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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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11月29日の礼拝のご案内

11月29日(日)【待降節第1主日】

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】創造主—人間の罪への働きかけ

*子どもの教会礼拝には、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝 午前10時30分

説教「キリストの信によって」大久保正禎牧師

【聖書】ルカによる福音書10章21〜22節

 ローマの信徒への手紙3章21〜24節

【招詞】イザヤ書2章4〜5節

【讃美歌】29.393.236.218.64.91-1.

【詩編交読】リタニーを用います。

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。お子様連れの方も大歓迎です。

*子どもの教会礼拝・主日礼拝ともに、新型コロナウイルス感染防止のため、手洗い・消毒・マスク着用・換気・フィジカルディスタンスに留意して行っています。



# by oji-church | 2020-11-25 12:40 | 全体のお知らせ

神の誠実(1)

彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。〉(ローマの信徒への手紙第3章2〜4節)

★『広辞苑』には「誠実」という言葉についてこう書かれていました。「〔他人や仕事に対して〕まじめで真心がこもっていること」。『大辞泉』では「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること」。『新明解国語辞典』「言動にうそ・偽りやごまかしが無く、常に良心の命ずるままに行動する様子だ」。誠実さの条件の一つは真心、うそ・偽りがないということ、そして私利私欲=自分の利益や欲望ためではなく、良心に沿って行動することだと言えそうです。

★誠実とは一人では成り立ちません。関係の中で、相手に対する誠実として表されます。誰かに対して誠実に振る舞った時、その誠実な振る舞いに対して、相手が誠実に応えてくれなかった時、しばしばわたしたちはもうその相手に対して誠実に振る舞うことを止めてしまいます。でもそれは果たして元から誠実な振る舞いだったと言えるだろうか。それはもしかして相手の誠実さを引き出そうとするわたしの利益、わたしの欲望のための振る舞いに過ぎないのではないでしょうか。しかしわたしたちの誠実さというのは、往々にしてそのようにして終わってしまうものです。相手が誠実に答えてくれなければ、もう誠実に振る舞うのなんてばかばかしいから止めてしまおうと。そのようにしてわたしたちの周りでは往々にして、誠実の振る舞いというものはちょっとしたキッカケで泡が弾けるように消えていってしまうものです。後には形ばっかり、言葉づらのキレイゴトだけが残ります。(つづく)


11月22日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_12335867.jpg
11月22日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_12341162.jpg
石神井川沿いの公園で。ナナカマドでしょうか。すごいことになっています。




# by oji-church | 2020-11-25 12:35 | 牧師からのメッセ-ジ

見えない命の広がりによって

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。……それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。〉(コリントの信徒への手紙二第5章2〜4節)

★呻き続ける人生の末に、地上の粗末な幕屋が朽ち果て、裸で暗闇の中に放り出される。死というものに対してわたしたちが思い描くのはこんなイメージかもしれません。それは、今生きているわたしたちの目の前にある命、この世を否定した果ての姿です。でも聖書が語るのは、そんなわたしたちの持つ死のイメージを覆して、ちっぽけなわたしたちを乗り越えて、わたしたち皆を包んで広がっていく、果て知れず広大な命のイメージです。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」という。

★このたびのコロナ禍によって今、全世界が死の暗い陰に覆われるかのようでもあります。人と人とが目の前に、顔と顔とを合わせて出会い、親しく触れ合うことを差し控えることを余儀なくされ、わたしたちはいまなお続く試練の中に置かれています。わたしたちはこの試練の中で、人間が作りだした目に見える通信技術にたよって人の繋がりを確保しようとしています。それは確かに便利のようですが、それでは技術の尽きるところで人の繋がりも尽きてしまうでしょう。

★目の前に見えるものの奥底の、見えないところに、命の広い広い世界が死を越えてひろがっているということ、それゆえにこそ命は、死を越えて、計り知れない重みと尊さを負っているのだということを、忘れないでいたいと思うのです。わたしたちは、この重みと尊さを噛みしめることによって(通信技術によってではなく)共に生きる者であるようにと聖書から呼びかけられています。


# by oji-church | 2020-11-18 13:06 | 牧師からのメッセ-ジ

11月15日(日)【降誕前第6主日】

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】創造主—人間の罪への働きかけ

*子どもの教会礼拝には、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝 午前10時30分

 説教「裁く神、共にある神」大久保正禎牧師

【聖書】ローマの信徒への手紙3章5〜8節

【招詞】イザヤ書66章2節b

【讃美歌】27.18.531.65-1.91-1.

