日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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二階建ての信仰

★クリスチャンで経済学者であられた隅谷三喜男先生は、日本のキリスト教は「二階建て」になっているのではないかと指摘しておられます。日本の牧師や熱心な信徒は一生懸命、欧米から伝えられた神学を勉強しています。その一方で日常の生活を送っているわけですが、この日常の生活においては、勉強した神学とはまったく関係のない生活を営んでいる。それは、キリスト教の「教え」に従うというよりも、日本的な現世主義の幸福志向、この世での無病息災、商売繁盛のようなことを願い求めることが、キリスト教の信仰のようになっていると言うのです。つまり、神学の勉強は家の二階の部屋でやっており、一階では日本的な価値観、生活観、人生観、世界観そのままの生活を送っている。そしてこの一階と二階を繋ぐ階段がない、と言うのです。
★この信仰と生活の関係という問題は、日本でキリスト教は始まってから今に至るまで、ずっと大きな問題であり続けていると思います。日本の社会は、戦前に作られた天皇を中心とした国作りとその価値観が現在も空気のように息づいています。それとは違うキリスト教の考え方に従って日常生活を生きていくというのは簡単なことではありません。日本社会一般の価値観に馴染んで生活をしていったほうが楽なのです。神学の勉強は一生懸命します。しかしそれが日常の生活と結びつかない。すると結局、日本社会一般から見れば、キリスト教というのは、どこか人と違ったことを言っているようだけれども、実際には普通の日本人と何にも変わらない。取り立てて見るべきところもない、ということになってしまいます。
★日本にはキリスト教が根付きにくい環境があることは確かなのですが、それと同時に、キリスト教の方でも、その環境に怯んでしまい、萎縮して過度に日本の社会の価値観に馴染んでしまうことで、なおさらキリスト教が根付かなくなってしまうという面があるのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-05-11 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
命の尊厳を願う

〈イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。……イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉(マルコによる福音書10章36~51節)

★願い事をするという点では、二人の弟子たちと盲人バルティマイの間に違いはありません。でも一方に対してイエス様は「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」とたしなめ、他方に対しては「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って励まし、祝福します。いったい何が違うのか。
★わたしたちはみんな、命を与えられてここに生きています。それは限りある命で、この世界全体から見れば、一つ一つは小さな命に過ぎませんが、しかし、一つひとつの命には尊さ、尊厳が与えられています。イエス様が「空の鳥を見なさい。あなたがたは鳥よりも価値があるものではないか。野の花を見なさい。あなたがたはなおさらではないか」と言われたようにです。けれどもわたしたち人間は時に、この命一つに与えられた尊厳以上のものを求めようとします。それは、権力、財力、社会的地位、軍事力等々。弟子たちが求めたのは、そのような人間の命一つひとつに与えられた尊厳以上のものでした。
★一方、バルティマイが求めたのは、自分の命に与えられているはずの尊さそのものでした。目が見えないことによって、人間以下のもののように貶められ、道端に放り出されていたバルティマイは、自分の命一つの尊厳を求めて、たとえ叱られ遠ざけられようとしても、声を挙げ続け、叫び続けた。頑張ったのです。それに応えてイエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼を励まし、祝福して、彼の命の尊さ、尊厳を救い出したのでした。
# by oji-church | 2016-05-04 15:45 | 牧師からのメッセ-ジ
「みんなの力」をどう出し合うか

