日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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3月24日(日)(受難節第3主日)

・子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】主の受難Ⅲ

*子どもの教会の礼拝には、おとなもご参加いただけます。


・主日礼拝 午前10時30分

 説教「天使のようないのち与えられ」

 大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書12章18〜27節

【讃美歌】27.294.390.81.65-1.92-1.

【招詞】イザヤ書57章15節

【信仰告白】使徒信条

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



# by oji-church | 2019-03-20 14:36 | 牧師からのメッセ-ジ

ほんとうの自由

★東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から八年の月日が経ちました。いま、福島の帰還困難地域を車で通れば、家や道路があっても人影はなく、伸びた草が家々を飲み込もうとしている光景に息をのみます。福島第一原発の脇を通って福島の浜通りを縦断する国道六号線を通れば、町への入り口となる角には厳重にフェンスが張られています。わたしたちが暮らすこの国の一角でいまも続いているありようですが、普段わたしたちがテレビ等でそれを目にすることはほとんど無くなりました。代わりにテレビに映されるのは、オリンピック、天皇の代替わりといった華々しい事業とお祝いムード。原発の再稼働が進められています。避難指示が続々と解除され、避難している被災者への補償や住宅の無償提供などが打ち切られています。オリンピックをゴールとして、あの地震、原発被災を終わったこと、なかったことにすらしようとしているこの国の姿が浮き彫りになります。

★「復興」の名の下に大きく華々しいものが次々建設され、動かされていく一方で、この社会は、小さくて目に見えない、しかしわたしたちが生きていくために欠かすことの出来ないもの、それはあの震災や原発事故で、大きな代償を支払いながらわたしたちに示されたものだったのに、それをいま、次々と壊していっているのではないかという気がします。

★人間は地球上でもっとも知恵ある者として発展してきました。知恵が人間に自由をもたらし、その自由によって人間は欲望を際限なく膨らまし、それを満たしてきました。でも人間のその自由がいま、この世界を壊し、命を壊し、人間自身の命も壊しています。果たしてそれはわたしたちにとってほんとうに「自由」なのでしょうか。人間にとってほんとうの自由とは何なのか、そういうことを改めて考えなければならない時代に、わたしたちは置かれていることを思います。


# by oji-church | 2019-03-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(3)

★人がこの世に生きる中で、わたしたちは必ずしも思った通りに生きることができるわけではありません。不意の病いやしょうがいを負い、様々な失敗や挫折を経験しながら、わたしたちは思い通りにならない人生を生きていかなければなりません。そこにわたしたちの生きる苦しみがあります。でも、そんなさまざまな苦しみに彩られたわたしたちの人生にあっても、なお残される希望があることを聖書はわたしたちに告げています。それは「出会う」ということではないかと。

★互いに生きる苦しみを背負ったわたしとあなたが出会う。それでは何の救いもないと思われるかもしれません。だけれども、その苦しみを、今日のこの場面で人々が叫ぶバルティマイを叱りつけたようにそれを追い払うのではなくて、わたしたち一人ひとりが生きる中で抱える苦しみに目をこらすとき、そこに命の深い深いところから響く声をわたしたちは聞くのではないでしょうか。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」「わたしのこの気持ちを感じ受けてください」、そして「見えるようになりたいのです」と呼びかける声をです。その声によってわたしたちは導かれて、出会い、共に感じ、共に生きる者として結び合わせられていくのでしょう。実は、そんな苦しみから響く声に導かれてわたしたちが互いに出会っていくことこそが、イエス様に従うということ、イエス様を信じるということ、信仰を持つということなのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-03-13 10:16 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(2)

〈イエスは立ち止まって、「あの男を呼んできなさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。〉(マルコによる福音書10章49〜52節)

★イエス様は「立ち止まった」と言われます。「彼を呼んできなさい」と言われました。呼ばれた彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」イエス様のところにやってきました。もしかして彼は、生まれて初めて自分の願いや希望を受けとめられるという経験をしたのではないでしょうか。それがこの喜びように現れている気がします。

★イエス様は彼に問います。「何をしてほしいのか」。これももしかしたら彼が生まれて初めて経験したことだったかもしれません。自分の願いや希望を尋ねてもらうという経験です。彼は自分の声を上げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。これもまた彼にとって初めての経験だったのではないでしょうか。自分の願いと希望を声に出して人に告げるということです。この時点ですでに、彼は救われているといってもいいのかもしれないと思うのです。

