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礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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1月20日(日)(降誕節第3主日)

・子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】主の受難Ⅰ

*子どもの教会礼拝は、おとなもご参加いただけます。


・主日礼拝 午前10時30分

 説教「あなたも、わたしも生きてゆこう」

 渡邊さゆり牧師(日本バプテスト同盟)

【聖書】ルカによる福音書15章8〜9節

【讃美歌】25.6.419.413.65-1.90-3.

【招詞】詩編34編2〜4節

【詩編交読】147編1〜11節

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



# by oji-church | 2019-01-16 14:04 | 全体のお知らせ

「わたし」と「あなた」とのあいだに(1)

〈そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自分に降ってくるのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた〉(マルコによる福音書1章9〜11節)

★ここでイエス様はどこからともなく登場します。「ガリラヤのナザレから来て」とありますが、マタイやルカの福音書にはイエスの誕生物語があるのに対して、マルコによる福音書にはなぜイエス様が「ガリラヤのナザレ」から来ることになったのか説明がありません。このイエス様の登場は、わたしたちの人生にありように似ています。わたしたちも、どこからともなくこの世に現れて、気付いた時にはもう、生まれて生きてしまっていましたから。わたしたちは自分がどこから来たのか分からないのです。どこから来たのか分からないので、どこへゆくのかもよく分かりません。それでわたしたちは、人生の中でいつもどこかに不安を抱えています。

★近頃AI(人工知能)という言葉をよく耳にするようになりました。わたしたちに分からないことでも、AIがわたしたちの代わりに考えて、正しい答えを見つけてくれるように言われることも少なくありません。でも果たしてAIは、わたしたちがどこから来てどこへゆくのか、この問いに答えてくれるでしょうか。

★科学では人はただの生き物と見なされます。人が一人いれば、ホモ・サピエンスという生き物が一個体いるということですし、二人いたら二個体いるということです。でもわたしたちは、ホモ・サピエンス一個体として生きているのではありません。「わたし」という者を生きているのです。そしてそのわたしは、自分がどこから来たのか分からないという不安の中、暗がりの中に生きています。それがわたしたちとAIとの違うところです。(つづく)



# by oji-church | 2019-01-16 14:02 | 牧師からのメッセ-ジ

災いの中に平和の種をまく


〈バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。〉(エレミヤ書29章10〜14節)

★2018年を表す漢字に「災」という字が選ばれました。自然災害のみならず政治や国同士の関係を見ても良いことよりも「災い」と見えることの方が多く感じられます。

★預言者エレミヤは、ユダの国がバビロニアに滅ぼされ、捕囚として連れ去られた人々が戻ってくるこられるのは70年後と語ります。連れ去られた人たちその人はもう生きてユダに帰ってくることができません。しかしエレミヤはそれを、神様の「平和の計画」であって「災いの計画」ではないと語ります。

★エレミヤはこうも語ります。「エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。……わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレミヤ29章4〜7節)。

★力を持つ人々が、我勝ちにじぶんの都合だけを優先しているのが、現代の「災い」を生み出していると言えるでしょう。自分に不都合と思える状況にあっても(捕囚として送られた)、他者(その町)の平和を求める時、むしろわたしたちにも平和が訪れるのです。そのとき、厳しい時代の中にあっても、神様はわたしたちと共におられ、わたしたちは、本当の平和を見いだすことができるのでしょう。



# by oji-church | 2019-01-09 10:28 | 牧師からのメッセ-ジ

1月6日(日)(降誕節第2主日)

*子どもの教会礼拝 午前9時20分

【主題】主の受難Ⅰ

*子どもの教会礼拝は、おとなもご参加いただけます。


*主日礼拝 午前10時30分

 説教「イエス登場、わたし登場、あなた登場」

 大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書1章9〜15節

【讃美歌】29.61.361.419.81.65-2.90-1.

