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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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5月19日(日)(復活節第5主日)

・子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】聖霊の約束


*子どもの教会の礼拝には、おとなもご参加いただけます。


・主日礼拝 午前10時30分

 説教「福音のそばには」

 大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書第14章1〜10節

【讃美歌】28.390.433.487.65-2.90-3.

【招詞】ヨハネの黙示録1章17c〜18節

【詩編交読】145編14〜21節


*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



# by oji-church | 2019-05-16 14:19 | 全体のお知らせ

熱狂でも、無関心でもなく


★先週は、テレビをつければ5秒に一度は「令和」という言葉が連呼され、あたかも全世界が改まったかのようなお祝いムードが報じられました。一方、5月3日は憲法記念日でしたが、一部の人たちを除いては、そこで憲法のことが顧みられた様子はありません。一方にお祭り騒ぎやお祝いムードには熱狂が沸き起こり、しかし他方では現実の国や社会のありように対しては無関心が覆っているのが、いまのこの国のありようではないかと思います。

★熱狂と無関心は正反対のふるまいのように思えますが、実は表裏一体です。いずれもが現実を見えなくさせ、やがて人の命を奪うことへと行き着きます。キリスト教もしばしば熱狂に冒されてきました。ヨーロッパの中世の十字軍という熱狂。異端審問という熱狂。その中で多くの人たちが虐殺され、宗教改革の時代には、カトリックもプロテスタントも「異端」を殺すことに熱狂しました。その後、大航海時代以降はアジアやアフリカの地域を植民地とするのと並行して「世界伝道」の熱狂の中で、現地の人々がもともと信じていた宗教を弾圧し、やはり多くの人の命を奪いました。

★20世紀、人々は戦争に熱狂し、何千万という人が命を奪われました。21世紀に入っても、2001年9月11日の同時多発テロを発端として、アフガニスタン、イラクでの戦争の熱狂がありありました。わたしたちはいまも、そんな熱狂の余波の中で生きているのかもしれません。そんな熱狂に巻き込まれたくないという思いから、この世の事柄に無関心になる人もいますが、でも無関心は結局、熱狂による暴力を野放しにし、容認することにしかなりません。熱狂の渦に巻き込まれるのでなく、しかし無関心に陥ってしまうのでもない生き方が求められるのではないでしょうか。



# by oji-church | 2019-05-16 14:17 | 牧師からのメッセ-ジ

歴史をつなげて、〈いま〉を生きる


★天皇が代替わりし、元号が「平成」から「令和」となるそうです。わたし自身はもう長らく日常生活で元号は使っていないので、そもそも今年が「平成」何年だかもよく分からないのです。歴史を勉強する者にとって元号ほど不便なものはありません。「明治何年」「大正何年」「昭和何年」と言われてもそれが今から何年前のことなのか、同じ年に外国では何があったのか、計算し直して見なければ分からないのです。

★日本人は他の国や地域の人たちと比べて、自国の歴史を他の国や地域の歴史と繋げて、また自分自身に繋げて考えることが不得意だと言われます。それは、もしかしたらこの元号のせいではないかという気がしてくきます。元号が変われば、過去は現在との繋がりを失い、やがて消え去り、忘れ去られていくのです。また同時に、日本以外の国や地域との繋がりも失われ、日本にとって都合のいい歴史解釈だけが横行するようになります。

★天皇あるいは天皇制というのは、そもそもが国民を一つの方向に仕向けるために用いられる「道具」なのです。天皇はそのように自分が「道具」として用いられることを、拒否できません。いま、人々がこぞって天皇を礼賛し、天皇の姿に熱狂して一色に染まる様子を見るにつけ、わたしはおそれを禁じ得ません。戦争前も人々は同じように天皇を礼賛し、天皇に熱狂しました。時の政府はそれを最大限に利用して、戦争へと人々を導いていったのです。その歴史をかえりみるとき、「果たして今のこの状況は、わたしたちにとって『よいもの』なのだろうか」という疑問が湧いてきます。歴史とつながって、歴史をかえりみることが、わたしたちを立ち止まらせ、未来を深く考えさせます。そのように自分を歴史に繋げて考えることは、わたしたちが「いまを生きる」上で、是非とも必要なことなのです。


