日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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聖霊降臨節第19主日

北支区講壇交換礼拝

9月23日(日)午前10時30分〜

説教「そして神の家族になる」

 上林順一郎牧師(江古田教会)

【聖書】コリントの信徒への手紙Ⅰ第12章20〜31節

【讃美歌】27.12.540.390.65-2.90-4.

【招詞】エゼキエル書34章16節a

【詩編交読】85編9〜14節


*礼拝にはどなたでもご参加いただけます。


# by oji-church | 2018-09-18 09:57 | 全体のお知らせ

「目には見えないかんじんなこと」(2)


★ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちもイエス様の山登りに同行させられます。そして山の上で三人の弟子たちは不思議な光景を目撃します。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」。

★確かにこれはペトロが言うように「すばらしい」光景です。エリヤもモーセも伝説の預言者です。自分の師匠であるイエス様が、そんなビッグがネームと肩を並べて語り合っているのを見て、ペトロが感激したのもうなずけます。ペトロはこの「すばらしい」光景をいつまでも見ていたかったのでしょう。ここに三つの仮小屋を建てましょうと提案します。でも、聖書はこのペトロの提案にとりあう様子はまったくありません。ペトロは「非常に恐れていたので、どう言えばよいか分からず、こんなことを言ったのだ」と語られています。その後、すぐに雲が現れて、この「すばらしい」光景を覆い隠してしまいます。そしてただ声だけが響くのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。実は大事なのは、目に見えるあの「すばらしい」光景の方ではなく、「すばらしい」光景が目には見えなくなった後に響くこの声の方ではないかと思うのです。(つづく)


# by oji-church | 2018-09-18 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「目には見えないかんじんなこと」(1)

〈六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。〉(マルコによる福音書9章2節)

★イエス様が、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、そこでその姿が変わるという場面です。山のてっぺんに登ると、やがて自分よりも上に見えるのは空だけになります。聖書では、空、天というのは神様のいるところとされています。ですから、山に登るというのは、神様に会いに行くということなのです。
★なぜイエス様がここで山に登ったのかは語られていません。この前の場面で、イエス様は弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と繰り返し尋ねています。ペトロはすぐさま「あなたはメシアです」と優等生的な答えをしますが、イエス様はそれを「誰にも言うな」と戒めています。その後でペトロはイエス様から「サタンよ、引き下がれ」とまで厳しく叱られているところを見ると、イエス様はこのペトロの答えに納得していないようです。
★山に登るとは神様に会いに行くということだとすると、こんなことを想いえがくのです。もしかすると、イエス様自身でも、自分が「何者なのか?」分からないところがあったのではないかと。自分が「何者」なのかよく分からないけれども、自分がこれから進んでいく道は、聖書に語られているように、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」てしまうような、辛く厳しい道であることが予感される。それで、イエス様は「わたしはいったい何者なのでしょうか?」、そう神様に尋ねるために、山に登っていった、神様に会いに行ったのではないかと。(つづく)
# by oji-church | 2018-09-12 09:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「最もちいさいもの」

〈はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。〉(マタイによる福音書25章40節)

★ここで言われている「最も小さい者」という人がどこかにいると思ってしまったら、この聖書の言葉を間違って読んでしまうことになると思うのです。考えてみれば、わたしもあなたもどの人も、この世界全体から見れば、誠に小さな者の一人です。逆に、そんな小さな一人ひとりの人がいまここに生きていることの重さを考えれば、どの人も「小さな者」などではなく、どの人も限りなく重く大きな存在です。
★「最も小さい者」というのは、この世の誰かに、「あの人は小さな者」、「この人は小さな者ではない」なんて具合に、名札のように付いている呼び名ではなく、この世の中で、小さな取るに足らないとみなされているそんな、一つひとつの「出会い」のことではないかと思うのです。小さなとるに足らないような出会いを、それでもなおわたしたちが大切にするとき、わたしたちはイエス様と出会い、「いや、あなたはわたしによくしてくれた」と労われる、尊い存在とされるのでしょう。
# by oji-church | 2018-09-05 13:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「歴史を振り返るとは」

