けている声ではなく、この世に生きるわたしたちみんなが受けている声なのだと思うのです。そしてこのこと、わたしたちみんなが神様から「わたしの愛する子」という声を掛けられているということの方が、目に見える「すばらしい」光景よりもずっと大事なんだということ。

★イエス様がモーセやエリヤといったビッグネームと語り合っている「すばらしい」光景が雲の隠れて見えなくなった後にこそ、この声は響きます。それは暗にこういうことを語っているのではないかと思うのです。「かんじんなことは目に見えない」ということを。

★後には、辺りを見回してみても「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられ」ます。そのイエス様の服は、真っ白に輝くものではなく、風に埃に汚れた服だったでしょう。でも、「ただイエスだけ」と言われる「ただ」のイエス様、そしてイエス様はじめ、生きている「ただ」の人間の奥底には、「どんなさらし職人の腕も及ばないほど真っ白な」すばらしいもの、、神様から「かけがえのないもの」としてもらっているという、「目に見えないかんじんなこと」が秘められているのでしょう。


# by oji-church | 2018-09-26 11:47 | 牧師からのメッセ-ジ

「目には見えないかんじんなこと」(2)


★ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちもイエス様の山登りに同行させられます。そして山の上で三人の弟子たちは不思議な光景を目撃します。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」。

★確かにこれはペトロが言うように「すばらしい」光景です。エリヤもモーセも伝説の預言者です。自分の師匠であるイエス様が、そんなビッグがネームと肩を並べて語り合っているのを見て、ペトロが感激したのもうなずけます。ペトロはこの「すばらしい」光景をいつまでも見ていたかったのでしょう。ここに三つの仮小屋を建てましょうと提案します。でも、聖書はこのペトロの提案にとりあう様子はまったくありません。ペトロは「非常に恐れていたので、どう言えばよいか分からず、こんなことを言ったのだ」と語られています。その後、すぐに雲が現れて、この「すばらしい」光景を覆い隠してしまいます。そしてただ声だけが響くのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。実は大事なのは、目に見えるあの「すばらしい」光景の方ではなく、「すばらしい」光景が目には見えなくなった後に響くこの声の方ではないかと思うのです。(つづく)


# by oji-church | 2018-09-18 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「目には見えないかんじんなこと」(1)

〈六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。〉(マルコによる福音書9章2節)

★イエス様が、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、そこでその姿が変わるという場面です。山のてっぺんに登ると、やがて自分よりも上に見えるのは空だけになります。聖書では、空、天というのは神様のいるところとされています。ですから、山に登るというのは、神様に会いに行くということなのです。
★なぜイエス様がここで山に登ったのかは語られていません。この前の場面で、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と繰り返し尋ねています。ペトロはすぐさま「あなたはメシアです」と優等生的な答えをしますが、イエス様はそれを「誰にも言うな」と戒めています。その後でペトロはイエス様から「サタンよ、引き下がれ」とまで厳しく叱られているところを見ると、イエス様はこのペトロの答えに納得していないようです。
★山に登るとは神様に会いに行くということだとすると、こんなことを想いえがくのです。もしかすると、イエス様自身でも、自分が「何者なのか?」分からないところがあったのではないかと。自分が「何者」なのかよく分からないけれども、自分がこれから進んでいく道は、聖書に語られているように、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」てしまうような、辛く厳しい道であることが予感される。それで、イエス様は「わたしはいったい何者なのでしょうか?」、そう神様に尋ねるために、山に登っていった、神様に会いに行ったのではないかと。(つづく)
# by oji-church | 2018-09-12 09:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「最もちいさいもの」

〈はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。〉(マタイによる福音書25章40節)