★都会の問題はやはり、人と人との「心の距離」があまりにも遠いということではないかと思います。そこら中にコンビニ、スーパーがあり、ネット通販を利用すれば、家の外に出かけなくても、翌日には、早ければその日のうちにも、家に居ながらにして欲しいものを手に入れることができます。当然、その間、誰とも触れ合いませんし、言葉を交わすこともありません。そこには、人に煩わされずに自分にいいように生活できる気安さがあるのかもしれません。都会というところは、そういう気安さを求める人たちが集まる場所になっています。
★同時に近年、個人のプライバシー、個人情報の保護ということも厳しく言われるようになりました。牧師として病院にお見舞いに行ったところ、家族ではないからと、病室を教えてもらえなかったり、転院先の病院を教えてもらえなかったりして、困ったことがありました。プライバシー、個人情報の保護という見方からすると、一人ひとりの個人が人と繋がらずにバラバラに生きていることは、あたかも「よいこと」であるかのように見なされることになります。
★個人がバラバラに生きていくことが「よいこと」と見なされる社会の中で、病いやしょうがいを負った人、貧しさの中にある人、そうした弱い立場に置かれて、一人では立ち上がることが難しい状況に陥った人は、助け手を見つけることできずに、ますます厳しい状況に追い込まれることになります。個人が個人として大切に守られるということはとても大事なことです。でも、一人だけでは、個人を守ることができません。もともと民主主義というのは、個人を個人として守るために、「みんなの力」をどう出し合うのか、ということを考えに考えた末に編み出された仕組みです。個人個人のその人らしさを守るために、「みんなの力」をどう出し合うかということを、国や人任せにせずに、自分自身の事柄としてもう一度考え直してみるべきところに、いま、わたしたちは置かれているのではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-05-04 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ
お金とこころ

★少し前までは、お金で何でも解決できると考えるのは、いやらしいこと、浅ましいことだという感覚が、少なくとも庶民の間にはあったように思うのですが、今では、いかにも「お金さえ積めば、誰も文句はないだろう」と言わんばかりの政府の経済政策に多くの人がこぞって期待を寄せる有様になっています。、お金の力によってどんな問題を解決できるとわたしたちが考える時、わたしたちはお金を生み出してくれると思える人の言うことを、ひたすら聞くしか無くなるでしょう。たとえその人がよからぬことを企んでいたとしてもです。そのときには、きっとわたしたちは「よからぬこと」を、「よからぬこと」とも思えなくなってしまっています。なぜなら「お金が何でも解決してくれる」のですから。戦前の日本がまさにそうでありました。昭和恐慌に見舞われる中、「満蒙の特殊権益」やがては「大東亜共栄圏」なるものを死守しようと、戦争は「よくない」と思いながらも、果てしない戦争に突き進んでいったのです。
# by oji-church | 2016-04-21 09:45 | 牧師からのメッセ-ジ
この心にイエスを宿して

★マルコによる福音書で空の墓の場面に出くわした女性たちは、別の場面で「イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた」と語られています。それは華々しく福音を語る働きではなかったかもしれませんが、心を込めて体を動かす働きであったことでしょう。それがここでは「世話」という言葉で語られています。
★心を込めて体を動かす。そんなわたしたちの働きの中に、復活されたイエス様が宿って、今も生きておられる。それが、本当の意味での復活ということなのではないかと思わされます。復活のイエス様と出会うということ、それは、必ずしも、自分自身の外で起こる目に見える形での出会いばかりでなく、わたしたち自身のこの心、この体にイエス様を宿して、わたしたちが自分の人生を、自分のいのちをもう一度生き直していく中で起こってくることではないかと思うのです。
# by oji-church | 2016-04-14 13:01 | 牧師からのメッセ-ジ
心の中にイエスを生かす

★灰谷健次郎さんが書いた『太陽の子』という作品にこんな言葉が出て来ます。「ほんとに得手勝手な人間になれたら、人間ちゅうもんはきらくなもんやな……と、ふうちゃんは思った。いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろかと。いい人というのは、はじめからいい人であったわけではないのだろう。」
★自分の心の中に自分以外の人間が住んでいる。そんなことを思ったことがあるでしょうか。牧師という仕事をしてきて、何人もの人のお葬式をしてきました。先週も、この教会にずっと昔から通っていた96歳のおばあさんが亡くなってお葬式をしてきました。今は目に見える姿ではお会いできません。でも、目をつぶって思い出せば、心の中にそのおばあさんが笑っている顔が浮かび上がってきます。お話しようと思えば、お話しだってできます。そんなふうに、わたしのこの心の中に、亡くなったその人が今も生きていることを感じることができます。
★「生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、人間はやさしい気持を持つことができるのよ。」(『太陽の子』)亡くなった人が精一杯生きたことを思い出して、わたしも精一杯生きようと思う時、自分以外の人を大切にしようという気持ちが生まれてきます。あのお墓の中で「ガリラヤへ行けば、もう一度イエス様にお会いできる」と天使が言ったのは、そういうことではないでしょうか。「精一杯生きられたイエス様を、あなたの心の中に生かしていきなさいよ」と。わたしたちは、わたしたちの心の中に、イエス様を住まわせているでしょうか。イエス様を生かしているでしょうか。(2016年3月27日イースター合同礼拝説教より)
# by oji-church | 2016-04-06 09:23 | 牧師からのメッセ-ジ
人間らしい生き方へと招かれる