★それまで道ばたに「モノ」のように放り置かれた彼が、自分の願いと希望を受けとめられ、その願いと希望を問い尋ねられ、そしてその願いと希望を自分の口で声に出して人に告げる。そのことによって彼は、奪われていた人間性を取り戻したのです。それは、イエス様とバルティマイとの出会いの中で起こったことで、イエス様が彼を一方的に「救ってあげた」のではありません。だからイエス様は言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。(つづく)


# by oji-church | 2019-03-06 11:21 | 牧師からのメッセ-ジ

生きる苦しみの底から(1)

〈バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。〉(マルコによる福音書10章46〜48節)

★「憐れむ」という漢字は「心」に「隣り」と書きます。聖書のギリシア語でもこの「憐れむ」という言葉は「同情を懐く」というような意味の言葉です。「憐れむ」も「同情」も最近の日本語の語感としてはあまり良い感じがしませんが、もともとは「同じ気持ちになる」という意味です。最初バルティマイは、いつものようにお金を乞うときの決まり文句として「わたしを憐れんでください」と言っていたのかもしれません。けれども人から叱られてもそれでも止めずに繰り返し叫んでいるうちに、それはいつもの文句であることを越えて、もっともっと深い思いがこもるようになっていったのではないかと想像するのです。「わたしを憐れんでください」「わたしの心の隣に寄り添ってください」、そして「わたしと同じ気持ちになってみてください」と。

★しょうがいを負うがゆえに一人前の人間と見なされず、生きていく上で当たり前の願いや希望を持った一人の人間として生きることを許されず、自分の命の主役として生きることを許されず、人々が普通に歩く道の上を歩くことを許されず、道ばた、道の脇に座り、あたかもそこに放り置かれた命のない、心を持たないモノのように、かすかに生きることだけを許された自分、このわたしのこの気持ちを、どうか感じ受けてほしいと、あなたがダビデの子、ナザレのイエスだと言うのなら。そんな願いになっていったのではないだろうか。この「わたしを憐れんでください」という叫びは。

★イエス様は、そんなバルティマイの深い深いところから湧き上がってくる叫びを聞いたのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-02-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?(2)

★(承前)「あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、あなたがたに仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。支配者が主役ではなく、主役は人々なのです。

★イエス様は、長年出血の止まらなかった女性と出会い、彼女に「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼女を生きる主役としました。中風で動けなかった人に「あなたの罪は赦される」と語りかけて、彼が自分の人生を生きる主役とされました。シリア・フェニキアで、自分の娘を手当てしてもらおうと「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と主張した女性に「あなたの言葉通りだ」と語りかけ、彼女を主役とした。イエス様の周りから追い払われようとした子どもたちを真ん中に立たせ、あるいは抱き上げて「神の国はこのような者たちのものである」と語って、子どもたちを主役にしました。イエス様の働きは、一人一人の人間が自分らしく生きて、自分の人生の主役となることができるように、人々を導き解放する働きでした。そこにはイエス様が一人ひとりの人の、その人固有のいのちのありよう、姿に注ぐ愛がありました。

★そうした人をその人のいのちの主役に据えようとするイエス様の働きが、支配者が支配し、権力者が自分のために権力をほしいままにする当時のローマ帝国が支配する社会とぶつかって、イエス様は「祭司長や律法学者たちに引き渡され、死刑を宣告され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて、殺される」ことになりました。けれども、そのイエス様の姿は決して自分一人が犠牲になればいいということではなく、あくまで一人ひとりの、その人固有のいのちのありようを愛して、その人をいのちの主役に据えようとするイエス様の働きの末のことだと思わなければならないでしょう。誰かが犠牲になればいいということではないのです。


# by oji-church | 2019-02-20 10:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「主役」はだれ?

〈諸民族の第一人者と見なされている者が彼らを支配し、その中の大きな者たちが彼らに対して権力をほしいままにしている。しかし、あなたがたにおいてはそうではない。あなたがたの中で大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、あなたがたの中で第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい〉(マルコによる福音書10章42〜44節・私訳)