# by oji-church | 2019-05-08 13:17 | 牧師からのメッセ-ジ
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# by oji-church | 2019-05-02 14:37 | みちばたの教会

「おはよう」

〈すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。〉(マタイによる福音書28章9節)。

★復活されたイエス様が出会った女性たちに、最初に発した言葉は「おはよう」でした。「復活」という驚くべき出来事の中で、「おはよう」と言うのは、なんとも間の抜けた言葉です。ですが、わたしはこの「おはよう」という普通の言葉になんだか心引かれるのです。「おはよう」って言ってみて下さい。そのときどんな顔をしているでしょうか。泣いた顔や、怒った顔で「おはよう」って言えるでしょうか。このとき、イエス様はどんな顔をしていたか、思い浮かべてみるのです。それはきっと笑った顔ではないでしょうか。復活したイエス様は、笑った顔で「おはよう」と言ったのです。

★なぜ、笑っているのでしょうか。それは、イエス様だけじゃない、いまも苦しい気持ちや、悲しい気持ちや、痛む心を抱えている人たちと一緒に、イエス様も苦しく、悲しく、痛い思いをしたから、じゃないかと思うのです。つらい思い、苦しい思い、悲しく、痛い思いというのは、決して楽しいことではないでしょう。でも、そういう思いをすることで、誰かのそばにいることが出来たなら、それはイエス様にとっては嬉しいことだったのかもしれません。

★聖書にはこんな言葉があります。「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」。「幸い」というのは「幸せ」ということ。いま泣いている人が幸い、幸せなわけがないと思います。でも、今泣いている人の、その悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちのすぐそばに、イエス様が、同じ悲しい気持ち、苦しい気持ち、痛む気持ちをもって、でも、笑いながら「おはよう」と呼びかけて、一緒にいてくれる。そういうことを、聖書はわたしたちに伝えようとしているのだと思います。


# by oji-church | 2019-04-30 10:36 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(2)

★人間の幸福といってしかし、それは別に富を蓄えて裕福にはぶりよく生きるなんてことではありません。人間というのは、聖書にもありますが、たった一杯の冷たい水にも、あるいはたった一杯の温かい飲み物にも、無上の喜びを感じることができるものです。そのようにささやかな、小さな物事に、こちらが計り知れない大きな喜びを受けとめて、それによって生きる痛み、苦しみ、悲しみの挫折からよみがえり、もう一度立ち上がって人間らしく生きていくようになる、そんな人の姿に幾度も出会い、触れさせていただいてきました。

★「復活はある」というのは、そんな幸福というものに向かっていこうとする、人間のささやかな願い、希望の切なる積み重ね、その一つ一つの先に思い描かれたものではないかと思うのです。聖書が語るのは、神様はその人間の幸福へと向かおうとするささやかな、切なる願いに、きっと応えて、祝福し、守り支え、導き、救い出すのだと、そのことを伝えるためにイエス様をこの世に送られたのだということです。

★生きているということは、現実の制約の中で、ルールに沿って独りで決まった道を進むことではなく、人間同士、出会い、触れ合い、感じ合いながら共に生きることです。

★わたしたちがいまここに生きているということ自体、もうすでに、ルールを越え、現実の制約の壁を越え、死をさえ越えて羽ばたき、出会い、共に生きることのできる、天使のように自由な翼あるいのちを与えられているということなのです。

★ご自分の背中に天使の翼が生えているのが見えるでしょうか。ルールを越え、現実を越えた想像力が必要です。お互いがお互いにとって、天使のような存在であることを見いだしつつ、出会い、触れ合い、感じ合って、ルールを越えて、現実の冷たさを越えて、死をさえ越えて、共に生きゆくものでありたいと願うものです。


# by oji-church | 2019-04-10 17:35 | 牧師からのメッセ-ジ

天使の翼は生えているか(1)

〈あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ〉(マルコによる福音書12章24節)

★牧師という役目を負いながら、幾人かの方々を看取ってきました。しかしどんなに寄り添おうとしても、死を越えてその向こう側まで寄り添うことはできません。その方が息を引き取られれば、すぐにご葬儀の手配やら準備やら実際的な作業に切り換わるというのが牧師という仕事の性分です。その傍らで感じていたのは、死というものの「絶対的な冷たさ」でした。人のいのちは死ねば、もうそこで終わりなのだ。それはもうどうすることもできないのだ。そういう死というものの厳然たる事実を冷静に受けとめることが大切なのだ、と、そんな声がわたしの胸の内にこだましていました。