★ヘイトスピーチの問題について取り組むために、「人種差別撤廃法」を成立させようと呼びかける集まりが参議院議員会館で行われました。そこで、朝鮮学校に通う子どもたちへの聞き取り調査の結果が発表されました。その中の問いに対する子どもたちの答えに、ハッとさせられました。「ヘイトスピーチのデモに参加する人たちをどう思うか」という問いに対して、朝鮮学校に通う子どもたちの38.7%が、「許せない、絶対に理解しあえない」と答えたとのことでした。でも、こういう選択肢もありました。「許せないけど、同じ社会に生きる人間だから、いつか分かり合える」。この答えを朝鮮学校に通う子どもたちのどれだけが選んだか。39.6%。わずかではありますが、「絶対に許せない」と答えた子どもよりも、「同じ社会に生きる人間だから、いつか分かり合える」と答えた子どものほうが多いのです。そして、「絶対に許せない」という答えに丸をつけた子どもたちの幾人かは、「絶対に分かり合えない」と「いつか分かり合える」の二つに丸を付けたということです。そうして、「あなたは共生社会を創るために、何がしたいですか? 自分がすべきことまたはしたいことを自由に書いてください」という問いに対して、多くの子どもたちが、ヘイトスピーチのデモに参加している人たちと「交流をしたい」と答えたと言うのです。そうすることで、自分たちに向かって「死ね」「殺せ」と叫ぶ人たちが気持ちを変えてほしいと願っているのです。
★差別の事柄に向き合う時、大切なことは、、差別をしたり、その痛みに気づかないわたしたちは、差別の痛みを訴える人からただ断罪されているのではなくて、人間同士の触れあいを求め、大切にする、より人間らしい生き方へと招かれている、ということを知ることなのでしょう。
# by oji-church | 2016-03-31 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ
奥まった自分の部屋で祈る

〈あなたがたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。〉(マタイによる福音書6章6節)

★この「奥まった自分の部屋」というのは目に見える実際の部屋のことではないのでしょう。山の上でイエス様がお祈りしている場面が福音書には何度も出て来ますし、五千人の人たちとパンと魚を分かち合った時、イエス様は野原の真ん中で大勢の人たちの前でお祈りしました。それは、わたしという独りの人間の一番奥深いところにある一番弱い部分、生まれてやがて死ぬまでのつかの間の間、しばらく生きるだけの、芥子粒のように小さな存在、そのように、わたしという独りの人間の一番奥深いところにある場所ではないでしょうか。このわたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分、芥子粒のように小さなわたし、そこでは、このわたしを助けてくれるのは、もう神様以外には誰もいません。こうして、わたしは、「奥まった自分の部屋」、わたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分、芥子粒のように小さなわたし、そこに降りていってお祈りをする時に初めて、神様と出会うことになるのだろうと思います。
 わたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分に降りていってお祈りをする時、わたし以外の他の人にも、本当の意味で出会うことになるのではないでしょうか。つまり、わたしもあなたも、人間みんなが実は、神様を頼りにするより他ない、小さな芥子粒のような存在なのだということを知らされるのです。しかし神様は、どの小さな芥子粒のような存在も、「見よ、それは極めてよかった」と喜びの声を挙げて祝福し、喜んで愛を注がれる。そのことを知らされるのが、祈ることの意味なのでしょう。

