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礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「身勝手」民主主義?

★先週水曜日、「子ども食堂」を終えて家に帰ってテレビを点けると、アメリカの大統領選の結果が報じられていました。結果はトランプ候補の勝利でした。自国の一部の人々の不満を掻き集め、その身勝手を実現することを政策として掲げ、移民や少数者や、他国や対立候補に対して、また女性に対しても、口汚い侮蔑的な「言葉の暴力」をまき散らしてきた人物です(報道ではこれを「暴言」と揶揄していますが、それは具体的に人を傷つける力を持つものであり、本来、ただ「揶揄」して済まされるものではありません。ちなみにだからといってわたしが対立候補を絶対的に支持しているわけでもないのですが)。このような人物が支持を集めているのは、アメリカばかりではありません。日本でも同じ状況が広がっています。
★呆然とテレビを見ているとCMが始まりました。米大統領選挙を模して男女の候補者がやりあうパロディCMは携帯電話会社のものです。笑いを誘う意図があるのでしょうが、ぜんぜん笑えません。世界の将来に対する暗澹たる気持ちと、それでも笑いを誘って購買欲を煽るCMとのギャップに苦しみます。気付いたのは、世界がどうなろうとも、広告等に現れている「金を儲けろ」という欲望だけは、何事もなかったかのように身勝手に突き進んでいく、そんな世界にわたしたちは生きているということです。
★民主的な選挙によって当選した候補です。民主主義は本来、一部の人々の「身勝手」を抑制するための制度のはずですが、いつの間にか民主主義のただ中で、人々の身勝手が大手を振ってまかり通るようになりました。「人間は身勝手にばかり振る舞っていいものではない」という“自制”を欠いた時、民主主義の下であっても“多数”の「身勝手であっていい」という放埒によって、民主主義の機能は潰れていくのかもしれません。「強い者が富を得るのは自由だ」という新自由主義的“経済至上主義”の風潮こそが、そんな事態を招いていると思うのですが……ここで紙幅が尽きました。
# by oji-church | 2016-11-15 18:26 | 牧師からのメッセ-ジ
教会の宣教の在り方を考える

★8度目になるオープンチャーチを催しました。教会員のみならず各所から多くの方が献品を寄せて下さり、教会員もそれぞれに力を尽くして盛り立て、切り盛りしてくださったことを心より感謝いたします。またこの間、オープンチャーチの実行委員長をずっと続けて負ってくださっているIさんにも感謝しなければなりません。とりわけ、それぞれ創立50年、20年になるいずみスイングオーケストラとゴスペルママの方々が、この小さな教会のために労を厭わず駆けつけてくださることは、本当に有り難いことです。
★今、教会の信徒が減少する状況の中で、教会が教会外の人々や地域の人たちとどのように関わりを持つのか、関わりの持ち方について、もう一度考えて見るべき時期なのかもしれない思わされました。ある会合で、ある教区の教区議長が言っていたことが思い返されます。その教区で、一つの教会が信徒の減少によりやむなく閉じざるを得なくなりました。信徒も牧師もいなくなった教会の解散手続きを教区議長が代わって進める中、その町の人たちが、教会が無くなることをまったく意に介していないことにショックを受けたと言います。教会が無くても町の人にとって何ら影響がない。教会は町の人たちとのつながりをまったく失っていたということです。
★キリスト教的な風土ではない日本の教会はこれまで、洗礼を受けてクリスチャン=教会員となる人の数を増やすことを最大の課題・関心事としてきました。それも必要なことかもしれませんが、キリスト教の「宣教」というのは本来、ただクリスチャン=教会員の「数」を増やすことではなく、聖書の語る福音を、この世の多くの人たちに指し示す=共有することでした。教会に連なっていない人たちの中にも、世に仕える働きをする中で、聖書の語る福音的な思いを胸に宿している人たちに多く出会ってきました。そうした人たちと「人間にとって本当に大切なこと」を共有して、教会外の人たちの「教会がここにあってほしい」という願いに支えられて、教会が続けられていくのが、「宣教」というものの大事な在り方なのかもしれません。
# by oji-church | 2016-11-10 17:26 | 牧師からのメッセ-ジ
沖縄の基地建設と「わたしたち」