【詩編交読】107編10〜22節

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。お子様連れの方も大歓迎です。

*子どもの教会礼拝・主日礼拝ともに、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、手洗い・消毒・マスク着用・換気・フィジカルディスタンスに心がけて行っています。



# by oji-church | 2020-11-10 11:07 | 全体のお知らせ

心に受けて、体が動く(2)

★(承前)自分以外の誰かとわたしたちが出会い、向き合い、触れ合って、繋がるということは、自分が傷つくことでもあります。傷つくことなしに、何かを心深くに刻み、それに促されて人と出会い、触れ合い、繋がることは恐らく出来ないでしょう。北九州市でホームレスの人たちの支援に携わっている奥田知志さんという牧師さんは、こんなふうに言われます。「絆には傷が含まれる」と。あるいは「傷つくことの恵み」ということを。

★誰かがわたしのことを心に深く刻み、それによってわたしと出会い、わたしと向き合い、わたしに触れて、わたしと繋がってくれる。そのようにして誰かがわたしのために傷つく。それによってわたしは自分が生きていることの意味・価値を知らされて救われる。そんな経験があります。同じように、わたしが傷つくことで誰かが救われるのなら、いっそうわたしが生きていることの意味と価値は明らかになるでしょう。わたしが出会うその誰かの生きている意味と価値と共に。

★聖書に語られているのは、神様がわたしたち一人ひとりのことを心に深く刻み、それによって突き動かされ、わたしたちと出会い、わたしたちと向き合い、わたしたちに触れ、わたしたちと繋がる。そのようにして神様がわたしたちのために傷つき、そしてわたしたち一人ひとりを救い上げる。そんな神様の姿です。パウロがこの場面で呼びかけているのは、そんな神様の姿をわたしたちが心に刻み、傷つくことを恐れずに、体を動かして出かけてゆき、出会い、向き合い、触れて繋がる。そんなわたしたちの、形の上、口先、言葉づらではない生き様なのではないかと思います。

★「行って、あなたも同じようにしなさい」。いつもイエス様のこの声がわたしたちのもとには響いています。どうかそれを心の深くに受けとめて、この命の全体でもってそれに応えてゆくものでありたいと願うものです。


11月8日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_11025303.jpg
秋が深まり、植え込みにヴィオラを植えました。ナンチャッテロックガーデン風



# by oji-church | 2020-11-10 11:01 | 牧師からのメッセ-ジ

11月8日(日)【降誕前第7主日】

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】創造主—人間の罪への働きかけ

*子どもの教会礼拝には、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝 午前10時30分

 説教「託された言葉」大久保正禎牧師

【聖書】ローマの信徒への手紙3章1〜8節

【招詞】ペトロの手紙Ⅰ第1章24節b〜25節a

【讃美歌】26.16.149.360.64.91-2.

【詩編交読】116編1〜11節

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。お子様連れの方も大歓迎です。

*子どもの教会礼拝・主日礼拝は、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、手洗い、消毒、マスク着用、換気、フィジカルディスタンスに留意して行っています。



# by oji-church | 2020-11-04 13:50 | 全体のお知らせ

心に受けて、体が動く(1)

〈さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」〉(ルカによる福音書10章36〜37節)

★ある人が山道で追い剥ぎに遭い、半殺しにされて放り出されてしまう。そこを通りかかるのは祭司とレビ人。いずれもユダヤ教の律法の規定では「隣人」と見なされる「まっとうなユダヤ人」です。けれども彼らはその人を見ると、道の反対側を通って行ってしまう。その後に通りかかったのはサマリア人。サマリア人は正統派ユダヤ教とは異なる信仰を持ち、ユダヤ人たちからは敵視・蔑視され、隣人とはみなされていませんでした。しかしそのサマリア人はその人を見ると憐れに思い、近寄って手当てをし、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って介抱し、宿屋の主人に費用を渡して介抱を頼みます。