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教会の植え込みの花が咲き始め、春を告げています。
# by oji-church | 2016-03-23 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
一緒に食べる

〈一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」〉(マルコによる福音書14章22節)

★聖書には、いたるところに人々が一緒に食事をする場面が出て来ます。どうしてこうも食事の場面が出てくるのでしょうか。人は食べなければ生きていくことができません。一緒に食べるという振る舞いは、自分自身と自分以外の人の「食べなければ生きていかれない」という〈弱さ〉を受け入れ合うことなのではないかと思います。この〈弱さ〉はいのちの根源にあるものです。このいのちの根っこの部分に触れようとして、聖書には沢山の共に食事をする場面が語られているのではないかと思います。
★「私たちが食べるものは私たちの日ごとの食物であって、私だけのものではない。そこで私たちは、ただ霊においてだけでなく、身体をもった存在の全体においても互いに強く結ばれている。そしてこの身体をもった生活の交わりを破る者は、そのことによって霊の交わりを破るのである。……私たちが、私たちのパンを一緒に食べている限り、私たちはごくわずかなものでも十分に持っているのである。誰かひとりが自分のためだけに取っておこうとするときに初めて、飢えが始まるのだ」(ボンヘッファー『共に生きる生活』)。いま、世の中では「こども食堂」など、〈一緒に食べる〉活動が始められています。これはイエス様がなさった、多くの人たちと共に食べる働きと重なるように思われます。現在教会も人的・財的に厳しい中にありますが、そうであればこそ、「わずかなパンを(教会という枠を越えて)一緒に食べることの大切な意味をあらためて噛みしめる時ではないでしょうか。
# by oji-church | 2016-03-15 12:54 | 牧師からのメッセ-ジ
あるとき、ふっと

★2ヶ月ほど前から左肩が痛んで挙げられなくなりました。1ヶ月程前にお医者に行ったところ、「そっとしておくのが大事ですよ。2,3ヶ月して、あるときふっと、『あれ、痛くない』なんて気づくこともありますよ」なんて、治療とも言えないようなことを言われて、痛み止めの塗り薬だけもらってトボトボ帰ってきました。それからひと月たちましたが、まだ痛みは続いています。
★春が近づいて、フト見ると一昨年前に挿し木して、教会玄関脇に植えたバラの苗に小さな新芽がついているのに気がつきました。シゴトシゴトのせわしない日々の中で、じっと見ていたい気持ちに駆られますが、じっと見ていても新芽は膨らんできません。でも、あるときふっと見ると芽が出て、膨らんで、伸びているのに気づかされます。日々の傍らには、あるときふっと与えられるそんな喜びが隠されているのでしょう。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4章26~27節)。どうやら神の国は教会の玄関脇の辺りにあるようです。
# by oji-church | 2016-03-09 09:51 | 牧師からのメッセ-ジ
違いを拒否せずに

★先週は、金曜日に北支区東京教区問題委員会主催の「これからの宣教を考える集会」、土曜日には北支区社会部主催の「教会と社会を考える集会」、日曜日は四谷新生教会との講壇交換礼拝の後、国会前で行われた「辺野古新基地建設反対」のデモに参加するなど、「教会」と「社会」の間を行ったり来たりして過ごしました。
★金曜日の集会では「べてぶくろ」の向谷地宣明さん、「べてるの家」の向谷地生良さんのお話を伺いました。向谷地生良さんの著書『精神障害と教会』という本の中にこんなことが書かれています。「もっとも重要なことは、『一番大切なことを、一番大切にする』のを諦めないことと、『一番大切なことを、一番大切にできない」 私たちの惨めな現実を受け入れ、担い続ける勇気です。……そして、忘れてはならないのは、大切な人とは、私たちがもっとも受け入れにくいかたちで出会いが用意されるということです」。
★土曜日の「教会と社会を考える集会」でわたしはこんなことを話しました。「教会〈と〉社会」と言われるけれども、実は教会に集まっている人はどの人も社会の中で生きているわけで、実は「教会〈と〉社会」と二つには分けられない。教会〈が〉社会の一部であるということ。教会から教会の外の社会に向かって積極的に出かけていく人もいるし、教会の外の社会で傷つき、疲れ果てて、教会という場に「安らぎ」を求めて来る人もいます。そんな、いろんな人が教会に集まっているというのも、教会という場所が、やっぱり社会の一部であることの証しであると思います。大事なのは、そうしたお互いの違いを「拒否する」ことはしないのだということ。お互いの違いを拒否せずに、一緒にいることができるために、何ができるかを工夫していくことが、教会だけでなく、わたしたちの社会全体が、いま一番必要としていることかもしれません。
# by oji-church | 2016-03-02 15:46 | 牧師からのメッセ-ジ
「あの人よりマシ」と思うときには