★ここで言われている「最も小さい者」という人がどこかにいると思ってしまったら、この聖書の言葉を間違って読んでしまうことになると思うのです。考えてみれば、わたしもあなたもどの人も、この世界全体から見れば、誠に小さな者の一人です。逆に、そんな小さな一人ひとりの人がいまここに生きていることの重さを考えれば、どの人も「小さな者」などではなく、どの人も限りなく重く大きな存在です。
★「最も小さい者」というのは、この世の誰かに、「あの人は小さな者」、「この人は小さな者ではない」なんて具合に、名札のように付いている呼び名ではなく、この世の中で、小さな取るに足らないとみなされているそんな、一つひとつの「出会い」のことではないかと思うのです。小さなとるに足らないような出会いを、それでもなおわたしたちが大切にするとき、わたしたちはイエス様と出会い、「いや、あなたはわたしによくしてくれた」と労われる、尊い存在とされるのでしょう。
# by oji-church | 2018-09-05 13:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「歴史を振り返るとは」

★八月、平和に思いを致す月。わたしたちが平和を思う時、歴史を振り返ること無くして、本当の意味での平和を想うことはできません。今はある意味では歴史流行りの昨今です。でも歴史というと、戦国時代の武将の話か、幕末の志士の話ばかり。そんな話はテレビで幾らでもやっています。でもそれでは、本当の意味で歴史を振り返ったことにはなりません。子どもたちの話したのはこういうこと。戦国時代の武将とか、幕末の志士など有名人は、その時代に生きていた無数の人たちの内のほんの一握りの人間に過ぎません。今生きている多くの人たちも、わたしたち自身も含めて、国中や世界中に名前が知れ渡って生きている訳ではありません。でも実は、歴史の中で、その時代時代の厳しさを真正面から受けて生きながら、本当に歴史を前へ進めてきたのは、そうした名前を知られていない無数の人たちなのです。
★歴史を振り返る時に大事なのは、過去の時代の中に生きていたはずの名前も知られていない小さな一人ひとりの人たちが何を感じて、どんなふうに考え、どのように生きていたかを知ることなのです。そして、とりわけ大事なことは、そうした小さな一人ひとりの人々の痛みや悲しみに思いを向けることです。わたしたちも、生きる中でさまざまな痛みや悲しみを経験するでしょう。そうした人間の痛みや悲しみは共感されることによって、はじめて和らげられ、癒され、そして歴史は前へと進むことになります。歴史を振り返るということは、人間が経験してきた痛みや悲しみを癒す働きなのです。
# by oji-church | 2018-09-05 13:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「過去のことでも、他人事でもない」

★8月9日から12日にかけて北支区と韓国基督教長老会ソウル老会の日韓青少年合同修養会が催されました。韓国のソウル老会から中高生を十数名迎えて、日本の北支区の諸教会の中高生と交流します。今年の主題は「日本と朝鮮半島の歴史を振り返る」というものでした。10日には関東大震災の時の朝鮮人の虐殺の事件を振り返って、墨田区の横網から八広までを日韓の中高生たちと一緒に歩いて、事件の掘り起こしをされているグループの方からお話を伺いました。
★震災後、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるとか、爆弾を準備して、暴動を計画しているだとか、家々に火を付けて回っているだとか、事実無根の流言飛語が飛びか周り、一節には軍隊や警察がそのような情報を流したと言われていますが、市井の人々がそこここで自警団を組織し、朝鮮人を片っ端からあぶり出して、手足を縛られ、日本刀で、銃で、鉈で、棍棒で殺され、あるいは多くの人たちが生きたまま石油を掛けて焼き殺し、そのように虐殺していったのです。中には軍隊が出動して、朝鮮人を機関銃でなで殺しにしたという例もあります。殺された朝鮮人の数は数千人とも言われていますが、事件後、政府も軍も警察も事件を葬り去ろうとして、確かな記録が残っていないため、真相はまだまだ分からない点が多いのです。
★学者の吉野作造という人が、事件後、調査をした記録には、この王子でも81人の朝鮮人の方が殺されたという記録が残っています。他人事では全くありません。また、今もなお、殺された人の子孫は悲しみを携えて、遺骨を捜しているというお話もありました。そしていままた、韓国・朝鮮の人たちに対するヘイトスピーチが横行して、「朝鮮人を殺せ、韓国人を殺せ」と叫ぶ人たちが巷で堂々とデモを行う時代になっています。これは決して過去のことではありませんし、忘れ去ってよい事でもありません。忘れ去ってしまえば、必ずまた同じことが起こることになるでしょう。これは決して過去の事ではないということを心に刻む必要があります。
# by oji-church | 2018-08-23 15:40 | 牧師からのメッセ-ジ
王子教会のメールアドレスを以下に変更いたしました。