★この言葉の前半が表しているのは、当時のローマ帝国の支配をです。ローマ帝国には第一人者つまり皇帝がいて、諸民族を支配し、また皇帝のもとには元老院という組織があって、大きな者たち、つまり元老たちが権力をほしいままにしていました。イエス様の故郷であるガリラヤもエルサレムのあるユダヤも、いずれもこのローマ帝国の支配の中に組み込まれていました。しかし、イエス様は「あなたがたにおいてはそうではない」と言われます。新共同訳聖書では「あなたがたの間ではそうではない」と訳されていますが、「間」という言葉は余計です。こうして教会で聖書を読み「あなたがたの間では」と言われると、教会のいわゆる「兄弟姉妹」、「クリスチャンの間では」という意味に取られてしまいがちですが、クリスチャンであるか否かにかかわらず、人間誰しも本来の姿ではそうではないはずだ、という意味で語られています。人間本来の姿にあっては、支配者が人々を支配し、偉い人たちが権力をほしいままにするなんてことにはならないはずだ。そういう人間本来の自由と平等をここでイエス様は宣言しているのです。

★後半の言葉でイエス様は、そうしたローマ帝国の支配のありようをあからさまにひっくり返して語ります。「……大きな者になりたいと思う者は、皆に仕える者になり、……第一人者となりたい者は、すべての人々の僕となりなさい」。この言葉は、国家転覆罪に問われてもおかしくない言葉なのです。(つづく)


# by oji-church | 2019-02-12 17:16 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(2)

★(承前)「誰もが神の国に入るのは難しい」。そう言ってみて、イエス様は途方に暮れたのではないでしょうか。弟子たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに顔を見合わせながら、途方に暮れたことでしょう。ここでもう一度、イエス様は「彼らを見つめて」と言われています。伝道師に失敗して、自分を慕って福音を求めてやってきた人を、悲しみながら立ち去らせることしかできなかった自分の情けなさ、ふがいなさ、悲しさを、弟子たちにも分かち持ってもらって慰めてもらいたかった。でも弟子たちは全然イエス様の悲しみなんて気づかずにお構いなしでした。でもいまここで、途方に暮れているというただその一点では、イエス様と弟子たちは同じ姿をしています。このとき、イエス様のまなざしも、弟子たちのまなざしも、同じように宙をさまよっていたのじゃないだろうか。いや、宙をさまよっていたのではなくて、空を見上げていたのかもしれません。イエス様は弟子たちを見つめ(この弟子たちに注がれたイエス様のまなざしは、あの金持ちといわれた人を慈しんで見つめたのと同じまなざしだったでしょう)、言われます。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」。

★やはり最後には神様に委ねていくしかないのです。この点でイエス様も弟子たちも同じところに立っています。結局、この「同じところに立って、共に天を仰ぎ、『人間にできることではないが、神にはできる、神には何でも出来るからだ』と、神様に委ねていく」ことこそが、実は「永遠の命を受け継ぐ」ことなのではないでしょうか。


# by oji-church | 2019-02-06 15:48 | 牧師からのメッセ-ジ

途方に暮れれば(1)

〈イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。〉(マルコ10章23〜26節)

★「弟子たちを見回して」という何気ない一言に心引かれます。せっかく福音を求め、自分を慕ってやってきた人が、気を落として悲しみながら去っていく、その背中を見送り、姿が見えなくなれば宙をさまようしかなかったイエス様のまなざしが、今は傍らの弟子たちを見回しています。まなざしは行き場を探しているのです。イエス様は、弟子たちに慰めてもらいたかったのじゃないか。伝道に失敗したのです。自分の不甲斐なさ、情けなさ、悲しみを弟子たちにも分かち持ってもらいたかったのじゃないか。

★でも弟子たちは何も言ってくれないから、仕方なく自分で言います。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それは言い訳。もっと説得力があれば、彼にも伝わったかもしれません。だから言い直す。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか」。金持ちに限らず、人が福音を受けとめて、神様と共に歩み出すことは容易ではありません。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。「金持ちが」という言葉は後から付け加えられたような気がします。それは弟子たちの反応を見れば分かります。「金持ちが神の国に入るのが難しい」というだけであれば、「だれが救われるのだろうか」と問う必要はありません。答えは簡単。金持ちでない人が神の国に入るのですから。でも弟子たちがこうして驚いて、いぶかしがるのは、金持ちばかりでなく、誰もが「神の国に入るのは難しい」「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたからでしょう。(つづく)



# by oji-church | 2019-01-31 13:58 | 牧師からのメッセ-ジ

「わたし」と「あなた」とのあいだに(2)