★最初、律法の専門家がイエス様に尋ねたのは「隣人とは誰ですか?」という問いでした。けれどたとえ話の後でイエス様が聞き返したのは「誰が隣人になったか」というものでした。「隣人」というのは「誰が隣人」と言葉づらで指し示すものではなく、自分の体を動かして隣人に「なる」ものだということでしょう。そして、最後にイエス様は「行って、あなたも同じように〈しなさい〉(=行いなさい)」と呼びかけるのです。

★形の上・口先・言葉づらではなく、内面・霊・心の深いところにおいてわたしたちが何かを受けとめるとき、それは心の中に留まらず、体も含めたわたしたちの命全体の事柄になります。わたしたちはじっとしていられなくなります。わたしたちは体を動かして、自分以外の誰かと出会い、向き合い、触れ合って繋がることになります。(つづく)


11月1日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_11185571.jpg
植え込みのバラが大きな花を咲かせました。



# by oji-church | 2020-11-04 10:55 | 牧師からのメッセ-ジ


つまらない、小さなことだけれども

〈すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』〉(マタイによる福音書25章37〜40節)

★ここで「最も小さい」と訳されている言葉には「劣っている」とか「取るに足らない・つまらない」という意味もあります。この人たちは、生きてくる中である時に、お腹をすかせた一人の人に僅かな食べ物を分けてあげたことがあったのでしょう。あるいはのどの渇いた人に一杯の水を。泊まるところの無かった人に一夜の宿を。着るものに不足した人に僅かな着物を。病気の人を心配して見舞い、牢に閉じ込められた人の孤独を想って訪ねたのでしょう。しかしそれらは世の中ではつまらないこと、取るに足らないことと思われることでした。当人ですら忘れてしまっていたのかもしれません。

★けれど、食べ、飲み、雨露をしのぐこと、着ること、衣食住です。そして病気の看護、孤独の慰め。これらはいずれも命に触れることです。つまらないこと、取るに足らないことだったかもしれないけれど、この人たちは人の命が痛み、苦しがっていたときに、その命に手を伸ばして触れたのでした。善く生きるというのは、もしかしたら、小さな、取るに足らない、つまらないことのように思えることであったとしても、このように、命に触れて生きること、もっと言えば命の痛み、苦しみに触れて生きる、ということなのじゃないかと思ってみるのです。


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教会の植え込みの隅に自然に群生して咲いた花々です。



# by oji-church | 2020-10-28 14:56 | 牧師からのメッセ-ジ

教会にとって他人事ではありません。(その2)

★現在、人間の生きている世界は〈国家〉と〈社会〉の二つによって成り立っています。〈社会〉の無い〈国家〉は独裁国家になります。〈国家〉の無い〈社会〉は無秩序になるでしょう。〈国家〉と〈社会〉は互いに向き合い、対抗・緊張し合う関係を保つことによって人間のよりよい生存が図られます。〈国家〉が〈社会〉を無視して恣意的に振る舞えば、やがて人間の生存を脅かすことになるでしょう。

★自由というもの、学問の自由・言論の自由・表現の自由・思想信条の自由・集会結社の自由・信教の自由も含め自由というものは、国家の恣意と対抗関係にあるものですね。それは〈社会〉と〈国家〉の対抗関係と重なります。この対抗関係(あるいは緊張関係)が維持されることによって〈社会〉の健全性が保たれ、〈国家〉は恣意性を抑制され腐敗を免れます。この対抗関係を維持することが〈社会〉・〈国家〉のいずれもが保たれ、人間が生存していく為に大切なことでしょう。そしてそのためには代表者を選ぶ権利が社会の側に保持されていることはとても大切なことではないでしょうか。日本国憲法十五条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」とはこのことを言っているのではないでしょうか。