【招詞】詩編34編2〜4節

【信仰告白】讃美歌61番

*主日礼拝には、どなたでもご参加いただけます。



# by oji-church | 2019-01-03 14:01 | 全体のお知らせ

年の終わりに——終わったことにしないで

★2018年最後の日曜日になりました。皆さんにとってどんな年だったでしょうか。2月・3月にはお隣の韓国で北朝鮮も参加して冬季オリンピック・パラリンピックが開催され、4月には南北会談で両国の首脳が38度線を越えて行き来し、朝鮮戦争の終戦を目指す「板門店宣言」が出されたことは歴史に残ることでした。しかし日本では、韓国政府が2015年の日本軍「慰安婦」に関する「日韓合意」について「被害者を排除して解決を図ったことは間違いだった」と表明したことや、戦時下の徴用工について韓国の裁判所が賠償命令を出したことから、韓国に敵対的な論調が目立っています。日本政府は「あの戦争」を「終わったこと」として忘れようとしますが、被害を受けた人たちにとっては戦争はまだ終わっていないことを思わなければなりません。平和は、戦争を忘れることで訪れるものではなく、銘記して二度とそのようなことが起こらないように、いまここで、力ではなく対話による理解を深めていくことによって作られるものです。7月にオウム真理教事件に関わった死刑囚の人たちが次々に処刑されました。これもまた力によって「終わったこと」にしようとしているように思えます。

★6月には大阪で地震があり、7月の豪雨では200人以上の方々が亡くなりました。9月の北海道での地震でも多くの人が亡くなりました。温暖化による気候変動は人間が招いている側面が強くあります。寺田寅彦という人が「災害は忘れたころにやってくる」と言いました。自然は「忘れないように」とわたしたちに警告しているように思えます。


# by oji-church | 2019-01-03 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ

12月30日(日)(降誕節第1主日)

 午前10時30分

 説教「災いの中に平和の種をまく」

 大久保正禎牧師

【聖書】エレミヤ書29章4〜14節

【讃美歌】28.130.364.65-1.88.

【招詞】イザヤ書55章6〜7節


*礼拝には、どなたでもご参加いただけます。

*子どもの教会礼拝はお休みです。



# by oji-church | 2018-12-26 16:41 | 全体のお知らせ

サンタは遅れてやってくる

★アメリカの牧師で著述家のヘンリー・ヴァン・ダイクという人の『四人目の賢者』というお話があります。「アルタバン物語」という名前で知られています。

★聖書には三人の博士が登場しますが、実は四人目の博士がいたというお話。名前はアルタバン。他の三人の博士たちは「黄金、乳香、没薬」を救い主へのプレゼントとして用意しましたが、彼はルビー、サファイヤ、真珠という宝石を用意しました。他の博士との待ち合わせの場所に向かう途中、彼は砂漠で瀕死の病人を介抱したために約束の時間に間に合いませんでした。遅れを取り戻そうと宝石の一つを売ってラクダを手に入れました。でも救い主の誕生の場所に間に合いませんでした。そこで彼は、「2歳以下の子どもを皆殺しにせよ」とのヘロデ王の命令により、殺されかけた子どもを救うために、宝石の一つを兵士に渡してしまいます。

★救い主を探す長い旅の果てに、彼は探していた救い主が十字架に掛けられるという知らせを聞いてその場所に向かいます。しかし彼はそこで、奴隷として売られてゆく女性を解放するために最後の宝石を手放してしまいます。その時地震が起こり、落ちてきた瓦礫に当たって命を落としてしまいます。最後の時、彼の口元がこんな言葉をつぶやいていました。「主よ、いつ、わたしはあなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか。……33年間、主をさがし求めておりました。しかし、お顔を見たことも、お役に立ったことも、ただの一度だってないのです」。この彼の問いかけへ答えは聖書に書かれています。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。

★先週の子ども食堂のクリスマスに、サンタさんはだいぶ遅れてやってきました。もしかしたら、わたしたちの知らないところで、誰かを助けていたのかもしれません。クリスマスはわたしたちに救い主の誕生を知らせますが、もう一つクリスマスがわたしたちに教えてくれることがあります。それは「待つ」ことの意味です。救い主と出会うため、待つ間にわたしたちに託されていることがあるのでしょう。


# by oji-church | 2018-12-26 16:39 | 牧師からのメッセ-ジ

12月23日(日)(待降節第4主日)

クリスマスこどもとおとなの合同礼拝

 午前10時30分

 説教「ひとりをさがしに」

 大久保正禎牧師

【聖書】ルカによる福音書2章8〜21節

【讃美歌】231.261.264.263.540.64.こども66.