★(承前)わたしたちは、ホモ・サピエンス一個体として生きているのではありません。「わたし」という者を生きているのです。そしてそのわたしは、自分がどこから来たのか分からないという不安の中、暗がりの中に生きています。そんなわたしに向かって、だれかが「あなた」と呼びかけてくるのです。最初はびっくりするかもしれません。でも、「あなた」と呼びかけられることによって、わたしは暗がりの中にあっても、決してひとりぼっちじゃないということに気づかされます。

★わたしがいて、そのわたしを「あなた」と呼びかける誰かがいる。それはホモ・サピエンスが二個体いるという以上のことです。「あなた」と呼びかけらて、わたしは暗がりの中でもひとりぼっちじゃないことを知らされ、少しばかりの勇気を持つことができるようになる。そしてまた、その声は言います。「あなたはわたしの愛する子」。その声はただわたしに向かって「あなた」と呼びかけるだけじゃない。このわたしのことを「愛している」、大切に思っている、と言う。いやそれ以上。「愛する子」とは、自分につながっている者として、責任をもって大切に思っているということでしょう。

★「わたしの心に適う者」。ここのところは元のギリシア語の聖書では「わたしはあなたのことを喜ぶ」と書かれています。わたしがここにいるということが、その人にとって「うれしい」ということ。わたしに向かって「あなた」と呼びかけるその人が、わたしがここにいることを嬉しく思っている。喜んでいる。どこから来たのかも分からないわたしなのに。この呼びかけによって、わたしは、自分がどこから来たのか分からなかったとしても、いまここにいる自分がとても大切な存在なのだと分かるようになる。そして誰かにとって大切な存在であるこのわたしを、誰かを幸せにすることができるこのわたしを、生きていこう、生かしていこうという気持ちが沸き出してくる。どこから来たのか分からなかったとしても。



# by oji-church | 2019-01-24 13:03 | 牧師からのメッセ-ジ

「わたし」と「あなた」とのあいだに(1)

〈そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた〉(マルコによる福音書1章9〜11節)

★ここでイエス様はどこからともなく登場します。「ガリラヤのナザレから来て」とありますが、マタイやルカの福音書にはイエスの誕生物語があるのに対して、マルコによる福音書にはなぜイエス様が「ガリラヤのナザレ」から来ることになったのか説明がありません。このイエス様の登場は、わたしたちの人生にありように似ています。わたしたちも、どこからともなくこの世に現れて、気付いた時にはもう、生まれて生きてしまっていましたから。わたしたちは自分がどこから来たのか分からないのです。どこから来たのか分からないので、どこへゆくのかもよく分かりません。それでわたしたちは、人生の中でいつもどこかに不安を抱えています。

★近頃AI(人工知能)という言葉をよく耳にするようになりました。わたしたちに分からないことでも、AIがわたしたちの代わりに考えて、正しい答えを見つけてくれるように言われることも少なくありません。でも果たしてAIは、わたしたちがどこから来てどこへゆくのか、この問いに答えてくれるでしょうか。

★科学では人はただの生き物と見なされます。人が一人いれば、ホモ・サピエンスという生き物が一個体いるということですし、二人いたら二個体いるということです。でもわたしたちは、ホモ・サピエンス一個体として生きているのではありません。「わたし」という者を生きているのです。そしてそのわたしは、自分がどこから来たのか分からないという不安の中、暗がりの中に生きています。それがわたしたちとAIとの違うところです。(つづく)



# by oji-church | 2019-01-16 14:02 | 牧師からのメッセ-ジ

災いの中に平和の種をまく


〈バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。〉(エレミヤ書29章10〜14節)

★2018年を表す漢字に「災」という字が選ばれました。自然災害のみならず政治や国同士の関係を見ても良いことよりも「災い」と見えることの方が多く感じられます。

★預言者エレミヤは、ユダの国がバビロニアに滅ぼされ、捕囚として連れ去られた人々が戻ってくるこられるのは70年後と語ります。連れ去られた人たちその人はもう生きてユダに帰ってくることができません。しかしエレミヤはそれを、神様の「平和の計画」であって「災いの計画」ではないと語ります。

★エレミヤはこうも語ります。「エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。……わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレミヤ29章4〜7節)。