★八月、平和に思いを致す月。わたしたちが平和を思う時、歴史を振り返ること無くして、本当の意味での平和を想うことはできません。今はある意味では歴史流行りの昨今です。でも歴史というと、戦国時代の武将の話か、幕末の志士の話ばかり。そんな話はテレビで幾らでもやっています。でもそれでは、本当の意味で歴史を振り返ったことにはなりません。子どもたちの話したのはこういうこと。戦国時代の武将とか、幕末の志士など有名人は、その時代に生きていた無数の人たちの内のほんの一握りの人間に過ぎません。今生きている多くの人たちも、わたしたち自身も含めて、国中や世界中に名前が知れ渡って生きている訳ではありません。でも実は、歴史の中で、その時代時代の厳しさを真正面から受けて生きながら、本当に歴史を前へ進めてきたのは、そうした名前を知られていない無数の人たちなのです。
★歴史を振り返る時に大事なのは、過去の時代の中に生きていたはずの名前も知られていない小さな一人ひとりの人たちが何を感じて、どんなふうに考え、どのように生きていたかを知ることなのです。そして、とりわけ大事なことは、そうした小さな一人ひとりの人々の痛みや悲しみに思いを向けることです。わたしたちも、生きる中でさまざまな痛みや悲しみを経験するでしょう。そうした人間の痛みや悲しみは共感されることによって、はじめて和らげられ、癒され、そして歴史は前へと進むことになります。歴史を振り返るということは、人間が経験してきた痛みや悲しみを癒す働きなのです。
# by oji-church | 2018-09-05 13:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「過去のことでも、他人事でもない」

★8月9日から12日にかけて北支区と韓国基督教長老会ソウル老会の日韓青少年合同修養会が催されました。韓国のソウル老会から中高生を十数名迎えて、日本の北支区の諸教会の中高生と交流します。今年の主題は「日本と朝鮮半島の歴史を振り返る」というものでした。10日には関東大震災の時の朝鮮人の虐殺の事件を振り返って、墨田区の横網から八広までを日韓の中高生たちと一緒に歩いて、事件の掘り起こしをされているグループの方からお話を伺いました。
★震災後、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるとか、爆弾を準備して、暴動を計画しているだとか、家々に火を付けて回っているだとか、事実無根の流言飛語が飛びか周り、一節には軍隊や警察がそのような情報を流したと言われていますが、市井の人々がそこここで自警団を組織し、朝鮮人を片っ端からあぶり出して、手足を縛られ、日本刀で、銃で、鉈で、棍棒で殺され、あるいは多くの人たちが生きたまま石油を掛けて焼き殺し、そのように虐殺していったのです。中には軍隊が出動して、朝鮮人を機関銃でなで殺しにしたという例もあります。殺された朝鮮人の数は数千人とも言われていますが、事件後、政府も軍も警察も事件を葬り去ろうとして、確かな記録が残っていないため、真相はまだまだ分からない点が多いのです。
★学者の吉野作造という人が、事件後、調査をした記録には、この王子でも81人の朝鮮人の方が殺されたという記録が残っています。他人事では全くありません。また、今もなお、殺された人の子孫は悲しみを携えて、遺骨を捜しているというお話もありました。そしていままた、韓国・朝鮮の人たちに対するヘイトスピーチが横行して、「朝鮮人を殺せ、韓国人を殺せ」と叫ぶ人たちが巷で堂々とデモを行う時代になっています。これは決して過去のことではありませんし、忘れ去ってよい事でもありません。忘れ去ってしまえば、必ずまた同じことが起こることになるでしょう。これは決して過去の事ではないということを心に刻む必要があります。
# by oji-church | 2018-08-23 15:40 | 牧師からのメッセ-ジ
王子教会のメールアドレスを以下に変更いたしました。