ouji-church@kxb.biglobe.ne.jp

よろしくお願いいたします。

# by oji-church | 2018-08-23 15:18 | 全体のお知らせ
「『恥』の意味」③

★わたしたちはこの世に生きる中で、しばしば神様ではなく、この世の力ある者の考え方に染められて、神様に従うのではなく、この世の価値観に、世間体に従って、神様との約束を破ってしまいます。人の弱さを受けとめて、自分の弱さと結んで互いに助け合い支え合い守り合うよりも、人間の弱さを「恥ずかしい」と思ってしまう。
★ペトロは後の方になって、相変わらず力ある人の前に屈して、イエス様のことを三度にわたって「知らない」と否定してしまいます。しかしヨハネによる福音書には、復活されたイエス様がやはり三度にわたって「あなたはわたしを愛するか」と問い返すのです。三度イエス様を否んだペトロに、三度イエス様は「あなたはわたしを愛するか」と聞き返すことによって、約束を交わした自分と、約束を破った自分とに、真っ二つに引き裂かれたペトロを、赦し、癒したと言えるのでしょう。このイエス様の赦しと癒しを覚え、たびたびに渡って神様との約束を破ってしまうわたしたちが、そんな自分の苦さを噛みしめながら、再び、何度でも立ち帰って、やはり神様に従っていくことを求め、志すことが何よりも大事なことなのだろうと思うのです。
★戦前、戦時下の日本の教会の歴史を辿る時、それはまさに、神様に従わず、政府や軍部に従って、戦争に協力し、加担し、突き進んでいった歴史でした。戦後、日本の教会はそんな戦前、戦時下の教会の「恥ずかしい」歴史を忘れようとしてきました。でも大切なことはその「恥ずかしさ」を忘れることではなく、またそんな「恥ずかしい」歴史を作ってしまった教会を「これはダメだ」と切り捨てることでもなく、その「苦さ」を噛みしめ、背負いつつ、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に従っていくことに立ち帰り、それを求め志し続けていくことでしょう。その「苦さ」を忘れることなく噛みしめ、背負っていくことが、「自分の十字架を背負う」ということなのではないかと思うのです。そうして、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に、イエス様に従っていくことに立ち帰り、それを求め、志していくことなのでしょう。
# by oji-church | 2018-08-15 11:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」②

★神様から見られて「恥ずかしい」ことって一体何でしょうか。わたしたちは神様によって創られ、神様によって愛されて、この世に生きる者とされたというのが、聖書に語られていることです。神様によって愛されるわたしたちは、神様との間に約束を交わして生きる。神様と共に、神様に従って生きるという約束。それは、神様がこの世に生きるすべての命を愛していつくしむ限り、わたしたちもまた、この世に生きるすべての命を大切にして生きるということでしょう。しかしわたしたちは、時に、神様に従うよりも、この世の力ある人に従って生き、人間同士の争いに加わったり、誰かを見下し、邪魔にして排除してしまったり、この世に生きるすべての命を大切にして生きるという神様との約束を破ってしまう。それが神様から見られて「恥ずかしい」ことではないか。
★第二次世界大戦中にドイツでナチスに抵抗して逮捕されて収容所に送られ、処刑された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが、「恥」についてこんなふうに語っています。「恥は、人間の分裂を知った時に発生する」。つまり、わたしたちが神様と(誰かと)約束を交わす。その約束を守ることができれば、わたしたちは自分のことをまっとうな人間だと思える。だけれども、わたしたちは時にその約束を破ってしまうことがある。その時、わたしたちは、約束を交わした自分と、交わした約束を破ってしまう自分と、二つの自分に引き裂かれてしまう。その時に「恥」が生まれる。これこそが、神様に対して「恥ずかしい」と思う「恥」なのでしょう。(つづく)
# by oji-church | 2018-08-08 12:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」