★力を持つ人々が、我勝ちにじぶんの都合だけを優先しているのが、現代の「災い」を生み出していると言えるでしょう。自分に不都合と思える状況にあっても(捕囚として送られた)、他者(その町)の平和を求める時、むしろわたしたちにも平和が訪れるのです。そのとき、厳しい時代の中にあっても、神様はわたしたちと共におられ、わたしたちは、本当の平和を見いだすことができるのでしょう。



# by oji-church | 2019-01-09 10:28 | 牧師からのメッセ-ジ

年の終わりに——終わったことにしないで

★2018年最後の日曜日になりました。皆さんにとってどんな年だったでしょうか。2月・3月にはお隣の韓国で北朝鮮も参加して冬季オリンピック・パラリンピックが開催され、4月には南北会談で両国の首脳が38度線を越えて行き来し、朝鮮戦争の終戦を目指す「板門店宣言」が出されたことは歴史に残ることでした。しかし日本では、韓国政府が2015年の日本軍「慰安婦」に関する「日韓合意」について「被害者を排除して解決を図ったことは間違いだった」と表明したことや、戦時下の徴用工について韓国の裁判所が賠償命令を出したことから、韓国に敵対的な論調が目立っています。日本政府は「あの戦争」を「終わったこと」として忘れようとしますが、被害を受けた人たちにとっては戦争はまだ終わっていないことを思わなければなりません。平和は、戦争を忘れることで訪れるものではなく、銘記して二度とそのようなことが起こらないように、いまここで、力ではなく対話による理解を深めていくことによって作られるものです。7月にオウム真理教事件に関わった死刑囚の人たちが次々に処刑されました。これもまた力によって「終わったこと」にしようとしているように思えます。

★6月には大阪で地震があり、7月の豪雨では200人以上の方々が亡くなりました。9月の北海道での地震でも多くの人が亡くなりました。温暖化による気候変動は人間が招いている側面が強くあります。寺田寅彦という人が「災害は忘れたころにやってくる」と言いました。自然は「忘れないように」とわたしたちに警告しているように思えます。


# by oji-church | 2019-01-03 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ

サンタは遅れてやってくる

★アメリカの牧師で著述家のヘンリー・ヴァン・ダイクという人の『四人目の賢者』というお話があります。「アルタバン物語」という名前で知られています。

★聖書には三人の博士が登場しますが、実は四人目の博士がいたというお話。名前はアルタバン。他の三人の博士たちは「黄金、乳香、没薬」を救い主へのプレゼントとして用意しましたが、彼はルビー、サファイヤ、真珠という宝石を用意しました。他の博士との待ち合わせの場所に向かう途中、彼は砂漠で瀕死の病人を介抱したために約束の時間に間に合いませんでした。遅れを取り戻そうと宝石の一つを売ってラクダを手に入れました。でも救い主の誕生の場所に間に合いませんでした。そこで彼は、「2歳以下の子どもを皆殺しにせよ」とのヘロデ王の命令により、殺されかけた子どもを救うために、宝石の一つを兵士に渡してしまいます。

★救い主を探す長い旅の果てに、彼は探していた救い主が十字架に掛けられるという知らせを聞いてその場所に向かいます。しかし彼はそこで、奴隷として売られてゆく女性を解放するために最後の宝石を手放してしまいます。その時地震が起こり、落ちてきた瓦礫に当たって命を落としてしまいます。最後の時、彼の口元がこんな言葉をつぶやいていました。「主よ、いつ、わたしはあなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。……33年間、主をさがし求めておりました。しかし、お顔を見たことも、お役に立ったことも、ただの一度だってないのです」。この彼の問いかけへ答えは聖書に書かれています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。

★先週の子ども食堂のクリスマスに、サンタさんはだいぶ遅れてやってきました。もしかしたら、わたしたちの知らないところで、誰かを助けていたのかもしれません。クリスマスはわたしたちに救い主の誕生を知らせますが、もう一つクリスマスがわたしたちに教えてくれることがあります。それは「待つ」ことの意味です。救い主と出会うため、待つ間にわたしたちに託されていることがあるのでしょう。


# by oji-church | 2018-12-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


# by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


# by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ
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# by oji-church | 2018-12-12 08:55 | 全体のお知らせ

積み上げる生き方ではなく(2)

★この人は最初、イエス様に向かって「善い先生」と呼びかけてきました。しかしイエス様はそれに対して「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言って彼の「善い先生」という呼びかけを退けました。

