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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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7月3日(日)【聖霊降臨節第5主日】

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】わたしたちにおいて働く聖霊

*子どもの教会礼拝には、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝 午前10時30分

 説教「呪いを結び集めれば」大久保正禎牧師

【聖書】ガラテヤの信徒への手紙3章13〜14節

【招詞】イザヤ書53章4〜5節

【讃美歌】26.61.304.280.64.91-1.

【詩編交読】146編5〜10節

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。お子様連れの方も大歓迎です。

*子どもの教会礼拝・主日礼拝は現在、新型コロナウイルス感染防止のため、手洗い・消毒・マスク着用・換気・ソーシャルディスタンスに留意して行っています。



# by oji-church | 2022-06-28 14:11 | 全体のお知らせ

「霊」を分かち合う出会い

〈目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。〉(ガラテヤの信徒への手紙3章1節)

★パウロはガラテヤの人々に、自分が出会ったキリスト=イエス様のことを語り聞かせました。それは「十字架につけられた姿」、ひたすらに人と出会い、触れ合い、人を守り助け、そのように人を愛することによってその身に傷を負ったイエス様の姿でした。神様はすべての人に向かって、その人がどうあれ「必ずあなたを見つけ出し、どこまでもあなたを愛し通そう」と呼びかけられている。その神様に従って、人と出会い、傷つき汚れることをいとわずに人を愛し通して生き通されたイエス様の生きざま、それをパウロは「イエス・キリストの信」と呼んで宣べ伝えたのでした。それがパウロが宣べ伝えた「福音」というものでした。ガラテヤの人々はこのパウロの「福音」を聞き、受けとめたのでした。それがパウロとガラテヤの人々との出会いでした。

★コロナ禍の中、わたしたちの社会は今、人同士出会い、触れ合うことが難しい状況です。他面、教会はインターネットを活用して出会い、触れ合うことが無くても伝道する手段を手にしました。けれども教会とはそもそも、インターネットはもちろん、映像も画像も絵も無く、文字を持ち運ぶことも困難で、歩いて旅をし、出会い、「イエス・キリストの信」を口で描き出して語り、それを耳で聞くことによって始まるものでした。伝える手段はまことに貧しいものでしたが、そこには、生きた心と心、命と命を結び合わせ、お互いを愛し、思いやり、いたわり合う生き生きとしたつながり=友情=連帯、「霊」が生まれていました。キリスト教の伝道とはこの「霊」を分かち合うことに他なりませんでした。パウロにとって伝道とは、クリスチャンの数を増やし、キリスト教の勢力を拡げていくことでとは違うものでした。

6月26日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_14062124.jpg
6月26日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_14065969.jpg
飛鳥山の線路脇のアジサイも見頃を迎えています。


# by oji-church | 2022-06-28 14:07 | 牧師からのメッセ-ジ

イエス・キリストの信によって(3)

★(承前)「人はただ、イエス・キリストの〈信〉によって義とされる」。「義とされる」という言い方、あるいは「義認」とも言われますが、この言葉は日本語ではあまり馴染みがありません。鈴木正久牧師が、これはむしろ「是とされる」「是認」と言ったほうがいいのではないかと言われています。「義とする」も「是とする」も「よしとする」という意味に違いありません。ただ「義とする」と言うと「絶対間違いがない」という意味が強調される気がします。それに対して「是」という言葉には同じ「よし」でも「まあ、いいか」というようなニュアンスが含まれる気がします。

★調べて見ると「是」という漢字は、一つには、上の「日」という字がお日様を表しており、下の部分はもとは「正しい」という字で「お日様に照らして明らかに正しい」という意味だそうなのですが、もう一つ、上の「日」の字とその下の横棒と縦棒でお匙、スプーンを表してもいるというのです。手元にあるスプーンをということで「これ」という意味も「是」という字にはあります。つまり、わたしたちが良くても悪くても、わたしたちは神様がその手元に握って決して離さないお気に入りのスプーンのようなものだということ。

★聖書が語る「義とする」ということの中には、そんな神様の「まあ、いいか」という声がが響いているように思うのです。そしてこの神様の「まあ、いいか」こそが、わたしたちにとって他の何者よりも信頼に足る、確かな、誠実な呼びかけ=〈信〉なのだということです。


# by oji-church | 2022-06-22 12:10 | 牧師からのメッセ-ジ

イエス・キリストの信によって(2)

★(承前)「人はただ、イエス・キリストの〈信〉によって義とされる」。これがガラテヤの信徒への手紙2章16節のギリシア語原文通りの言い方です。つまり、「わたしが」イエス・キリストを信じている、信仰している、その「わたしの信仰」によって、わたしは救われるのではないのです。そうではなくて、「イエス・キリストの信」つまり「イエス様は、十字架に至るまで、必ず愛し通される、信頼するに足る誠実な方だ」。あるいは「そのイエス様によって示された神様はどこまでも、必ず、人を愛し通される確かな神様だ」ということ。そのイエス様のありよう、神様のありよう、その誠実さ、確かさによってこそ、わたしたちは救われるということです。

★このイエス様の誠実さ、神様の確かさ、その「信」は、わたしたちが律法の掟を、ルールを守っているかどうか、わたしたちがどれだけイエス様のことを信じられているかどうか。そんなわたしたち人間のがわの程度の違いなんぞに左右されてブレるようなヤワなものではありません。だから「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」。わたしたちもそれに応えてこの「イエス・キリストの信」に〈腰を据える〉のだとパウロは語るのです。

★出発点は、「わたしが」「わたしたちが」ルールを守れているか、あるいは、信じることができているかどうかではない。出発点はわたしたちの側ではなく、救いの出発点はいつも神様のがわ、イエス様のがわなのだということです。(つづく)

6月12日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_10140574.jpg
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植え込みのアジサイがきれいに咲きました。




# by oji-church | 2022-06-15 10:15 | 牧師からのメッセ-ジ

イエス・キリストの信によって(1)

〈人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされるとしって、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。〉(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)

★新共同訳聖書では「イエス・キリスト〈へ〉の信仰によって」と訳されていますが、元のギリシア語原文では「イエス・キリスト〈の〉信仰によって」と書かれています。〈へ〉の字が余計なのです。

★日本語で「信仰」と言えば、神や仏といった宗教的な対象に対する「信心」というような意味で語られます。いっぽう聖書で「信仰」と訳される言葉は〈ピスティス〉というギリシア語ですが、この言葉は確かに日本語で言うところの「信仰」「信心」という意味もあるのですが、それだけでなくもっと広い意味が込められている言葉なのです。

★ピスティスというこの言葉のもともとの意味は「誠実」とか「信頼」といった意味です。もっと言いますと、「相手が信頼するに足る誠実な者である・確かな者であること」、その様子を表すのがピスティスという言葉なのです。例えば、○○さんは言葉に全くブレがない。言ったことはその通りに行う誠実な人だ、と言う場合に「○○さんはピスティスだ」と言うのです。そして「信じる」「信仰する」ということは、その相手の誠実さ・確かさに自分が「腰を据える」ということになります。英語では何かを「信じる」という時にに「ビリーブ」という動詞の後に「イン〜」と付けます。これも同じことで、「ビリーブ」という言葉は「信じる」というよりも「腰を据える」という感じで「ビリーブ・イン〜」という言い方で「〜の確かさに腰を据える」という意味で「信じる」「信頼する」という意味になるのです。(つづく)



# by oji-church | 2022-06-08 08:34 | 牧師からのメッセ-ジ