【招詞】ヨハネの手紙Ⅰ第4章9節

【詩編交読】リタニーを用います。

*礼拝にはどなたでもご参加いただけます。

*12月23日(日)はこどもとおとなの合同礼拝のため、子どもの教会の礼拝はお休みです。



# by oji-church | 2018-12-19 09:52 | 全体のお知らせ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


# by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ

神を畏れる

〈エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。〉(出エジプト記1章15〜17節)

★当時エジプト王の命令は神の命令とされました。エジプト王はエジプトで数を増やす寄留の民ヘブライ人の数を減らすため、彼ら/彼女らに重労働を課し、生まれてくる男の子を殺すように命じました。ところが命じられた二人の助産婦は、王の命じたとおりにはせずに、男の子も生かしておきました。なぜなら彼女たちは「神を畏れていたので」と説明されています。

★エジプト王のことをファラオと言います。ファラオというのはもともと「立派な家」という意味の言葉だそうです。エジプト王の神に由来する権威は「立派な家」というような目に見えて強大な事物によって示されました。人々は王宮、神殿、軍隊、要塞といった強大な事物を通して、王には神の権威が宿っていると認識したのです。ところが二人の助産婦は、目に見える強大な事物には神の権威を見ようとはしませんでした。次々生まれてくる子どもたちの誕生という「ありふれた出来事」の中にこそ、神様の声が響いていることを感じ受けたのです。そして、王の命じたとおりにはせずに、その神様の目には見えない小さな声に従ったのです。

★クリスマスには町は華やかに彩られます。クリスマスはイエス様の誕生の日ですが、いまはもう「ありふれた出来事」として忘れ去られています。イエス様は確かに、ありふれた一人の子どもとして誕生しました。でも、その、世間では忘れ去られてしまう、ありふれた出来事の中にこそ、神様の小さな声は響きます。それを聴き受けることこそが「神を畏れる」ということのなのでしょう。イエス様もまた、そんな「神を畏れる」人々があってこそ、生まれてくることができたと言えます。人が生まれて生きるということの裏には、華やかさや強大さではなく、ありふれた出来事の中に神様の声を聞く、神を畏れる小さな人々の働きが働いていることを覚えたいと思います。


# by oji-church | 2018-12-19 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ
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# by oji-church | 2018-12-12 08:55 | 全体のお知らせ

積み上げる生き方ではなく(2)

★この人は最初、イエス様に向かって「善い先生」と呼びかけてきました。しかしイエス様はそれに対して「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言って彼の「善い先生」という呼びかけを退けました。

★彼は「善い者」になるために、「永遠の命を受け継ぐ」ために、「何かをする」、そういう行いを自分のもとに積み上げていく必要があると思って生きてきました。しかしイエス様は自分が「善い者」になることを目指さず、「善い行い」を自分のもとに積み上げていくような生き方もしていません。イエス様の生き方は、何よりも「人と関わっていく」生き方でした。自分のところに何かを積み上げるのではなく、自分と人との間に、新しい出会いやつながりを生み出していくことを大切にしていく生き方です。そういう意味で「わたしに従ってきなさい」すなわち「わたしと出会い、つながるように」ということこそが何よりも、イエス様の彼に対する呼びかけの主旨だったのです。

★しかしそのことは彼には伝わらず、彼はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去っていきました。これはやはり、イエス様が伝道に失敗した場面と言わなければならないと思います。イエス様が彼に呼びかけたがった主旨が伝わらなかったと。でも、イエス様は立ち去っていく彼の後ろ姿をじっと見つめているのです。

★途中にこんな言葉がありました。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。この「慈しむ」という言葉は「愛する」というのと同じ言葉です。イエス様の思いは彼に伝わらず、彼は悲しみながら立ち去っていきました。しかし、「彼を見つめ、慈しんで(愛して)言われた」というイエス様のまなざしは、去って行く彼の背中になお注がれ続けていたのではないかと想像するのです。なぜなら、イエス様の生き方は「積み上げる」生き方ではなく、何よりも出会いをつながりを求める生き方なのですから。