 けれども人間というのは、どれだけ現実が厳しく冷たいものであったとしても、それでもなお、その冷たい現実を越えたところにある「幸福」というものに向かって思いを巡らし、想像の翼を羽ばたかせてきたのではないだろうか。その中から、一人ひとりの人間が幸せに生きる、つまり、ほんとうに人間らしく生きるという営みも、一歩一歩形作られてきたのじゃないだろうか。そうであるならば、それがどんなに非現実的な想像であったとしても、それを嘲ることは、やっぱりよくないことなのじゃないだろうか。そんなふうに思うようになりました。(つづく)


# by oji-church | 2019-04-04 17:12 | 牧師からのメッセ-ジ

神の言葉に導かれつづける

★3月11日に王子教会員であられたKさんが天に召されました。16日に浦和の葬祭場にて大久保の司式により告別式を執り行いました。Kさんは、1950年に当時王子神谷にあった王子東教会において藤城安治牧師より洗礼を受けられました。その後、藤城牧師のご都合により王子東教会が解散することとなり、1952年に、Sさん(故人)やHさん(故人)等とともに、王子教会に転会されました。その後、ご結婚、お子様も生まれて浦和に転居され、教会も浦和東教会に転会されました。2001年に、Sさんの導きにより再び王子教会に転会をされました。学生時代には学生YMCAの活動にも熱心に参加されたそうです。

★王子教会に転入されたときの立証の文章には、受洗時に王子東教会から「我らの救主イエス・キリストの新約聖書」と銘打たれた聖書を送られたことが記されています。今回ご葬儀の準備の中で、ご遺族からその聖書現物が残されていることを知らされました。それは縦10×横7〜8センチ程の携帯用の小さな聖書でした。表紙の革張りは擦り切れてゴワゴワと毛羽立っていて、この聖書がただ置いておかれたのではなく、いつも身につけて用いられていたことを伝えています。中を開くと極小の活字が並ぶ中、そこここに折り目や傍線、書き込みが見られます。ご遺族によれば、しばしば胸のポケットからその聖書を取り出して読んでおられたとのことです。

★ご遺族にしたためていただいたKさんの思い出には、こんなことが語られていました。「子供達が小さい頃や孫達が小さい頃、クリスマスには自宅に子供たちをよび、聖書の朗読や讃美歌を歌ったりしていた」。これを読んで、Kさんの中に聖書の言葉がずっと息づいておられたことを知らされました。受洗後、三度教会を変わるという変転を経られたKさんでしたが、その間、実直に変わることなく神様の言葉に導かれつづけられた方であったことが偲ばれます。


# by oji-church | 2019-03-28 13:08 | 牧師からのメッセ-ジ

ほんとうの自由

★東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から八年の月日が経ちました。いま、福島の帰還困難地域を車で通れば、家や道路があっても人影はなく、伸びた草が家々を飲み込もうとしている光景に息をのみます。福島第一原発の脇を通って福島の浜通りを縦断する国道六号線を通れば、町への入り口となる角には厳重にフェンスが張られています。わたしたちが暮らすこの国の一角でいまも続いているありようですが、普段わたしたちがテレビ等でそれを目にすることはほとんど無くなりました。代わりにテレビに映されるのは、オリンピック、天皇の代替わりといった華々しい事業とお祝いムード。原発の再稼働が進められています。避難指示が続々と解除され、避難している被災者への補償や住宅の無償提供などが打ち切られています。オリンピックをゴールとして、あの地震、原発被災を終わったこと、なかったことにすらしようとしているこの国の姿が浮き彫りになります。

★「復興」の名の下に大きく華々しいものが次々建設され、動かされていく一方で、この社会は、小さくて目に見えない、しかしわたしたちが生きていくために欠かすことの出来ないもの、それはあの震災や原発事故で、大きな代償を支払いながらわたしたちに示されたものだったのに、それをいま、次々と壊していっているのではないかという気がします。