〈神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。〉(マルコによる福音書8章38節)。

★日本は「恥の文化」だと言われます。『新明解国語辞典』で「恥」という言葉を調べてみたら、二つの意味がありました。一つ目は、「世間体を意識した時に、ばかにして笑われるのではないかと思われるような欠点・失敗・敗北・言動など(を自省する気持)」。二番目の意味として、「自ら人間として(道徳的に)未熟なところがあるのを反省すること(気持)」。「恥」という気持ちには二つの面がある。一つ目は「世間体を気にして、ばかにして笑われるのではないかと思われる」気持ち。もう一つは、「自ら人間として未熟なところがあるのを反省する」気持ち。日本が「恥の文化」だと言われるのは、一番目の意味で「恥」を気にする気持ちが強い文化だということでしょう。わたしたちが何かを恥かしいと判断するものさしは「世間体」なのです。
★一方、もう一つの意味では、ものさしは、「自分自身」(深いところにある)「人間」(普遍的な意味で)「道徳的」(何が正しいことか、全ての人に当てはまる基準)というものです。でも、日本の社会では、こちらの意味の「恥」は、それほど意識されません。「深いところにある自分自身」「普遍的な人間というもの」「全ての人に当てはまる基準としての道徳」。これらは言い換えれば神様のことと言えるかもしれません。「恥の文化」の日本は、人から見られた時に「恥ずかしい」と思われることは極度に気にするけれども、神様から見られた時に「恥ずかしい」と思われることはあまり気にしない。
★イエス様はもう一度、わたしたちに、人から見られて「恥ずかしい」と思うことではなく、神様から見られて「恥ずかしい」と思うことを「恥ずかしい」と思うように、呼びかけているのです。(つづく)
# by oji-church | 2018-08-08 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「『受難』の意味」

〈人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている〉(マルコによる福音書8章31節)。

★以前NHKで放映された石牟礼道子さんの追悼番組の中で語られていた言葉に深く心を打たれました。緒方正人さんという方、この方は水俣病認定申請患者協議会の会長を務められた方でしたが、やがて会長を辞め、協議会も辞め、申請までも取り下げられた方です。認定の申請という形で闘うのではなく、人間として人間であるはず会社の人々に語りかける形で向き合おうとされてこられたました。その緒方さんが、石牟礼道子さんについて、こんなことを語っておられました。石牟礼さんはもともと、この世界の中で、人間が別枠にあるのではなく、沢山の生き物の中に連なって生きているという思いを持っておられた。石牟礼さんは、被害者の置かれている状況に対して「受難」という言い方をしていたと。単に病気で苦しんでいるということだけでなく、そこには生活の苦しさも、家族が崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを丸ごとすくい取ろうとする慈悲深さが石牟礼さんにはあったと。それが「受難」という言葉を石牟礼道子さんが使った意味ではないかと語っておられました。
 石牟礼さんの語る「受難」という言葉が、今日の場面のイエス様の言葉と重なって響いてきました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」。この苦しみは、イエス様一人の苦しみではなく、イエス様が目の前にし、傍近くに、肌身に触れて身を寄せた人たちの負っていた苦しみだったでしょう。「生活の苦しさも、家族は崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを」自分の苦しみとして受けとめて、「丸ごとすくい取ろうとする」イエス様の思いがこめられているのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2018-07-26 12:05 | 牧師からのメッセ-ジ