ouji-church@kxb.biglobe.ne.jp

よろしくお願いいたします。

# by oji-church | 2018-08-23 15:18 | 全体のお知らせ
「『恥』の意味」③

★わたしたちはこの世に生きる中で、しばしば神様ではなく、この世の力ある者の考え方に染められて、神様に従うのではなく、この世の価値観に、世間体に従って、神様との約束を破ってしまいます。人の弱さを受けとめて、自分の弱さと結んで互いに助け合い支え合い守り合うよりも、人間の弱さを「恥ずかしい」と思ってしまう。
★ペトロは後の方になって、相変わらず力ある人の前に屈して、イエス様のことを三度にわたって「知らない」と否定してしまいます。しかしヨハネによる福音書には、復活されたイエス様がやはり三度にわたって「あなたはわたしを愛するか」と問い返すのです。三度イエス様を否んだペトロに、三度イエス様は「あなたはわたしを愛するか」と聞き返すことによって、約束を交わした自分と、約束を破った自分とに、真っ二つに引き裂かれたペトロを、赦し、癒したと言えるのでしょう。このイエス様の赦しと癒しを覚え、たびたびに渡って神様との約束を破ってしまうわたしたちが、そんな自分の苦さを噛みしめながら、再び、何度でも立ち帰って、やはり神様に従っていくことを求め、志すことが何よりも大事なことなのだろうと思うのです。
★戦前、戦時下の日本の教会の歴史を辿る時、それはまさに、神様に従わず、政府や軍部に従って、戦争に協力し、加担し、突き進んでいった歴史でした。戦後、日本の教会はそんな戦前、戦時下の教会の「恥ずかしい」歴史を忘れようとしてきました。でも大切なことはその「恥ずかしさ」を忘れることではなく、またそんな「恥ずかしい」歴史を作ってしまった教会を「これはダメだ」と切り捨てることでもなく、その「苦さ」を噛みしめ、背負いつつ、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に従っていくことに立ち帰り、それを求め志し続けていくことでしょう。その「苦さ」を忘れることなく噛みしめ、背負っていくことが、「自分の十字架を背負う」ということなのではないかと思うのです。そうして、もう一度、繰り返し、何度でも、神様に、イエス様に従っていくことに立ち帰り、それを求め、志していくことなのでしょう。
# by oji-church | 2018-08-15 11:57 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」②

★神様から見られて「恥ずかしい」ことって一体何でしょうか。わたしたちは神様によって創られ、神様によって愛されて、この世に生きる者とされたというのが、聖書に語られていることです。神様によって愛されるわたしたちは、神様との間に約束を交わして生きる。神様と共に、神様に従って生きるという約束。それは、神様がこの世に生きるすべての命を愛していつくしむ限り、わたしたちもまた、この世に生きるすべての命を大切にして生きるということでしょう。しかしわたしたちは、時に、神様に従うよりも、この世の力ある人に従って生き、人間同士の争いに加わったり、誰かを見下し、邪魔にして排除してしまったり、この世に生きるすべての命を大切にして生きるという神様との約束を破ってしまう。それが神様から見られて「恥ずかしい」ことではないか。
★第二次世界大戦中にドイツでナチスに抵抗して逮捕されて収容所に送られ、処刑された牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーが、「恥」についてこんなふうに語っています。「恥は、人間の分裂を知った時に発生する」。つまり、わたしたちが神様と(誰かと)約束を交わす。その約束を守ることができれば、わたしたちは自分のことをまっとうな人間だと思える。だけれども、わたしたちは時にその約束を破ってしまうことがある。その時、わたしたちは、約束を交わした自分と、交わした約束を破ってしまう自分と、二つの自分に引き裂かれてしまう。その時に「恥」が生まれる。これこそが、神様に対して「恥ずかしい」と思う「恥」なのでしょう。(つづく)
# by oji-church | 2018-08-08 12:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「『恥』の意味」

〈神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。〉(マルコによる福音書8章38節)。

★日本は「恥の文化」だと言われます。『新明解国語辞典』で「恥」という言葉を調べてみたら、二つの意味がありました。一つ目は、「世間体を意識した時に、ばかにして笑われるのではないかと思われるような欠点・失敗・敗北・言動など(を自省する気持)」。二番目の意味として、「自ら人間として(道徳的に)未熟なところがあるのを反省すること(気持)」。「恥」という気持ちには二つの面がある。一つ目は「世間体を気にして、ばかにして笑われるのではないかと思われる」気持ち。もう一つは、「自ら人間として未熟なところがあるのを反省する」気持ち。日本が「恥の文化」だと言われるのは、一番目の意味で「恥」を気にする気持ちが強い文化だということでしょう。わたしたちが何かを恥かしいと判断するものさしは「世間体」なのです。
★一方、もう一つの意味では、ものさしは、「自分自身」(深いところにある)「人間」(普遍的な意味で)「道徳的」(何が正しいことか、全ての人に当てはまる基準)というものです。でも、日本の社会では、こちらの意味の「恥」は、それほど意識されません。「深いところにある自分自身」「普遍的な人間というもの」「全ての人に当てはまる基準としての道徳」。これらは言い換えれば神様のことと言えるかもしれません。「恥の文化」の日本は、人から見られた時に「恥ずかしい」と思われることは極度に気にするけれども、神様から見られた時に「恥ずかしい」と思われることはあまり気にしない。
★イエス様はもう一度、わたしたちに、人から見られて「恥ずかしい」と思うことではなく、神様から見られて「恥ずかしい」と思うことを「恥ずかしい」と思うように、呼びかけているのです。(つづく)
# by oji-church | 2018-08-08 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「『受難』の意味」