★学術会議は社会と国家の接辺として設けられているものであって単なる〈行政機関〉ではありません。現政権は現憲法十五条と六十五条「行政権は内閣にある。」をごっちゃにして強弁していますが、代表者を選ぶ権利と行政権とは別物だと思います。現憲法が行政権は内閣にあると言っているのは、明治憲法において、天皇が「統治權ヲ總攬シ」(第四条)とあったのに対する民主化であって、内閣が恣意的に権力をふるっていいという意味ではないのじゃないでしょうか。法律や憲法の専門家ではありませんが、わたしなりに考えてみたことです。


# by oji-church | 2020-10-21 08:31 | 牧師からのメッセ-ジ

教会にとって他人事ではありません。

★日本学術会議の任命拒否の問題で、映画監督の是枝裕和さん等が出した抗議声明に、第二次大戦下ヒトラー政権と対峙したドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉が引用されています。「ナチスが共産主義者を攻撃し始めたとき、私は声をあげなかった。なぜなら私は共産主義者ではなかったから。次に社会民主主義者が投獄されたとき、私はやはり抗議しなかった。なぜなら私は社会民主主義者ではなかったから。労働組合員たちが攻撃されたときも、私は沈黙していた。だって労働組合員ではなかったから。そして彼らが私を攻撃したとき、私のために声をあげる人は一人もいなかった」。ナチスに反対する人々が次々と弾圧されていった時、教会はそれを他人事として抗議の声を挙げなかったことへの反省として語られた言葉です。

★確かに今回の事件は日本の教会にとって他人事ではありません。戦時下の日本では教会は宗教団体法という法律のもとに置かれていました。そこでは宗教団体は「統理者」という代表者を定めて、文部大臣の認可を受けるように義務づけられていました。つまり教団の代表者の任命権を文部大臣が握っていたのです。そればかりでなく各個教会の牧師も「安寧秩序ヲ妨ゲ又ハ臣民タルノ義務ニ背クトキハ」その業務を停止することができると定められて、その任免を政府が左右できたのです。これによって当時の日本の教会は、国家と一線を画す〈社会〉の一員から、国家と一体の〈国家機関〉となり、国家の恣(ほしいまま)に利用され、もろともに破滅的な戦争に加担していきました。

★戦後、宗教団体法は廃止され、現在は日本国憲法第20条「信教の自由」に基づく宗教法人法の下、日本の教会は〈国家機関〉から再び〈社会〉に戻ることができました。今回の事件は教会にとって決して他人事ではなく、しっかり繋がっています。(つづく)


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何だか分かりますか?

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近所の石神井川でアオサギが夕陽に向かって羽を広げて日光浴をしていました。


# by oji-church | 2020-10-15 09:03 | 牧師からのメッセ-ジ

命を見つめるまなざしが必要

〈神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。〉(ローマの信徒への手紙1章20節)

★パウロは、神様の力、その働きは、被造物つまりこの世界に命与えられて生きる生きとし生けるものの姿に、見える形で現されているはずと言っています。命与えられて生きている者のその命の奥底の、見えない部分に、神様の大きな尊い力が働いている。それがあって初めて命は生きて動いている。だから命が生きて動いているその姿の中に、神様の力・働きは見えて分かるはずなんだということです。

★わたしたちは、今年の年明けからあの新型コロナウイルス感染症による災禍と不安の中にずっと生きています。この危難と不安を何とか切り抜けていこうと、各所でいろんな工夫がなされています。国は今「ゴートゥーキャンペーン」なる人が動いてお金を使うことを奨励する施策を展開しています。他方で、この新型コロナウイルスの感染拡大にあってわたしたちが直面している問題が、いずれも経済つまりお金の問題にまとめられてしまうことに何か違和感を感じます。わたしたちは経済の問題、お金の問題にばかり支配され、縛られてはいないだろうかと。

★ウイルスは地球上に生命が誕生した時以来、存在していると言われます。また、今回のウイルスは人間に感染する前にはもともと別の動物を宿主として保たれていたということです。人間が自然を開発し、他の生き物の領分を侵し破壊する中で、こうした感染拡大=パンデミックは起こってくるものだと言われます。だからそれは人間の命だけでなく、この世界に生きる生きとし生けるものの命に関わっていることでもあるのです。このことを切り抜け、乗り越えていくためには、ただ経済、お金のことだけを考えていればいいとは言えません。まさに命の姿をしっかりと見つめるまなざしが必要なのだと思うのです。