★人間は地球上でもっとも知恵ある者として発展してきました。知恵が人間に自由をもたらし、その自由によって人間は欲望を際限なく膨らまし、それを満たしてきました。でも人間のその自由がいま、この世界を壊し、命を壊し、人間自身の命も壊しています。果たしてそれはわたしたちにとってほんとうに「自由」なのでしょうか。人間にとってほんとうの自由とは何なのか、そういうことを改めて考えなければならない時代に、わたしたちは置かれていることを思います。


# by oji-church | 2019-03-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(3)

★人がこの世に生きる中で、わたしたちは必ずしも思った通りに生きることができるわけではありません。不意の病いやしょうがいを負い、様々な失敗や挫折を経験しながら、わたしたちは思い通りにならない人生を生きていかなければなりません。そこにわたしたちの生きる苦しみがあります。でも、そんなさまざまな苦しみに彩られたわたしたちの人生にあっても、なお残される希望があることを聖書はわたしたちに告げています。それは「出会う」ということではないかと。

★互いに生きる苦しみを背負ったわたしとあなたが出会う。それでは何の救いもないと思われるかもしれません。だけれども、その苦しみを、今日のこの場面で人々が叫ぶバルティマイを叱りつけたようにそれを追い払うのではなくて、わたしたち一人ひとりが生きる中で抱える苦しみに目をこらすとき、そこに命の深い深いところから響く声をわたしたちは聞くのではないでしょうか。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」「わたしのこの気持ちを感じ受けてください」、そして「見えるようになりたいのです」と呼びかける声をです。その声によってわたしたちは導かれて、出会い、共に感じ、共に生きる者として結び合わせられていくのでしょう。実は、そんな苦しみから響く声に導かれてわたしたちが互いに出会っていくことこそが、イエス様に従うということ、イエス様を信じるということ、信仰を持つということなのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-03-13 10:16 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(2)

〈イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。〉(マルコによる福音書10章49〜52節)

★イエス様は「立ち止まった」と言われます。「彼を呼んできなさい」と言われました。呼ばれた彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエス様のところにやってきました。もしかして彼は、生まれて初めて自分の願いや希望を受けとめられるという経験をしたのではないでしょうか。それがこの喜びように現れている気がします。

★イエス様は彼に問います。「何をしてほしいのか」。これももしかしたら彼が生まれて初めて経験したことだったかもしれません。自分の願いや希望を尋ねてもらうという経験です。彼は自分の声を上げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これもまた彼にとって初めての経験だったのではないでしょうか。自分の願いと希望を声に出して人に告げるということです。この時点ですでに、彼は救われているといってもいいのかもしれないと思うのです。

★それまで道ばたに「モノ」のように放り置かれた彼が、自分の願いと希望を受けとめられ、その願いと希望を問い尋ねられ、そしてその願いと希望を自分の口で声に出して人に告げる。そのことによって彼は、奪われていた人間性を取り戻したのです。それは、イエス様とバルティマイとの出会いの中で起こったことで、イエス様が彼を一方的に「救ってあげた」のではありません。だからイエス様は言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。(つづく)


# by oji-church | 2019-03-06 11:21 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(1)

〈バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。〉(マルコによる福音書10章46〜48節)

★「憐れむ」という漢字は「心」に「隣り」と書きます。聖書のギリシア語でもこの「憐れむ」という言葉は「同情を懐く」というような意味の言葉です。「憐れむ」も「同情」も最近の日本語の語感としてはあまり良い感じがしませんが、もともとは「同じ気持ちになる」という意味です。最初バルティマイは、いつものようにお金を乞うときの決まり文句として「わたしを憐れんでください」と言っていたのかもしれません。けれども人から叱られてもそれでも止めずに繰り返し叫んでいるうちに、それはいつもの文句であることを越えて、もっともっと深い思いがこもるようになっていったのではないかと想像するのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」、そして「わたしと同じ気持ちになってみてください」と。

★しょうがいを負うがゆえに一人前の人間と見なされず、生きていく上で当たり前の願いや希望を持った一人の人間として生きることを許されず、自分の命の主役として生きることを許されず、人々が普通に歩く道の上を歩くことを許されず、道ばた、道の脇に座り、あたかもそこに放り置かれた命のない、心を持たないモノのように、かすかに生きることだけを許された自分、このわたしのこの気持ちを、どうか感じ受けてほしいと、あなたがダビデの子、ナザレのイエスだと言うのなら。そんな願いになっていったのではないだろうか。この「わたしを憐れんでください」という叫びは。