〈人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている〉(マルコによる福音書8章31節)。

★以前NHKで放映された石牟礼道子さんの追悼番組の中で語られていた言葉に深く心を打たれました。緒方正人さんという方、この方は水俣病認定申請患者協議会の会長を務められた方でしたが、やがて会長を辞め、協議会も辞め、申請までも取り下げられた方です。認定の申請という形で闘うのではなく、人間として人間であるはず会社の人々に語りかける形で向き合おうとされてこられたました。その緒方さんが、石牟礼道子さんについて、こんなことを語っておられました。石牟礼さんはもともと、この世界の中で、人間が別枠にあるのではなく、沢山の生き物の中に連なって生きているという思いを持っておられた。石牟礼さんは、被害者の置かれている状況に対して「受難」という言い方をしていたと。単に病気で苦しんでいるということだけでなく、そこには生活の苦しさも、家族が崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを丸ごとすくい取ろうとする慈悲深さが石牟礼さんにはあったと。それが「受難」という言葉を石牟礼道子さんが使った意味ではないかと語っておられました。
 石牟礼さんの語る「受難」という言葉が、今日の場面のイエス様の言葉と重なって響いてきました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」。この苦しみは、イエス様一人の苦しみではなく、イエス様が目の前にし、傍近くに、肌身に触れて身を寄せた人たちの負っていた苦しみだったでしょう。「生活の苦しさも、家族は崩壊していく苦しさも、村全体が、いろんな差別や偏見を受けながら、人間苦をそれぞれが抱えていかなければならない状況。それを」自分の苦しみとして受けとめて、「丸ごとすくい取ろうとする」イエス様の思いがこめられているのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2018-07-26 12:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「生きる資格の証明は」

〈ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。〉(マルコによる福音書8章11節)。

★「天からのしるし」とは、その人が確かに天の神様のもとから遣わされた救い主だと証しする証拠でしょう。二千年も昔の話、いまはそんな「救い主」を探すことも、天からの証拠など求めることもないと思われるかもしれません。けれども現代にあっても、わたしたちがひとたび社会に触れる時には、何かに付け、履歴書、証明書を求められ、自分の存在価値を証明することを求められます。
★評論家の若松英輔さんがこんなことを書いています。入試や入社試験の面接で、面接官が履歴書に目を通し、質問を投げかけてくる時、「私たちの中では静かに、しかし、確かに燃え上がるような勢いで、ある想いが生まれる。『違う、あなたは分かってなどいない。そこに記されている事実は確かに私についてのことだが、それは何も私を語っていない。そこにわたしの本当の姿はない』、と内なる声がする。振り返ってみれば、履歴書を書き進めているうちに私たちは、どの項目にも書き得ない出来事こそが人生を決定してきたことに気が付いていたはずだ」。
★わたしという人間の本当の掛け替えのなさを形作っている、深いところにあるものは、決して証拠立てることができないものなのかもしれません。「天からのしるし」を求められたイエス様は「決してしるしは与えられない」と言って、それを示すことはしませんでした。イエス様の姿勢は、人の生きる価値や資格を証明することなんてできないし、その必要もない、ということを、言葉無く示しています。言ってみれば、わたしたちが今ここに共に生きているそのこと自体が、わたしたちの生きる資格のしるし、証拠なのです。
# by oji-church | 2018-07-19 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「天に触れる。隣人に触れる。」

〈イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」(開け)と言われた。すると、たちまち耳が開け、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。〉(マルコによる福音書7章33~35節)。