〈キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした〉(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)

★イエス様が人間となり、十字架にかけられて殺されるという、ひどく無力で惨めな死に到るまで、人間として生きることを止めずに生き通されたことを、神様はよしとされたということです。
★わたしたちだって、ここにいる誰もが「自分は人間だ」と思っているでしょう。でも、実はしばしばわたしたちは「あの人よりかは自分はマシな人間」「見所のある人間」と思ったりしています。わたしたちが「あの人よりかはマシな人間」と自分のことを思う時、わたしたちは、その「あの人」のことも確かに人間だと思っています。でもそれよりも「マシな人間」としての「わたし」というのは、もしかして「人間としての『あの人』」よりも一段上にのぼっていやしないだろうか。その時、はたしてわたしたちは自分のことを本当に「人間」と思っているだろうか。わたしたちは、実はまだまだ「人間になる」ということを十分にはやり遂げていない、マスターしていないというのが、ここでパウロが語っていることなのではないかと思うのです。
★わたしたちが自分の弱さを背負って、失敗や挫折や間違いや恥ずかしいことを重ねながら、それでも「人間になる」ということを大事にして、人間として生きていくとき、必ず「人間になり、人間として生きた」イエス様が、目には見えなくてもわたしたちと共におられ、わたしたちのことを分かっていてくれる。だから、「喜びなさい。喜びなさい」というのが、パウロがこの手紙を通じて呼びかけていることです。
# by oji-church | 2016-02-24 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
神への「負け」

〈主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです〉(エレミヤ書20章9節)。

★信仰なんて持たないほうがよかったと思うこともあります。信仰を持ったばかりに、わたしたちが生きているこの時代に、神様は何を求め、呼びかけているのかを問われることになります。結局多勢に無勢で、この世の中で「負け」を味わわなければならなくされます。そんな状況を預言者エレミヤは神様に対する「わたしの負け」と語っています。エレミヤはこの世にも負け、神様にも負け、という四面楚歌の「くぼ地」へと落ち込んでしまっています。
★くぼ地は日当たりも悪いし、雨が降れば周囲の水が流れ込んでくる辛気くさい場所です。でも一つ言えることは、くぼ地は周りの高い土地よりも、大地の真ん中に向かってはより近くにいるということです。そしてこの大地は神様が造ったものだと聖書は語っています。つまり、この大地を造られた神様のより近くにいるということでもあるわけです。
★「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。イエス様の生き様もまた「高み」を目指すものではなく、低く下ってくぼ」を目指すものでした。この世の多くの人々の「勝ち」と、神様の「勝ち」とは実は意味するものが決定的に違います。この世の多くの人々の「勝ち」は、自分だけの勝利、栄光、高みを目指すものです。だけれども神様の「勝ち」は、神様によって命与えられたすべてのものが「見よ、それは極めて良かった」という喜びの呼びかけを受けることへと向けられた「勝ち」です。だから、この神様の「勝ち」の前にわたしたちが負けることは、むしろ、すべて命を与えられてこの世に生きる者たちが、喜びの呼びかけを受けることへと向かう道なのです。
# by oji-church | 2016-02-10 14:24 | 牧師からのメッセ-ジ
原発事故から5年 福島の教会の働き