★イエス様は、そんなバルティマイの深い深いところから湧き上がってくる叫びを聞いたのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-02-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?(2)

★(承前)「あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。支配者が主役ではなく、主役は人々なのです。

★イエス様は、長年出血の止まらなかった女性と出会い、彼女に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼女を生きる主役としました。中風で動けなかった人に「あなたの罪は赦される」と語りかけて、彼が自分の人生を生きる主役とされました。シリア・フェニキアで、自分の娘を手当てしてもらおうと「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と主張した女性に「あなたの言葉通りだ」と語りかけ、彼女を主役とした。イエス様の周りから追い払われようとした子どもたちを真ん中に立たせ、あるいは抱き上げて「神の国はこのような者たちのものである」と語って、子どもたちを主役にしました。イエス様の働きは、一人一人の人間が自分らしく生きて、自分の人生の主役となることができるように、人々を導き解放する働きでした。そこにはイエス様が一人ひとりの人の、その人固有のいのちのありよう、姿に注ぐ愛がありました。

★そうした人をその人のいのちの主役に据えようとするイエス様の働きが、支配者が支配し、権力者が自分のために権力をほしいままにする当時のローマ帝国が支配する社会とぶつかって、イエス様は「祭司長や律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて、殺される」ことになりました。けれども、そのイエス様の姿は決して自分一人が犠牲になればいいということではなく、あくまで一人ひとりの、その人固有のいのちのありようを愛して、その人をいのちの主役に据えようとするイエス様の働きの末のことだと思わなければならないでしょう。誰かが犠牲になればいいということではないのです。


# by oji-church | 2019-02-20 10:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?

〈諸民族の第一人者と見なされている者が彼らを支配し、その中の大きな者たちが彼らに対して権力をほしいままにしている。しかし、あなたがたにおいてはそうではない。あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい〉(マルコによる福音書10章42〜44節・私訳)

★この言葉の前半が表しているのは、当時のローマ帝国の支配をです。ローマ帝国には第一人者つまり皇帝がいて、諸民族を支配し、また皇帝のもとには元老院という組織があって、大きな者たち、つまり元老たちが権力をほしいままにしていました。イエス様の故郷であるガリラヤもエルサレムのあるユダヤも、いずれもこのローマ帝国の支配の中に組み込まれていました。しかし、イエス様は「あなたがたにおいてはそうではない」と言われます。新共同訳聖書では「あなたがたの間ではそうではない」と訳されていますが、「間」という言葉は余計です。こうして教会で聖書を読み「あなたがたの間では」と言われると、教会のいわゆる「兄弟姉妹」、「クリスチャンの間では」という意味に取られてしまいがちですが、クリスチャンであるか否かにかかわらず、人間誰しも本来の姿ではそうではないはずだ、という意味で語られています。人間本来の姿にあっては、支配者が人々を支配し、偉い人たちが権力をほしいままにするなんてことにはならないはずだ。そういう人間本来の自由と平等をここでイエス様は宣言しているのです。

★後半の言葉でイエス様は、そうしたローマ帝国の支配のありようをあからさまにひっくり返して語ります。「……大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、……第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。この言葉は、国家転覆罪に問われてもおかしくない言葉なのです。(つづく)


# by oji-church | 2019-02-12 17:16 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(2)

★(承前)「誰もが神の国に入るのは難しい」。そう言ってみて、イエス様は途方に暮れたのではないでしょうか。弟子たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに顔を見合わせながら、途方に暮れたことでしょう。ここでもう一度、イエス様は「彼らを見つめて」と言われています。伝道師に失敗して、自分を慕って福音を求めてやってきた人を、悲しみながら立ち去らせることしかできなかった自分の情けなさ、ふがいなさ、悲しさを、弟子たちにも分かち持ってもらって慰めてもらいたかった。でも弟子たちは全然イエス様の悲しみなんて気づかずにお構いなしでした。でもいまここで、途方に暮れているというただその一点では、イエス様と弟子たちは同じ姿をしています。このとき、イエス様のまなざしも、弟子たちのまなざしも、同じように宙をさまよっていたのじゃないだろうか。いや、宙をさまよっていたのではなくて、空を見上げていたのかもしれません。イエス様は弟子たちを見つめ(この弟子たちに注がれたイエス様のまなざしは、あの金持ちといわれた人を慈しんで見つめたのと同じまなざしだったでしょう)、言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。