★イエス様はしばしば「天を仰ぐ」という仕草をしています。わたしたちがいま、空を仰いで見ても、何も無いと思われるかもしれません。手を精一杯空に向かって伸ばしても、空に触れることはできません。でも、わたしが手を伸ばして届くところを越えたところに、神様がおられる。その希望が向こうから、空のかなた、天のかなから、わたしたちのもとを訪れるのだと。イエス様はまさに、そのように思って、天を仰いだのではないでしょうか。その希望を胸一杯に吸い込むように、深く息をついて、「エッファタ」「開け」と囁いた。
★わたしたちの手は、天には届きません。だけれども、わたしたちが隣り合って生きている隣り人には触れることができます。わたしたちが神様から求められていることは、この隣り合って生きる人に「触れる」ということなのではないかと思うのです。イエス様は、「よし、わしは神の子だから、お前、治してやる」なんてことは言いませんでした。ただ手当てをしたのです。隣り合って生きている人の悲しみ、嘆き、痛みに向かって、精一杯手を伸ばして、自分にできる限り、傍近くに寄り添って、手当てをした。そうして、天には届かない自分の手だけれども、その天を仰いで、その天の彼方から訪れる希望を、胸一杯に吸い込んで、「開け」と願った。わたしたちもまた、天には届かない手を、隣人に触れて、寄り添って歩むことが神様から求められていることなのではないでしょうか。
# by oji-church | 2018-07-11 15:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「下からの声」

〈「子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます。」〉(マルコによる福音書7章27~28節)。

★「子犬」とイエス様によって嘲られたこのシリア・フェニキア出身の女性は、「食卓の下」。その貶められた場所から、それでも食卓の下に置かれた者であっても、「子犬はパン屑はいただく」、人は生きるに値する糧と権利を持っているのではないかとイエス様に問い返しました。先週の説教でこうお話ししました。「すべての人は清い存在」。これが福音のメッセージです。食卓の上で食事をしている者は、このことを当たり前のことのように思って忘れてしまっています。だけれども食卓の下に、蔑まれ、貶められた人にとっては、この当たり前のことを当たり前に生きるということが、やむにやまれず探し求め、せつに願い求める悲願なのです。「すべての人は清い」ということが、どれほど尊いことなのか、どれほど価高いものなのか、蔑まれ、貶められた人こそが深く、深く知り得ているのです。このテーブルの下からの声を聞いて、イエス様はそこで初めて、自分が語った「すべての人は清い」という福音の尊さ、価高さを教えられ、噛みしめたのではないでしょうか。
★「それほど言うなら、よろしい」。もとのギリシア語の原文を読めば、こんなエラそうな、上から目線の言い方はしていないのです。「あなたのその言葉のゆえに」と書かれています。この女性の食卓の下からの、蔑まれ、貶められる中から「すべての人間は清い」という宣言の尊さ、価高さを深く知り得て、それを切望するこの女性の下からの声を受けて、イエス様は「ほんとうにあなたの言う通りだ」と応えたのです。イエス様は、自分の中から出て来た人を汚すものを、この女性によって清められたのです。「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から、もう出てしまった」。帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。この女性の「すべての人は清い」とされることへの切なる愛が、イエス様を清め、そして子どもをも癒したのでしょう。
# by oji-church | 2018-07-04 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「自分の中から出てくるもの」

〈外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである〉(マルコによる福音書7章15節)。

★この言葉をこんなふうに言い換えてみます。「自分以外の人が、自分を汚すことはできない。自分自身の中から出てくるものこそが自分を汚すのだ」と。多くの人は、差別は良くないことだと思っています。その一方で、思いがけないところで、自分でも意識しないところで、わたしたちは、自分とは違うところを持つ誰かを、自分よりも劣った者と思い込んでしまう心の癖のようなものを持っています。これは、社会に染みこんでいる人を優劣づける価値観に影響されてのことなのですが、そこに浸かっていると自分では気付くことが難しいのです。でもやっぱり多くの人は差別は良くないことと頭では分かっている。それで、人を蔑むようなことを言ったり、やったりしながら、「自分は差別などするはずがない」と、自分の振る舞いが差別であることを強く打ち消すのです。
★差別が「いけない」のは、それが世間一般に「いけないこと」と言われているからではありません。差別が「いけない」のは、それが人を傷つけ、人の心を傷つけ、人の尊厳を、その人が「自分は生きていていい」と思える思いを傷つけ、さらにはその人のいのちを傷つけ、人のいのちすら奪ってしまうものだからです。そうして差別は、それをすることによって、わたしを、人のいのちを奪う存在にしてしまいます。差別は、わたしがそれをすることによって、そのようにしてわたし自身を汚すのです。
★わたし自身の中から、人のいのちさえ奪うものが出てくる。そのようにわたし自身を汚すものが出てくる。そう思ってみる時、そんな自分自身を振り返り、省みて、もう一度正していこう、正していきたいという思いが浮かび上がってくる、のです。「自分は差別なんかしない」という表面の取り繕いではなく、自分自身の心の深いところ、自分自身の魂を見返して、もう一度これを、神様が創り授けて下さったそのままのもの、そのままの姿を見つけ出していこうとする気持ちです。
# by oji-church | 2018-06-27 14:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「小さな人、弱い人が一番大事にされる場所」