★大正めぐみ教会の上地武先生(沖縄出身)をお招きして一日修養会を開催しました。上地先生は、沖縄で辺野古や高江において強行されている基地建設の問題についてお話くださいました。先生は、日本の国土の0.6%の沖縄に米軍基地の74%が集中する沖縄の現状について、聖書の99匹の羊と1匹の失われた羊の譬えに寄せて、神様は1%の「失われた者」を見捨てないことを宣言されている。わたしたちキリスト者はその神様の呼びかけに応えていくことを求められている、とお話しされました。
★沖縄では本土の機動隊員が多数動員されて、現地での抗議行動を押さえつけて米軍基地建設が強行されています。抗議行動では機動隊員から殴打や首を絞められる等の暴行を受け怪我をする人も多数出ていますが、その責任は問われていません。一方、防衛省の職員に対して、抗議する中で腕をつかんだことが「傷害」「公務執行妨害」とされて、抗議活動参加者が逮捕される事態となっています。そんな中で本土の機動隊員から住民に対して差別的な罵倒が浴びせられる事件がありました。
★沖縄でそのような無法な弾圧が行われているにもかかわらず、本土の関心は薄くほとんど報道もされません。そこには自分たちの“安楽”のために、自分たちが負うべき負担=犠牲を押し付けるために、少数者を同じ人間として見ようとしない差別があると言わざるを得ません。機動隊員が吐いた罵倒は、本土に暮らすわたしたち自身が吐いたものであり、沖縄に強いている負担=犠牲はわたしたち自身が負うべきものだということを深く噛みしめない限りこの差別は無くならず、もっと多くの犠牲を要求する“化け物”に育っていくでしょう。それは、わたしたち自身が“化け物”になり果てるということです。そうならないために、沖縄の人たちの苦しみを他人事とせず、お互いを“人間”として、苦しみを無くしていくように思いを向け、声を挙げてくことが求められています。
# by oji-church | 2016-11-02 20:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「和解」と「嘲弄」(2)

★(承前)一人の人がすべての人に代わって人の苦しみを、人の苦労を背負う時、その大切さを理解せずに、「あんなことをしたって何にもならない」と嘲る人ばかりではない。神様は必ず、その姿に心打たれて、自分もまた、自分の安全、自分の幸福だけでなく、隣り人のために、この命を用いていく、そのようにして和解の務めを負っていくように呼びかけられていると感じ、気付かされて、立ち上がっていく人を、一人また一人と備えられる。それが教会の希望であったし、現に教会はそのように、一人また一人と、イエス様に従って、人の苦労を背負い、自分の命を隣人のために用いながら生きていく人を与えられてきました。それが教会の歴史です。
★いま、わたしたちの生きている世界は、いたるところで紛争と対立が巻き起こって、それを解決するのは武力や暴力しかないという論調が高まっています。しかし紛争や対立に対して、武力や暴力を用いることは何の解決ももたらさないことは、20世紀からの戦争の歴史を見れば明らかでしょう。本当の和解の出発点には、たとえ理解をされず、嘲られたとしても、他者のために、他者を愛して、他者の苦労を背負い、自分自身の小さな一つの命を他者に代わって用いようとする小さな一人の人の姿があるのです。神様がわたしたちに呼びかけているのは、その姿をわたしたちは嘲ることなく、その姿によって、自分のこの命にも、和解の務めが神様に呼びかけられていることに気付かされ、そして立ち上がっていくことなのでしょう。和解の出発点に立っている、他者のために生きる小さな一人の人の姿、世間的な目では、肉に従って見たとしたら見えないようなその小さな一人の人の姿を見失わずに、その人に従って与えられたこの命を大切に、また他者のために用いる歩みを歩んでゆきたいものです。
# by oji-church | 2016-10-26 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
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10月19日に、王子教会を会場に第1回子ども食堂「ののはな」(プレ開催からは3回目)を開催しました。

相変わらず、どれくらい人が集まるか、気を揉む状況でしたが、蓋を開けてみれば、チラシも配っていなかったのに、参加者子ども15名、おとな20名というまずまずの成功となりました。

メニューは、タンドリーチキン、バターコーンライス、さつまいもサラダ、海藻スープ、さつまいもバナナ茶巾。

途中、ご飯が足りなく、急遽買い物に走ったりと、主催者はバタバタでしたが、北区方々や学生ボランティア助けられて、子どもたちは、ただご飯をオシマイではなくて、ゲームやおもちゃなど、ゆっくり遊ぶ時間も取れました。