# by oji-church | 2018-12-12 08:46 | 牧師からのメッセ-ジ

積み上げる生き方ではなく(1)

〈イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」・・・・・・イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つあ。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。〉(マルコによる福音書10章17〜21節)

★「行って、持っている物を『売り払い』」と言われています。これを読むたびに、イエス様に従っていくためには、持っているものを全部売り払って無一文にならなければいけないのかと思い、わたしも牧師失格だと、到底イエス様に従っているなど言えないのだ、この人と同じように、肩を落としてイエス様の前から立ち去らねばならないのだと思ってきました。しかし元のギリシア語の文を読みますと、必ずしも「全部を売り払う」という意味ではないようにも読めるのです。そういうことよりもむしろ、持っている「余分なもの」を、貧しい人々に与えて、いわば「身軽」になって、そうして「わたしについてきなさい」と言う意味なのだと思います。

★イエス様のこの人に対する呼びかけの一番の主旨は「持っているものを全部売り払う」ことよりも、何よりもまず「わたしについてきなさい」ということなのです。そのことのために重荷になるようなものは、貧しい人に分けてしまって、ということ。(つづく)


# by oji-church | 2018-12-05 13:23 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(3)

★「神の国」。それは、「ここにある」「あそこにある」と指さすことのできる、目に見えるものじゃない。うまく言葉にできるものでもない。けれども、それはわたしたちが本当に人間らしく生きていく上で、食べること、着ることにまさって必要なものであり、その中に生きるのであれば、今日の苦労があったとしても、明日また生きていくことができるようにさせるもの。そして、子どものようにそれを受け入れるのでなければ、決してそこに入っていくことができないもの、です。

★わたしたちは普段、いのちの消息について、「この世」と「あの世」に分けて考えることに慣れています。わたしたちは今「この世」に生きていて、死んだ人は「あの世」に行って、もう帰っては来ないと。「この世」ではあの「生産性」という言葉が示すように、何かしら利益を生み出すことが「生きる意味」、「いのちの価値」であると思われています。病気やしょうがいによってそれを生み出すことができなければ、「力が無い、弱い」、意味の無い、価値のない、死んだも同然と思われてしまう。ラザロがそう見られていたように、です。そして「あの世」に行った人々はもうまったく意味の無い存在とされてしまいます。けれどもイエス様は、それとは違ういのちの消息の中を生きておられたのではないかと思うのです。

★イエス様がマルタに呼びかけた「生きていてわたしを信じる者」というのは、「この世」と「あの世」に切り分けて生きるのではなく、イエス様と共にわたしたちも、この「神の国」をみつめつつ生きるようにという呼びかけなのではないかと思うのです。「神の国」では今生きているわたしたちも、すでに亡くなった人たちも、「生産性」などという測りではなく、等しく本当のいのちの価値を与えられて、神の子としての栄光を与えられて光り輝くんだ、ということです。


# by oji-church | 2018-11-27 15:10 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(2)

〈わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。〉(ヨハネによる福音書11章25〜26節)。

★その後、イエス様はラザロが病ですでに死んでしまった後、ようやくラザロのいるベタニアの村にたどり着きます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、悔しさをぶつけるラザロの姉妹マルタに向かって、イエス様は上記の言葉を語りかけます。

★イエス様自身決して死ななかったわけではありません。ゲッセマネの園では「死ぬばかりに悲しい」と語り、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。十字架の上では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、最後には、「大声を出して息を引き取られた」とあります。

★その一方でイエス様はしばしば「神の国」について語りました。「空の鳥、野の花を見てごらん」と言って「何よりも、まず神の国と神の義を求めなさい。……明日のことまで思い悩むな、明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」語られた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。また子どもを呼び寄せて「神の国はこのような者たちものものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。イエス様が、その中で生きておられたのは、この「神の国」でした。(つづく)


# by oji-church | 2018-11-21 16:26 | 牧師からのメッセ-ジ

いのちの価値のありか(1)

〈ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身で、ラザロといった。〉(ヨハネによる福音書11章1節)。