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教会植え込みに秋の花々が顔を見せています。


# by oji-church | 2020-10-07 12:22 | 牧師からのメッセ-ジ

福音を恥としない。その陰には

〈わたしは福音を恥としない。〉(ローマの信徒への手紙1章16節)

★使徒言行録17章にはアテネでのパウロの伝道の失敗談が語られています。アテネと言えば当時、哲学の中心地、インテリたちが集まる町でした。そこでパウロはエピクロス派やストア派といった哲学者たちと議論を交わします。次第に哲学者たちはパウロの話に興味を持ち、アレオパゴスという丘の上の会議所に連れて行き、パウロに演説をさせるのです。アテネの町には、いたるところに様々な神々の彫像が置かれていました。その中には「知られざる神に」と銘記されたものすらありました。パウロは、「わたしはあなたがたにあの『知られざる神』について教えてあげましょう」と、いい調子で気の利いたて説教を始めます。やがて話がイエス様の復活の話に進むと、それまで興味深くパウロの話を聞いていた人たちが「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』」と言って立ち去ってゆき、残った人はほんのわずかであったということです。パウロの福音宣教の働きは各所でそんな屈辱的な経験を重ねるものでした。

★でもここでパウロは「福音を恥としない」と強く語ります。そうパウロが語ることができたのは、パウロが、徒労とも思える宣教の働きの中で、ともするとあやふやで頼りにならない自分自身を、福音によってなお励まされ、支えられ、恥ずかしがらなくて良いと、福音によって語りかけられる、そんな経験をしていたからではないかと思うのです。福音とは「喜ばしい知らせ」です。それは、自分がどんなにあやふやで、頼りなく、信用ならない者であったとしても、自分のことを恥ずかしく思うことはないと、そっと語りかけてくる神様の声なのではないかと思うのです。


# by oji-church | 2020-09-30 13:27 | 牧師からのメッセ-ジ

信仰の不思議なありか

〈あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。〉(ローマの信徒への手紙1章12節)

★第二次大戦下、ナチスに抵抗して闘ったカール・バルトという神学者が、この箇所についてこんなことを言っています。「神様の道で出会う人たちは、互いに分かち合うべきものを持っている。でもそれは実は、その人たちが『持っているもの』ではなくて、むしろ、その人が『持っていないこと』によってこそ、人は出会う人と、何かを分かち合うことができるのだ」と。そしてこうも言います。「使徒とは、プラスの人間ではなく、マイナスの人間なんだ。持っていないことが他の人から見えるようになる人間なんだ」と。

★わたしたちは、教会という、信仰を持つ人たちが集まるとされる場所に毎週集まって、神様を賛美し、神様に向かってお祈りし、神様の言葉を聴くという、いかにも信仰を持つ人がやることをやっています。ところが実は多くの人が「あなたの持っている信仰って、どんなものですか。見せてください」と言われたら、戸惑ってしまうのです。わたし自身も含めて。でもそんな、確かなものを何一つ持っていないわたしたちが出会って、とにもかくにも教会という場に集い、讃美歌を歌い、お祈りし、聖書の言葉を聴く。誰も確かなものを持っていないから、誰も上に立つことはできないから、仕方なしに一緒に横に並んでお互いに呼びかけあい、声を掛け合う。でも、そんな中から不思議にも「信仰」というものが立ち現れて、わたしたちを慰めもし、励ましもするのだ、と。そんな信仰というものの不思議な来歴、不思議なありかをパウロはここで語っているのだと思います。


# by oji-church | 2020-09-23 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ

あなたもわたしも呼びかけられているから

〈キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、……神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。〉(ローマの信徒への手紙1章1〜7節)

★パウロはまだ会ったことのないローマの人々に向かって手紙を書いています。その最初に「召されて使徒となったパウロから」「召されて聖なる者となったローマの人たちへ」と、自分にも相手にも「召されて」(=呼びかけられて)という言葉を付け加えています。会ったことはなくても、わたしもあなたがたも同じくイエス様から呼びかけられている、と言うのです。そのことによってこそわたしたちは共に在るのだ言うのです。