★彼は「善い者」になるために、「永遠の命を受け継ぐ」ために、「何かをする」、そういう行いを自分のもとに積み上げていく必要があると思って生きてきました。しかしイエス様は自分が「善い者」になることを目指さず、「善い行い」を自分のもとに積み上げていくような生き方もしていません。イエス様の生き方は、何よりも「人と関わっていく」生き方でした。自分のところに何かを積み上げるのではなく、自分と人との間に、新しい出会いやつながりを生み出していくことを大切にしていく生き方です。そういう意味で「わたしに従ってきなさい」すなわち「わたしと出会い、つながるように」ということこそが何よりも、イエス様の彼に対する呼びかけの主旨だったのです。

★しかしそのことは彼には伝わらず、彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。これはやはり、イエス様が伝道に失敗した場面と言わなければならないと思います。イエス様が彼に呼びかけたがった主旨が伝わらなかったと。でも、イエス様は立ち去っていく彼の後ろ姿をじっと見つめているのです。

★途中にこんな言葉がありました。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。この「慈しむ」という言葉は「愛する」というのと同じ言葉です。イエス様の思いは彼に伝わらず、彼は悲しみながら立ち去っていきました。しかし、「彼を見つめ、慈しんで(愛して)言われた」というイエス様のまなざしは、去って行く彼の背中になお注がれ続けていたのではないかと想像するのです。なぜなら、イエス様の生き方は「積み上げる」生き方ではなく、何よりも出会いをつながりを求める生き方なのですから。


# by oji-church | 2018-12-12 08:46 | 牧師からのメッセ-ジ

積み上げる生き方ではなく(1)

〈イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」・・・・・・イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つあ。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。〉(マルコによる福音書10章17〜21節)

★「行って、持っている物を『売り払い』」と言われています。これを読むたびに、イエス様に従っていくためには、持っているものを全部売り払って無一文にならなければいけないのかと思い、わたしも牧師失格だと、到底イエス様に従っているなど言えないのだ、この人と同じように、肩を落としてイエス様の前から立ち去らねばならないのだと思ってきました。しかし元のギリシア語の文を読みますと、必ずしも「全部を売り払う」という意味ではないようにも読めるのです。そういうことよりもむしろ、持っている「余分なもの」を、貧しい人々に与えて、いわば「身軽」になって、そうして「わたしについてきなさい」と言う意味なのだと思います。

★イエス様のこの人に対する呼びかけの一番の主旨は「持っているものを全部売り払う」ことよりも、何よりもまず「わたしについてきなさい」ということなのです。そのことのために重荷になるようなものは、貧しい人に分けてしまって、ということ。(つづく)


# by oji-church | 2018-12-05 13:23 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(3)

★「神の国」。それは、「ここにある」「あそこにある」と指さすことのできる、目に見えるものじゃない。うまく言葉にできるものでもない。けれども、それはわたしたちが本当に人間らしく生きていく上で、食べること、着ることにまさって必要なものであり、その中に生きるのであれば、今日の苦労があったとしても、明日また生きていくことができるようにさせるもの。そして、子どものようにそれを受け入れるのでなければ、決してそこに入っていくことができないもの、です。

★わたしたちは普段、いのちの消息について、「この世」と「あの世」に分けて考えることに慣れています。わたしたちは今「この世」に生きていて、死んだ人は「あの世」に行って、もう帰っては来ないと。「この世」ではあの「生産性」という言葉が示すように、何かしら利益を生み出すことが「生きる意味」、「いのちの価値」であると思われています。病気やしょうがいによってそれを生み出すことができなければ、「力が無い、弱い」、意味の無い、価値のない、死んだも同然と思われてしまう。ラザロがそう見られていたように、です。そして「あの世」に行った人々はもうまったく意味の無い存在とされてしまいます。けれどもイエス様は、それとは違ういのちの消息の中を生きておられたのではないかと思うのです。

★イエス様がマルタに呼びかけた「生きていてわたしを信じる者」というのは、「この世」と「あの世」に切り分けて生きるのではなく、イエス様と共にわたしたちも、この「神の国」をみつめつつ生きるようにという呼びかけなのではないかと思うのです。「神の国」では今生きているわたしたちも、すでに亡くなった人たちも、「生産性」などという測りではなく、等しく本当のいのちの価値を与えられて、神の子としての栄光を与えられて光り輝くんだ、ということです。


# by oji-church | 2018-11-27 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