★1月19日、福島県いわき市の教会・幼児施設を訪ねました。震災・原発事故から5年となる今、政府や社会には「終わったこと」にしようとする空気が日増しに濃くなっていますが、現地ではなお先の見えない苦悩の中に人々が置かれる中、教会が地域の人々と出会い結び合いながら、懸命に世に仕える姿がありました。以下は常磐教会の明石義信牧師の言葉です。
 「わたしたちの教会が被災地のただ中に立っているという現実がある。低線量被曝の影響が心配されるが、その影響が証明されるのは数十年後だろう。その間、わたしたちはこの場所で、不安と不透明性の中に生きていく。
 被災地に、主イエス・キリストがおられることを示す教会でありたい。苦難、痛み、疎外の中にいる者に対する、ことさら優しい主イエスのまなざしがある。この信仰の中で、この場所でよろこんで生きていることを伝える働きが、教会の役割ではないか。具体的な関わりの中では、真実を語ることのできない困難な人へアプローチして、心の声を聞くこと。不安の中で孤立している人にアプローチして、その歩みに伴うこと。
 現在、いわき市では空間線量が低くなってきており、この場所に住み続けるということは、他の地域と比較して低い、あるいはもう毎日考えるのも疲れたから考えないようにしようということもあるだろう。恐れの中で不安をだれにも言えず、子どもたちのために、食べ物、住まいなど自己決定を迫られている親たちもいる。わたしたちの教会に併設するいわき食品放射能計測所「いのり」は、そのような人たちが事実を見つめるための支援、安全への支援をしていきたい。いわき市民ばかりでなく避難移住者が利用している。自宅の土を計測し、帰還できるか否かのひとつの判断材料とする。時折、非常に汚染度の高い依頼品が発見されるのが現実である。
 被災地にはそれぞれの多様な事情があり、どの場所にあっても被災地を代表して語るということは不可能である。しかし、そうであるならば、わたしたちはその場所に出かけて行って、その声を聞くこと、そういう働きを担うように、主イエス・キリストが示して下さったのではないだろうか。」(日本基督教団東北教区「第20回『教区の集い』報告書」より)
# by oji-church | 2016-02-03 11:59 | 牧師からのメッセ-ジ
喜びの傍らには(2)

★フィリピの信徒への手紙の中でパウロは、イエス様のことについて、このように語っていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。イエス様は自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うそのために、とことんまで「人間」として生き、他の「人間」の気持ちを理解し、分かり合い、受けとめて生きる生き様を生き通されて、その果てに十字架に掛けられて殺されるという「人間」として生き死にする痛みの極みを経験されたのだということです。だから、わたしたちは、他の誰よりもまずイエス様によって「分かり合って」もらっているのだ、ということです。
★「こんな自分の気持ちなど誰も分かってくれやしない」と思っていたわたしたちが、不思議にも「分かってもらえた」と思って「笑う」「喜ぶ」。その傍らには、他の誰よりもまず、イエス様がいるのだということです。わたしたちは何よりも、イエス様によって、分かってもらえた、理解してもらえた、受けとめてもらえた人間なんだということ。
★わたしたちは相変わらず、互いに分かり合うことの難しい世界の中に生きています。家族の中でも、教会の中でも、国々の関係を見ても。でもわたしたちが、まず何よりも、イエス様が分かってくれた、理解してくれた、受けとめてくれた、そう思って生きる時、何かが変わるのではないでしょうか。誰かに「分かってもらう」ことを過剰に期待したり、あるいはまた、どうせ誰も分かってくれやしないと捨て鉢な気持ちになったりすることなく、自分とは異なる人と出会い、今は分かり合えなくても、分かり合い、理解し合い、受けとめ合うことができるようにされ、共に生きる喜びに満たされる時が必ず来るという希望を灯火をともすことができるようにされるのではないでしょうか。
# by oji-church | 2016-01-28 16:33 | 牧師からのメッセ-ジ
喜びの傍らには