★この3月頃から、わたしたちはずっと新型コロナウイルスへの対応に追われてきました。対応というより、正体のつかみがたい、目に見えない脅威に翻弄されてきたと言ってもいいでしょう。これからどうなっていくのか、わたしたちは先の見えない暗闇の中にいるかのようです。この先の見えない暗闇の中で、わたしたちが求めるのはやはり、「共に在る」ということでしょう。ですがいま、もしかして自分が相手にうつしてしまうかも知れないと思えば、寄り添い、親しく触れ合うこともできない状況です。人間同士がバラバラに引き裂かれて行きかねない危機的な状況です。

★でもそんな先の見えない暗闇のような中にあっても、不思議にもわたしたちは、わたしたちなりに、共に聖書に聞き、共に祈りつつ、大事にすべきこと、なすべきことを共に考え、思いめぐらせて、手探りしながらも尻込みせずに、共に前進してこられました。改めてそれらの日々を振り返り、わたしたち一人ひとりは小さく弱くはあっても、そんなわたしたちの間にあって、わたしたちを結び合わせるものに思いを向けたいと思うのです。わたしもあなたも、共に神様・イエス様によって呼びかけられ、語りかけられた存在として、大切に結び合わせられていることを。



# by oji-church | 2020-09-16 13:43 | 牧師からのメッセ-ジ

ボーッと生きるのじゃなくて

★3月下旬以来、教会の外の集まりの多くは中止となったり、集まらずに書面やインターネットでの開催となりました。お仕事がリモートワークで続いている方もおられるでしょうし、子どもたちは三月から学校が一斉休校になった影響がいまも続いています。大学などはリモート授業が継続されているところもあり、新入学しても一度も大学に登校できていない学生さんもいます。この先、世の中がどうなっていくのか、まったく見通すことができず、ひと月先はおろか二週間先の予定さえ、はっきり立てることができません。それが三月からずっと続いて、止まった時の中に生きているように感じます。

★わたしたちは、もう一度、あの元の、いつもの日々に戻りたいと願っています。マスクをしないで外に出かけられる。人と会って、握手を交わし、そば近くに寄り添い向き合って、心置きなく語らいながら食事を一緒にできる。そんな元の、いつもの日々をわたしたちはいま、恋い焦がれているようです。

★いまわたしたちが恋い焦がれている元の日常、いつもの日々。でも、そこでの触れ合いや語り合い、食事の分かち合いといったことを、かつてわたしたちは、そんなに大切にしていなかったのじゃないか。そんなに、恋い焦がれるほど、愛してもいなかったのじゃないか、とも思う。

★いま、止まったような日々のなか、今この時をわたしたちは、そこでの触れ合いや分かち合いの意味を思いめぐらせ、その大切さ、尊さを噛みしめる時としたらどうかと思うのです。ぼーっと生きるのじゃなく。ただぼんやりと元に戻ったらいいと願うのではなく、この状況から学んで、本当に大切にすべきことを見つけだしてゆく時とするのです。もしそれを見つけ出すことができたなら、それはわたしたちにとって助けとなるはずです。止まったように思える時の中でも、宙ぶらりんにならずに、地に足を着けて、与えられた命をしっかり生きていく助けです。



# by oji-church | 2020-09-09 08:48 | 牧師からのメッセ-ジ

おのが日を数えて

〈われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。〉(詩編90編12節・口語訳聖書)

★イタリアの作家パオロ・ジョルダーノの『コロナ時代の僕ら』という本の中に、聖書の言葉が一つ出てきます。「旧約聖書の詩篇第90篇にひとつ、このところ僕がよく思い出す祈りがある。われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。その後にこうあります。「そんな祈りを思い出すのは、感染症の流行中は誰もが色々なものを数えてばかりいるからなのかもしれない。僕たちは感染者と回復者を数え、死者を数え、入院者と学校に行けなかった朝を数え、株価の暴落で失われた莫大な金額を数え、マスクの販売枚数を数え、……。そしてひとつ、幾度も幾度も、何よりも繰り返し数える日数がある。危機が過ぎ去るまでにいったいあと何日あるのか、だ」。