〈子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。〉(ルカによる福音書18章15節)。

★子どもの頃は、周りじゅうコワイものだらけで、早く大きく強くなりたいと思っていました。思っていたら、だんだん大きくなりました。そうしたらコワイものも少なくなりって、強く大きくなる自分が嬉しくなりました。「オレはあの子よりは強い」。強い自分を確かめたくて、あの子にイタズラしたり、嫌がることをしても「オレは平気だ」。だって「オレはあの子より強いから」。これが始まり。「いじめ」の始まりです。
★イエス様のところに、お母さんやお父さんたちが、小さな子どもや赤ちゃんを連れてきました。でもお弟子さんたちはこの人たちを叱るんです。イエス様は強くて立派な人だから、小さな子どもや赤ちゃんなんて弱いものはイエス様に合わないって。だから近づくなって。でもイエス様はこのお弟子さんたちを叱って言います。「神の国はこのような者たちのものだ。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、神の国に入ることはできない」。
★世の中では、みんながもっと強く大きくなりたいと思っているけれども、神様の国はまったく反対に、小さな人、弱い人が一番大事にされるとイエス様は言います。だから、僕らも、小さな人、弱い人を、大きな人、強い人よりも前に、一番大事にするのでなければ、神様のそばにはいられないということです。
★それでもきっと神様は、僕らのそばにいて下さるだろう。みんなだれでも、大人でも、神様と比べたら、弱く小さい人だからです。だから、僕らは、自分が強く、大きくなることよりも、自分よりも弱い人、小さな人を大事にすることを、一番に心にとめていきたいと思います。そのとき、きっと、僕らの心の中には、自分が強くなること、大きくなることよりも、もっともっと、本当の嬉しさ、本当の楽しさが、心の中一杯に湧き上がってくるはずです。(「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
# by oji-church | 2018-06-20 14:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「神様の言葉を生きる」

〈「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。……あなたたちは受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」〉(マルコによる福音書7章8・13節)。

★ここでは、「人間の言い伝え」と「神の言葉」とが対比されています。人は自分が大事にしているものが他の人からも大事にされることを望むものです。それ自体は悪いことではないと思います。けれどもそれが、いつの間にか、「自分が大事にしているもの」ではなく「自分自身」になり、「大事にされる」が、「強く大きく、人を圧倒する立派さを備える」に変わってしまうことがある。宗教というのは、そのように変質してしまう危険をいつも孕んだものなのでしょう。
★神様の言葉って、もともとは、大事なことが、人を問わず、立場を問わず、肩書きを問わず、資格を問わず、地位を問わず、みんなで一緒に大事にされることをこそ、望み求めるものだったのじゃないか。それがいつの間にか、現代の教会でも、地位や肩書きや、立場や資格が問われ、神様の言葉そのものよりも、地位や肩書きや、立場や資格の方が有り難がられる、そんな面もあるのじゃないかと思うのです。
★神様の言葉が呼びかけること、それは大事なことをみんなで一緒に大切にすること。そこには人の大きさや強さや立派さは全く関係ありません。むしろだれもが、それぞれに大きさではなく小ささを、強さではなく弱さを、立派さではなく情けなさを抱えながら生きています。その小ささ、弱さ、情けなさに寄り添うのが神の言葉なのでしょう。神様の言葉は、強く大きく、立派に祭り上げるためのものではありません。神様の言葉は、人を問わず、地位も立場も、資格も肩書きも問わず、みんなで一緒に大切にし、わたしたち自身がそれを「生きる」ためのものなのでしょう。
# by oji-church | 2018-06-13 15:08 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(2)