★やはり最後には神様に委ねていくしかないのです。この点でイエス様も弟子たちも同じところに立っています。結局、この「同じところに立って、共に天を仰ぎ、『人間にできることではないが、神にはできる、神には何でも出来るからだ』と、神様に委ねていく」ことこそが、実は「永遠の命を受け継ぐ」ことなのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-02-06 15:48 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(1)

〈イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。〉(マルコ10章23〜26節)

★「弟子たちを見回して」という何気ない一言に心引かれます。せっかく福音を求め、自分を慕ってやってきた人が、気を落として悲しみながら去っていく、その背中を見送り、姿が見えなくなれば宙をさまようしかなかったイエス様のまなざしが、今は傍らの弟子たちを見回しています。まなざしは行き場を探しているのです。イエス様は、弟子たちに慰めてもらいたかったのじゃないか。伝道に失敗したのです。自分の不甲斐なさ、情けなさ、悲しみを弟子たちにも分かち持ってもらいたかったのじゃないか。

★でも弟子たちは何も言ってくれないから、仕方なく自分で言います。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは言い訳。もっと説得力があれば、彼にも伝わったかもしれません。だから言い直す。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」。金持ちに限らず、人が福音を受けとめて、神様と共に歩み出すことは容易ではありません。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。「金持ちが」という言葉は後から付け加えられたような気がします。それは弟子たちの反応を見れば分かります。「金持ちが神の国に入るのが難しい」というだけであれば、「だれが救われるのだろうか」と問う必要はありません。答えは簡単。金持ちでない人が神の国に入るのですから。でも弟子たちがこうして驚いて、いぶかしがるのは、金持ちばかりでなく、誰もが「神の国に入るのは難しい」「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたからでしょう。(つづく)



# by oji-church | 2019-01-31 13:58 | 牧師からのメッセ-ジ

「わたし」と「あなた」とのあいだに(2)

★(承前)わたしたちは、ホモ・サピエンス一個体として生きているのではありません。「わたし」という者を生きているのです。そしてそのわたしは、自分がどこから来たのか分からないという不安の中、暗がりの中に生きています。そんなわたしに向かって、だれかが「あなた」と呼びかけてくるのです。最初はびっくりするかもしれません。でも、「あなた」と呼びかけられることによって、わたしは暗がりの中にあっても、決してひとりぼっちじゃないということに気づかされます。

★わたしがいて、そのわたしを「あなた」と呼びかける誰かがいる。それはホモ・サピエンスが二個体いるという以上のことです。「あなた」と呼びかけらて、わたしは暗がりの中でもひとりぼっちじゃないことを知らされ、少しばかりの勇気を持つことができるようになる。そしてまた、その声は言います。「あなたはわたしの愛する子」。その声はただわたしに向かって「あなた」と呼びかけるだけじゃない。このわたしのことを「愛している」、大切に思っている、と言う。いやそれ以上。「愛する子」とは、自分につながっている者として、責任をもって大切に思っているということでしょう。

★「わたしの心に適う者」。ここのところは元のギリシア語の聖書では「わたしはあなたのことを喜ぶ」と書かれています。わたしがここにいるということが、その人にとって「うれしい」ということ。わたしに向かって「あなた」と呼びかけるその人が、わたしがここにいることを嬉しく思っている。喜んでいる。どこから来たのかも分からないわたしなのに。この呼びかけによって、わたしは、自分がどこから来たのか分からなかったとしても、いまここにいる自分がとても大切な存在なのだと分かるようになる。そして誰かにとって大切な存在であるこのわたしを、誰かを幸せにすることができるこのわたしを、生きていこう、生かしていこうという気持ちが沸き出してくる。どこから来たのか分からなかったとしても。



# by oji-church | 2019-01-24 13:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「わたし」と「あなた」とのあいだに(1)

〈そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた〉(マルコによる福音書1章9〜11節)