★わたし自身、夕方、インターネットのニュースでその日の感染者数を確認するのが日課のようになってしまっています。一見普段と変わらない毎日。しかしパンデミックにより、止まってしまった時の中に生きているような気もします。一週間先の予定すら安心して立てられない状況ですから。時が止まって前に進めない日々の中で、わたしたちはぼんやりと、目の前に現れる数字に夢中になってしまうのです。しかしジョルダーノさんはこう書きます。「詩編はみんなにそれとは別の数を数えるように勧めているのではないだろうか。われらにおのが日を数えることを教えて、日々を価値あるものにさせてください——あれはそういう祈りなのではないだろうか。苦痛な休憩時間としか思えないこんな日々も含めて、僕らは人生のすべての日々を価値あるものにする数え方を学ぶべきなのではないだろうか」。まったくその通りだと思う。イタリアの若い作家から聖書を教えられた気がしました。いまこの止まった時の中で、自分自身を省み、人生の日々を価値あるものにするものは何か、じっくり思い巡らす時としたいと思います。



# by oji-church | 2020-09-02 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ

この時代の中の「あなた」と「わたし」

★今年3月にドイツのメルケル首相がドイツに暮らす人々に向けてテレビで演説しました。メルケル首相は、すべての人を守り、経済的、社会的、文化的な損害を抑えるための措置を説明したい、と語り始めたところで、こう付け加えたのです。「しかし、私はあなた方一人一人が必要とされている理由と、一人一人がどのような貢献をできるかについてもお伝えしたい」と。こうした一人ひとりに語りかける語り口はこの演説に一貫しています。「わたし」と「あなた」という、向かい合う人間同士の関係、結びつきを大切に守ってゆきたいという強い意志が響き渡っています。

〈イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。〉(マルコ1:9〜11)。

★「わたしの心に適う者」をギリシア語原文通りに訳すと、「わたしはあなたのことを喜ぶ」となります。この短い呼びかけの中に、いまのわたしたちに必要なことが全部含まれているように思うのです。「わたし」、「あなた」、「愛」、「喜び」。いまわたしたちが経験している、このウイルスの感染拡大状況を乗り越えるために、わたしたちは結束する必要があります。その結束はしかし、一人ひとりを押しつぶして一かたまりになる結束ではなく、一人ひとりを「あなた」として思い描き、そのいのちを愛し、その存在を喜ぶことによって生まれる結束です。

★わたしたち一人ひとり、すべての人が、神様から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と呼びかけられた者です。同じように、一人ひとりの人を、愛すべき、喜ぶべき「あなた」と思い描いて生きる「わたし」でありたいと願います。きっとその先に、今のこの状況を乗り越える確かな道が備えられているはずですから。


# by oji-church | 2020-08-26 10:18 | 牧師からのメッセ-ジ

いにしえの道、いのちのつながり

〈分かれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に進み、安息を得よ。〉(エレミヤ書6章16節。口語訳聖書)

★わたしたちは今、互いを遠ざけ、マスクで顔を覆い、素手で触れ合うことをせず、手を洗い消毒し、パーテイションという〈壁〉を設けて、あたかも人も自分も「けがれた存在」であるかように振る舞わなければならない状況の中に生きています。そんな中で、わたしたちは今、分かれ道に立っているのではないか。

★この人間同士の隔たりを〈新しい日常〉として、生身の出会い触れ合いから遠ざかり、敵/味方に別れて対立し、争い、破壊しあうようになるのか、そうではなくて、出会い触れ合うことができない、いま目の前にいない人の心を思い描き、祈り、心寄せ、心重ね、思い遣る、そういう人間同士の結び、繋がりを一層、丁寧に、大切に紡いでいくのか。そういう岐路、分かれ道にいま、わたしたちは立っているのではないかと思うのです。