★人間同士、すぐには理解しあうことは難しい。解りあえず、気持ちがささくれ立ってしまうこともあるでしょう。むしろ現実の人間同士の触れあいでは、そういうことのほうが多いかもしれません。それがあの人ともこの人とも、続き重なれば、人間に対する失望、アキラメ、絶望だけが残ってしまうでしょう。けれども、「いや、人間同士の関係というのは、今目の前にあるものだけで成り立っているのじゃない。わたしたちの目には見えないところで、お互いの心を開き、心と心を結び合わせてくれる力が働いているのだ」と思い直す時、わたしたちには、お互いの心の「ひらけ」を待ち望む希望と忍耐力が与えられます。歯を食いしばって我慢する忍耐力ではなく、「その時」が訪れるのを希望をもって待ち望みながら、いまなすべきことを一つ一つ丁寧に重ねていく、自由な「忍耐力」と言ってもいいかもしれません。時には、その人と一旦距離を置くことが、その時なすべきことであるかもしれません。
★そんな、目に見えないところで、人の心と心とを結び合わせようと働いている神様の力こそが、聖霊ではないのかと思う。それは、教会の中だけで、型どおりの信仰に人を導くためだけに働くのではありません。普段の生活の中で、理解し合うことのできなかった人と、ふと心が重なって想いを分かちあえたと思える瞬間、「ああ、いま聖霊が働いて、僕らを結び合わせてくれた」と感じることがある。大事なのは、いま目の前に見えていることだけ、それに基づく自分の判断や評価だけで、心を満たしてしまうことを止めて、聖霊の働く隙間を残しておくこと、そして聖霊が働くのを待つこと、ではないだろうか。それが「聖霊を信じる」ということではないかと思うのです。
# by oji-church | 2018-06-06 09:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「〈聖霊を信じる〉って?」(1)

★キリスト教の神学では、三位一体と言って、〈父なる〉神様と、その神様の〈子なる〉イエス・キリストと、そして聖霊とが、別々でありつつ、別々でない一人の神、ということになっています。でも、聖霊なるものを、イエス様や神様と同じように、聖霊に向かってお祈りしたり、語りかけたりすることは難しいと思わざるを得ません。なぜそうなのかと考えてみると、聖書を開いても、聖霊が言葉を語っている場面が無いから、かもしません。しかし、キリスト教が聖霊を、〈父なる〉神と〈子〉なるキリストと同じようにわたしたちが仰ぐべき大切なものとして守り信じてきたことを、やっぱり大事なことだと思うのです。
★聖霊というものを神様と同じくらい大切にすることで、わたしたちは目に見えないものを大切にする気持ちを与えられます。そして、目に見えないものを大事に想うことによって、わたしたちの心には、自由と希望とを与えられます。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、わたしたちはいま目の前に見えるものに左右され、それに一喜一憂して生きることになります。目に見えるものだけを頼りに生きるならば、いま目の前に生きている人もまた、わたしたちがそれに一喜一憂するばかりの「モノ」になってしまいます。でも、人と共に生きていくということは、いま目の前に見えるだけではない、その人の過去や未来、またその中でその人が思い、感じてきたこと、思い感じていることに、わたしの心を重ねていくことが是非とも必要です。(つづく)
# by oji-church | 2018-05-30 17:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「草にすわれば」

〈イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせる様にお命じになった。……イエスは五つのパンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配した。すべての人が食べて満腹した〉(マルコによる福音書5章39~42節)。

★王子教会での子ども食堂の目的は、ただ食事を提供することではなく、子ども同士、子どもとおとなの「つながり」を作ることに移り変わってきました。ただお店を開いて食事を提供するだけでは、つながってくることのできない、孤立している子ども達が多く集まってくるようになったためです。「食事をどうするか?」というモンダイは「自分のお腹をどうするか?」というモンダイであり、それは結局「自分をどうするか?」というモンダイに行き着きます。でも本当のモンダイは「自分をどうするか?」ではなく、「つながりをどうするか?」ということではないかと思えてきました。
★イエス様は「飼い主のいない羊のような有様」の人々を、お互いに顔の見える組に分けて、まあるいグループで青草の上に座らせました。そんな顔の見えるつながりそのものが、人を満たす糧(かて)となるのです。八木重吉という人の「草にすわる」という詩があります。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる」。草の上に一緒に座ると、「自分をどうするか?」に頭が一杯になっていた「わたしの まちがい」に気付かされる。そんな不思議な消息を、聖書はわたしたちに語りかけているように思うのです。
★わたしたちが目に見えない人間同士のつながりを形作っていこうと志す時、わたしたち自身は、十分な「モノ」を持っていないように見えたとしても、実は、このわたしの存在そのものが、人を満たすに十分な糧であり、わたしたちの生きているこの世界そのものが、人を満たすに十分な青草の原なのだということが分かってきます。
# by oji-church | 2018-05-23 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