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(フィリピの信徒への手紙4章4~5節)。
★わたしたちにはいろんな「喜び」があります。欲しいモノを手に入れた喜び。物事がうまくいって幸せになるという喜び。気の合う仲間や愛する人と共にいる喜び、等々。でもわたしにとって、この世の見方を変えさせてくれるような本当の喜びは、自分と違う誰かとお互いにお互いの気持ちを「分かり合えた」という、そういう経験だったように思います。
★いつだったかテレビのコマーシャルでオノ・ヨーコさんが、こんな言葉を語っていたのを憶えています。「一人で泣くことはできる。でも、一人で笑うことはできない」。本当の喜びというのは、一人で味わうものではなく、誰か自分とは違う人との間に生まれるものなのでしょう。こんな自分の気持ちなど、誰も分かってくれやしない、理解されるはずもないと思っていたのが、不思議にも、自分以外の人が分かってくれた。理解してくれた、受けとめてくれた。それが本当の意味でのわたしたちにとっての「喜び」であり、そんな「喜び」の傍らには、自分一人ではない、いつも自分と違う誰かがいるのです。
★パウロがここで勧めているのは、そんな「喜び」ではないでしょうか。と言っても、そんな本当の「喜び」を経験することは、決して簡単なことではありません。「分かり合えた」喜びよりも、結局、所詮「分かり合えない」、そういう経験の方がわたしたちはこの人生の中で圧倒的に沢山経験するものです。人と分かり合える喜びを誰かに期待しても、結局自分一人の過剰な思い込みや期待であったり、肩すかしを食らったりして、相手と分かり合うことよりも、むしろ相手に対する失望や怨みを深める結果になってしまうという経験をわたしたちはしばしばします。それでもなお、パウロは「常に喜びなさい」と繰り返し勧めるのです。そんな喜びはどこからやって来るのでしょうか。(つづく)
# by oji-church | 2016-01-21 12:57 | 牧師からのメッセ-ジ
 「苦労」の傍らにある「負け」

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイによる福音書11章28節)。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。

★イエス様は「わたしは既に世に勝っている」と言われます。しかしイエス様は十字架に掛けられた殺された人でした。それは、この世の物差しから言えば、明らかな「負け」に違いありません。でもイエス様のこの明らかな「負け」が、ユダヤやローマ帝国の権力を持つ人たちの「勝ち」よりも、はるかに深い魂の震えを人々の心に刻んだのでした。それはイエスという人の生き様から響いてくるものでした。イエスという人はいつも、苦労している人、重荷を負っている人を招き、寄り添って生きた人でした。その人生の果てに、十字架に掛けられて殺された人でした。そのようなイエス様の生き様はしかし、人々にとって、その「負け」をさえ突き破り突き抜けて、苦しんでいる人、重荷を負う人のその苦労に、どこまでも寄り添い続けていく力強さを湛えていました。それは人間のどんな力を持ってしても敵わないものです。
★イエス様が「休ませてあげよう」と語るのは、このような苦労している人、重荷を負う人のその苦労、重荷に、イエス様の「負け」でありつつ「勝ち」である働きを、どこまでも寄り添わせていくぞ、という呼びかけなのでしょう。苦労や厳しさは相変わらずあるのだけれども、そのわたしたちの苦労や厳しさの傍らに、どこまでもイエス様の「負け」が共にいてくれるということ。「柔和で謙遜な者だから」。自分の「勝ち」にこだわらない、イエス様の柔らかさ、他者のために心砕く生き様がそこには響いています。
# by oji-church | 2016-01-13 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
はじめに〈呼びかけ〉があった