★ここでイエス様はどこからともなく登場します。「ガリラヤのナザレから来て」とありますが、マタイやルカの福音書にはイエスの誕生物語があるのに対して、マルコによる福音書にはなぜイエス様が「ガリラヤのナザレ」から来ることになったのか説明がありません。このイエス様の登場は、わたしたちの人生にありように似ています。わたしたちも、どこからともなくこの世に現れて、気付いた時にはもう、生まれて生きてしまっていましたから。わたしたちは自分がどこから来たのか分からないのです。どこから来たのか分からないので、どこへゆくのかもよく分かりません。それでわたしたちは、人生の中でいつもどこかに不安を抱えています。

★近頃AI(人工知能)という言葉をよく耳にするようになりました。わたしたちに分からないことでも、AIがわたしたちの代わりに考えて、正しい答えを見つけてくれるように言われることも少なくありません。でも果たしてAIは、わたしたちがどこから来てどこへゆくのか、この問いに答えてくれるでしょうか。

★科学では人はただの生き物と見なされます。人が一人いれば、ホモ・サピエンスという生き物が一個体いるということですし、二人いたら二個体いるということです。でもわたしたちは、ホモ・サピエンス一個体として生きているのではありません。「わたし」という者を生きているのです。そしてそのわたしは、自分がどこから来たのか分からないという不安の中、暗がりの中に生きています。それがわたしたちとAIとの違うところです。(つづく)



# by oji-church | 2019-01-16 14:02 | 牧師からのメッセ-ジ

災いの中に平和の種をまく


〈バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。〉(エレミヤ書29章10〜14節)

★2018年を表す漢字に「災」という字が選ばれました。自然災害のみならず政治や国同士の関係を見ても良いことよりも「災い」と見えることの方が多く感じられます。

★預言者エレミヤは、ユダの国がバビロニアに滅ぼされ、捕囚として連れ去られた人々が戻ってくるこられるのは70年後と語ります。連れ去られた人たちその人はもう生きてユダに帰ってくることができません。しかしエレミヤはそれを、神様の「平和の計画」であって「災いの計画」ではないと語ります。

★エレミヤはこうも語ります。「エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。……わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレミヤ29章4〜7節)。

★力を持つ人々が、我勝ちにじぶんの都合だけを優先しているのが、現代の「災い」を生み出していると言えるでしょう。自分に不都合と思える状況にあっても(捕囚として送られた)、他者(その町)の平和を求める時、むしろわたしたちにも平和が訪れるのです。そのとき、厳しい時代の中にあっても、神様はわたしたちと共におられ、わたしたちは、本当の平和を見いだすことができるのでしょう。



# by oji-church | 2019-01-09 10:28 | 牧師からのメッセ-ジ

年の終わりに——終わったことにしないで

★2018年最後の日曜日になりました。皆さんにとってどんな年だったでしょうか。2月・3月にはお隣の韓国で北朝鮮も参加して冬季オリンピック・パラリンピックが開催され、4月には南北会談で両国の首脳が38度線を越えて行き来し、朝鮮戦争の終戦を目指す「板門店宣言」が出されたことは歴史に残ることでした。しかし日本では、韓国政府が2015年の日本軍「慰安婦」に関する「日韓合意」について「被害者を排除して解決を図ったことは間違いだった」と表明したことや、戦時下の徴用工について韓国の裁判所が賠償命令を出したことから、韓国に敵対的な論調が目立っています。日本政府は「あの戦争」を「終わったこと」として忘れようとしますが、被害を受けた人たちにとっては戦争はまだ終わっていないことを思わなければなりません。平和は、戦争を忘れることで訪れるものではなく、銘記して二度とそのようなことが起こらないように、いまここで、力ではなく対話による理解を深めていくことによって作られるものです。7月にオウム真理教事件に関わった死刑囚の人たちが次々に処刑されました。これもまた力によって「終わったこと」にしようとしているように思えます。

★6月には大阪で地震があり、7月の豪雨では200人以上の方々が亡くなりました。9月の北海道での地震でも多くの人が亡くなりました。温暖化による気候変動は人間が招いている側面が強くあります。寺田寅彦という人が「災害は忘れたころにやってくる」と言いました。自然は「忘れないように」とわたしたちに警告しているように思えます。


# by oji-church | 2019-01-03 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