★ここではラザロという人が、名前よりも先に「ある病人」と紹介されています。もしかしたらそれは、このラザロという人が相当に長い月日にわたって病を患っていたことを表しているのかもしれません。「病人」と訳されている言葉は、「力のない、弱い」という意味の言葉です。当時、一般の民衆の人間としての価値は何によって測られたかと言えば、それは労働力としてでした。ほとんどは農民でしたから、十分に農作業に携わり、十分に実りを生み出す力を持った成人男性こそが、もっとも価値のある人間と見なされました。女性や子どもはその傍らにあって男性の所有物と見なされていました。そのような社会の中で、病気であること、そして、その病気が治らず、長い月日、労働に携わることができない者は、まさに「力のない、弱い」存在、価値の低い存在と見なされたのです。現在でもそのような価値観で人間を測ろうとする人がいます。国政に携わる人が、「LGBTには生産性が無い」という発言をして問題になったことは記憶に新しいことです。

★ラザロという人は、病のゆえに「無力で、弱く」価値がない人間であると思われていたのかもしれません。しかしイエス様は、ラザロの病気の知らせを受けて、こう言われます。「この病気は死で終わるものではない」。わたしはこのイエス様の一言のうちに、単にこの病気で死ぬことはない、という楽観論以上のものを感じるのです。病気のゆえに、ラザロは価値の無い人間であるというレッテルを貼られてしまうことに対する憤り、とでも言いましょうか、イエス様はむしろラザロはこの病気によって、「神の子としての栄光を受けるのだ」と言われます。(つづく)



# by oji-church | 2018-11-17 11:09 | 牧師からのメッセ-ジ

振り返れば、そこに福音

〈もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい〉(マルコによる福音書9章43節)。

★マルコによる福音書は、「十字架のイエスに従う」をテーマに書かれています。でもこの福音書を読み進めるうちに明らかになるのは、最後までイエス様に従いきることのできた弟子は誰一人いなかったということです。実は弟子にとって、そういう自分たちのふがいない有様を振り返ること以上に、わが身を切るように辛く痛みを伴うことは無かったのではないでしょうか。でもこのマルコによる福音書が訴えているのは、まさにその最も辛いこと、「弟子」を自称しながら、「イエスに従う」ことができず、イエス様を裏切り、見捨てて逃げ去ってしまった自分の情けない姿を振り返り、省みるということ、それをこそするように、ということだったのではないかと思うのです。

★歳を重ねるにつれ、振り返った我が身は情けない姿でしかないことを思い知らされます。でもそれを振り返り、省みる時、ふと気づくことがある。情けない自分の傍らに、一人の誰かがいることに気がつくのです。イエス様がわたしの傍らに、わたしと共におられることに気がつくのです。

★本当のキリストとの出会いとは、痛みを伴いながら自分を振り返り、省みることの中にあるのではないでしょうか。ふがいなく、だらしなく、なさけなく、みっともない自分の傍らにイエス様が共におられることを見いだすこと、そこからもう一度、その、わたしと共におられたその「イエスに従う」という歩みが始まるのです。そしてそれこそが、「命にあずかる」こと、わたしたちにとって本当の意味での「喜ばしい知らせ」、福音なのでしょう。



# by oji-church | 2018-11-07 09:31 | 牧師からのメッセ-ジ

一杯の水の中にある「世界」

〈わたしの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける〉(マルコによる福音書9章41節)。

★わたしたちはいくつかの組織に属しながらこの世に生きています。例えば教会に属している。自分の家族に属している。日本という国に属している。わたしたちは、そんな自分の属する組織の中で人生の大半の時間を過ごしています。そこなら気心が知れて、安心して信頼できると思っています。でもここでイエス様が言わるのは、そういう人のことではありません。通りすがりの見ず知らずの人が、自分に一杯の水を与えてくれる。そんな出会いがこの世にはある。そのとき、わたしたちは教えられるのです。自分の属している組織の外にも、人間が、生きているということ、お互いに助け合い、支え合う人間同士の関係がそこにもあるんだということを、です。