★聖書に一貫して響いているのは、神様の「呼びかけ」です。「光あれ」という呼びかけに始まって、聖書のどの頁を開いても、そこには神様の呼びかけが響いています。この呼びかけは、単に聖書に登場する人々に向かっての呼びかけというだけでなく、この聖書を読む人々、つまりわたしたちにも向けられている呼びかけに他なりません。
★呼びかける、とは、いったいどういうことでしょうか。わたしたちは誰もいないところで誰かに呼びかけたりはしません。また、わたしたちは「モノ」に向かっては呼びかけません。足の小指を柱の角にぶつけて、痛さの余りに柱に向かって「バカヤロー」と呼びかけることはあります。でも柱に向かって呼びかけても、柱は謝りもしないし、反省もしません。そう気づいて、空しい気持ちにさせられます。言い換えれば、呼びかけるということは、呼びかけるその相手を「モノ」ではなく「生きている人間」として「認める」ということです。亡くなった方の遺影に向かって呼びかけることはあるでしょう。それは亡くなってもなお、その人が「人として生きた」という事実を、大切なこととして認める振る舞いです。
★いまわたしたちの生きている社会を見渡すと、新聞やテレビなどでは、この世界全体の人間のことは数字やパーセンテージで表されます。わたしたち自身、身近な何人かの人のことは生きている人間として出会い、触れ合います。でもそれ以上の世界にある人のことについては、もう「そこまでは考えてられない」とばかりに、考えることを止めにしてしまいがちです。そして、わたしたちにとって「身近」と考える世界の外にいる人は「どうでもいい存在」になっていきます。経済力や軍事力ばかりが優先される世界で、数字、パーセンテージで表される「モノ」とされたわたしたち自身がまた、他者を「モノ」として扱うようになるのです。
★わたしたちがお互いを「モノ」ではなく生きた掛け替えのない存在として、出会い受けとめ合って、「生きた人間」とされる平和を見出すために、聖書に響く神様の呼びかけに、大切に耳を傾けてゆく者でありたいと思います。
# by oji-church | 2016-01-06 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
クリスマスの晩に始まったこと

★イブのキャンドルサービスでは、ベルトルト・ブレヒトの「マリア」という詩を読みました。

初めての出産は凍てつく夜。
でも、あとになってマリアは忘れてしまった
痛みの中でで見上げた天井の梁におりた霜も
かまどの煙も
後産の苦しさも
けれども、もっとすっかり忘れてしまったこと
それは、貧しさゆえに、一人きりになれなかった恥ずかしさ。
それだからこそ、のちにこのことを記念する宴に
あらゆるものが集うことがゆるされた。
羊飼いたちの荒っぽい話し声は静まり
彼らは物語のあとのほうで王になった。
冷たい風は天使の歌に変わり
霜が入りこんだ屋根の穴からは、一つ星だけがこちらを見ていた。
こうしたことすべての源は彼女の息子。
息子はやさしい顔で、
歌を愛し、
貧しい者を自分のもとに招いた人。
王たちと共に座し、
夜は頭上に一つ星を仰ぐ、
そんな習慣をもっていた人。
(D・ゼレ、L・ショットロフ『ナザレの人イエス』より)

クリスマスの祝いにあらゆるものが招かれるのは、マリアさんがイエス様が生まれた晩の寒さも、貧しさのために一人きりになれなかった恥ずかしさも忘れてしまったおかげ。そしてそれは、王たちと座しながら、貧しい人を招き、頭上に一つ星を仰ぐ習慣を持っていた彼女の息子のおかげ。
★クリスマスの出来事は、凍てつく寒さの夜、貧しさのなかで起こりました。でもこの晩始まった出来事は、いまも続いていて、わたしたちに、この世界に生きることの厳しさを乗り越えて、希望を持ち続ける力を与えてくれます。だから、わたしたちはこのクリスマスの晩から、また新たに、この世界の厳しさの中で生きている人と出会い、共に希望を見つけ出す歩みへと踏み出していきます。
# by oji-church | 2015-12-29 09:11 | 牧師からのメッセ-ジ
★クリスマスこどもとおとなの合同礼拝
12月20日(日)午前10時30分~11時30分
*礼拝後、食事を囲んでお祝いの会を行います。どなたでもご参加いただいけます。

★クリスマスイブ キャンドルサービス
12月24日(木)午後6時30分~8時
*ロウソクの灯火のもと、イエス様の御降誕に思い巡らす礼拝です。どなたでもご参加いただけます。

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# by oji-church | 2015-12-24 20:00 | 全体のお知らせ