★ウイルスに国境はありません。地球上に生きているすべての人が、ウイルスに感染しかねない、傷つきやすいいのちを携えて生きています。同じ国に住む、同じ民族、同じ国籍の人だけが「人間」なのではありません。地球上に国境なるものができるずっと前から、地球上に暮らすすべての人が人間として、同じ命を携えて生きてきました。さらに、地球上に生きているのは人間だけでなく、地を覆い海を覆ってあふれかえる命のつながりの中に、人間は生きています。これもまた、人類が生まれるよりもずっと前、この地球上に生命が発生した時からのものです。そういう国境を越えた、地球上のすべての生き物の命のつながりこそが「いのしえの道」ではないのか、それこそが、聖書のはじめに語られているように、すべての命あるものを造り上げて、それをご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と歓喜の声を挙げられた神様が備えられた、いのちの道ではないのか、わたしたちがそこを歩んで、魂に安らぎを得る道ではないかと思うのです。


# by oji-church | 2020-08-19 14:33 | 牧師からのメッセ-ジ

わたしたちが見つけ出すべきもの

★この3月に国連のアントニオ・グテーレス事務総長は、新型コロナウイルス感染症拡大を「第二次世界大戦以降で最も困難な危険」と呼んで、国際社会の結束を呼びかけました。2011年の東日本大震災が起こった時にも、日本の国内では「1945年以来最悪の惨事」と言われました。

★このコロナウイルスの災禍を戦争に見立てる人もいます。けれどもこれは戦争ではありませんし、戦争と考えてはいけないと思うのです。戦争とは、敵と味方に分かれて戦い争うことです。いま世界中が危機に見舞われる中であちこちで「悪者探し」「敵探し」が湧き起こっています。わたしたちに身近なところでは最近は「夜の街」が「悪の元凶」のように言われています。米国の権力者は中国を悪者にしようとして、中国の権力者は米国を悪者に見立てようとしています。

★でも考えてみます。「1945年以来最悪の惨事」と言われた東日本大震災は、地震に続く津波という自然災害が発端でしたが、これを「最悪の惨事」としたのは東京電力福島第一原発の事故によって放射能が拡散するという、人間の営みに由来するものでした。今回も、ウイルスの蔓延という自然に起因する事態ですが、そこに人の営みが全く関わりないとは言えないと思います。森林伐採や海洋汚染等、人間が際限なく自然の生態系に踏み込み、自然環境を大きく改変させ、破壊してきた結果としてこの大規模感染は起こっているのではないかと思うのです。そう考えれば戦争自体も、人間よって引き起こされて、この世界といのちを破壊するものに他なりません。わたしたちが見つけ出すべきは「悪者」や「敵」ではありません。わたしたちが見つけ出すべきなのはわたしたち自身、人間自身の営みが持っているこの世界、地球、自然、環境、そこに生きるいのちに対する「問題性」、わたしたち自身の「問題」なのだと思うのです。


# by oji-church | 2020-08-12 15:25 | 牧師からのメッセ-ジ

食べる場はいのちに触れる場

〈ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」〉(マルコ2:16〜17)。

★医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。お医者さんも病人が来ることを拒みません。なぜならお医者さんは人の病を治療し、その人のいのちを守るのが仕事だから。そのようにいのちに触れるのがお医者さんの仕事です。それは当たり前のことと見なされます。一方食事の場には普通「正しい人」を招くもので、「罪人」と呼ばれる人を招いて一緒に飯を食うことは相応しくないこと見なされました。これも、この社会の常識的な当たり前のことと思われています。

★しかし、もう一歩踏み込んで考えてみるのです。食事の場は「食べる」場です。わたしたち人間の誰もが食べなければ生きてはいかれません。だから、「食べる」ということはそれだけでもう既に深くいのちに触れているのです。食事の場はいのちに触れる場なのです。お医者さんの仕事がいのちに触れる仕事として必要とされ、病気の人がそこに招かれるに相応しいのなら、やはりいのちに触れる場である食事の場に招かれるのに相応しいのは、「罪人」というレッテルを貼られていのちの尊厳を損なわれ、傷つけられている人ではないか。そのようにイエス様は、食べるということの中にいのちに触れるものを見つめ、そして、一緒に食べることによって、人びとの貶められ、傷つけられ、損なわれたいのちの尊厳を癒やし、回復しようとしていたのだと思うのです。一緒に食べる場は、あなたは愛すべき存在なのだと、あなたは大切な存在なのだと伝える場だったのです。


# by oji-church | 2020-08-05 09:39 | 牧師からのメッセ-ジ