★自分の属している組織の外、そこはこの世界全体と言ってもいいでしょう。たった一杯の水が、この世界全体を見直す、広いまなざしをわたしたちに与えてくれることがあるのです。その広いまなざしはおそらく、神様のまなざし、神様がこの世界を見るまなざしなのでしょう。この世界はすべて神様が創られた世界です。だから、神様はこの世界を「敵」と「味方」との色分けして見ることをしません。神様は遠くにおられて、この世界全体を見渡しながら、しかしそれと同時に、旅人に一杯の水を恵む一人の小さな人を見逃すことをしないのです。

★世界全体が「敵」「味方」に色分けされ、分断が進む今の時代、わたしたちに必要なのは、この神様のまなざし、同じ組織に属する仲間内にとどまらない広いまなざし、しかし同時に小さな、見ず知らずの人の人間としての人間らしい温かみを見逃すことのない神様のまなざしを与えられることなのでしょう。



# by oji-church | 2018-10-31 12:16 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(2)

★集まってくる子どもたち一人ひとり、とても子どもひとりには抱えきれない問題・課題を背負わされていて、それがゆえに食堂を開くたびに、いろんな問題がここでも沸き起こってきます。ほとんどはすぐには解決のつかない問題です。そういう子どもたちが抱えた問題を、子ども食堂自身も抱え込みながら続けていくので、食堂は毎回、先の見えない中で続けていくことになります。

★それでもみんなで一緒に続けていくうちに、子どもたち一人ひとりの境遇や、行く先について、「こうであったらいいのにな」という「願い」が、皆の間に芽生えてきます。それは自分一人の自分勝手な「ああしたい、こうしたい」という「欲望」ではありません。また大人のボランティアの、「この子はこうなってほしい」という上から目線の「願望」でもなく、子どもたち一人ひとりの小さな声に耳を傾けながら、また子どもたちの仕草や様子をうかがいつつ、子どもたちの言葉にならない気持ちも受けとめて、「こうであったらいいのにな」という願いが、子ども・大人の垣根を越えて、またキリスト教の信仰を持っているかいないかという垣根も越えて、心の奥深いところで、皆が「こうであったらいいのにな」という「願い」を持つようになる。少しずつ、少しずつ、そんなつながりが出来てくるのを感じさせられています。

★「子はかすがい」という言葉がありますが、集まってくる子どもたち一人ひとりが抱えている問題・課題がむしろ、そうして大人たちも巻き込んで、垣根を越えて、同じ願いを分かち合うように結びつけてくれるのを感じるのです。「欲望」でも「願望」でもない、この「願い」こそは、もしかしたら「希望」というものなのかもしれません。そういうことを教えられている、学ばされています。


# by oji-church | 2018-10-24 08:42 | 牧師からのメッセ-ジ

「願い」の共有としての祈り(1)

★牧師になって23年になりますが、そのくらい牧師という立場にいると、だんだんと周囲はクリスチャンばかりになってきます。日本の人口の1%に満たないと言われるのがクリスチャンの数ですから、かなりかたよった人付き合いということになるかもしれません。

★子ども食堂を始めるようになって、そこで出会う人は、子どもたちも含めて、いずれもクリスチャンでない人たちばかりです。だったらその人たちに伝道をして、その人たちもクリスチャンになるように努めるのが牧師の務めではないかと言われるかもしれません。でもそういうことは全然していません。わたしの怠慢だと言われればその通りというより他ありません。北区の助成金をいただいていて、そこでは宗教活動や政治活動をしてはならないことになっているので、という言い訳あるのですが。願わくは、このことにいそしんでいるわたしや、教会員の方たちの「後ろ姿」を見て、キリスト教の信仰というものを受けとめてもらえればと思ってはいますが、どうもそうはならないところを見ると、そもそもわたしの「後ろ姿」がちっとも信仰深そうではないから、なのだと悲しく合点するところです。

★でも、そうしてクリスチャンでない方たちと一緒に協力して、地道に活動を積み上げていく中から、わたし自身が教えられることは、本当に豊かにあることを感じさせられています。ボランティアとしてお手伝いくださる方からも、集まってくる子どもたちからもです。何を教えられるのかと問われてもうまく言葉にできない気もしますが、あえて言えば、人間誰しもの奥深いところに秘められている「願い」のようなものを一緒に感じ取り、それを共有していくことです。(つづく)


# by oji-church | 2018-10-19 15:18 | 牧師からのメッセ-ジ