「居場所」を必要としている子もいますし、通りすがり人が看板チラシを見て入ってきてもくれました。

次回、11月9日(水)16:00~20:00です。
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# by oji-church | 2016-10-20 12:25 | みちばたの教会
「和解」と「嘲弄」

〈一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章14~15節)。

★北九州のバプテスト教会の牧師でホームレスの方々の支援に携わっておられる奥田知志さんという牧師さんがこんなことを仰っておられます。教会は「嘲弄教会」で行こうじゃないか、と。人から「教会は自分のためでなくて人のために、とか言ってホームレスを支援したりしてバカだね。あんなことやったって何にもならないのに。教会自体がつぶれそうなのに、人のためになんて、本当にバカだね」と、嘲られる教会であることを覚悟して、嘲られる教会であることに甘んじていこうじゃないかと。イエス様ご自身、十字架の上で「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲られたのだから。
★実際、そんな「自分のためでなく、人のために」なんてことをしたところで、何にもならないかもしれない。けれども、一人の人がすべての人に代わって人の苦しみ、人の苦労を背負う時、たとえ人からは理解されなかったとしても、実は見えないところで何かが変わっているんだ、神様との間にもう一度、出会いとつながりが回復されるんだ、なぜなら、わたしたちは一人ひとり違いと個性を持った個人として大切にされ、愛されると同時に、もともと、目に見えない「命のつながり」の中で生きているのだから。これが聖書が語る「和解の福音」というものです。(つづく)
# by oji-church | 2016-10-18 18:06 | 牧師からのメッセ-ジ
信頼する関係へと招く神

〈目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章7~8節)。

★人間が、人間として、本当に人間らしく生きていくために是非とも必要なものは、もしかしたら「信頼する関係」ではないでしょうか。それは目に見えるものではありません。ただ生き物として生きるだけなら、目に見えて手に取れる食べるものさえあれば、生きていけるでしょう。けれども、人間として人間らしく、ということはつまり、掛け替えのない存在として、わたしらしく、あなたがあなたらしく生きることができるためには、やはり目に見えない「信頼する関係」が是非とも必要なのです。そして、聖書が最初から最後まで、繰り返しわたしたちに呼びかけているのは、「信じなさい」ということです。
★目には見えない。手に触れることもできない。目に見える証拠もしるしもない、でも、確かな住みか、永遠の命が天国には備えられている。そう聖書は語って「信じなさい」と呼びかけて、わたしたちが人間らしく、自分らしく、掛け替えのない尊い存在として生きることができる者としようとしている神様、イエス様がおられることを示します。そのようにわたしたちを信じて呼びかける神様のまなざしから、つまりは天国からみた眼差しから、もう一度、自分自身の生き様を振り返って、自分に与えられたこの一生涯をかけて、神様、イエス様との間に、また、日々出会う一人ひとりの隣り人との間に、信頼し合い、呼び応える関係を形作っていくのが、いまここで、永遠の命は見えない中で、体を負って生きているわたしたちに求められているつとめなのでしょう。
# by oji-church | 2016-10-12 16:50 | 牧師からのメッセ-ジ
見えないいのちの部分に

〈わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。……だから、わたしたち落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第4章7~16節)。
★パウロは言います。人間というのは、脆く弱い「土の器」だけれども、その土の器の中に、人間は神様から、宝物を与えられているのだ、と。その宝物って何かと言えば、「神様の霊」だということです。神様の霊というのは、神様の命の息吹であり、また、わたしたちはただ独りぼっちで生きているのではなくて、神様から命を与えられて、神様から愛され、どこまでも大事にされて生きているのだということを知らせてくれる、目には見えない力のこと。そういう、喜ばしい、輝かしい宝物をわたしたちは、この弱く脆い命の中に与えられているんだ、ということです。
★わたしたちはこの世の中の流れの中で、目に見えるところだけで物事を判断し、価値付けすることに馴らされてしまっていて、このわたしたち一人ひとりの命の奥底に与えられている宝物に気づき、目を注ぐことを忘れてしまって生きています。
★歳を重ねて弱り、衰えていく姿を、ただただ死の暗い陰の中に降りていく惨めなものとしか感じられなくなっています。だけれども、わたしたちの命にとって、目に見える部分というのは実はほんのわずかなところなのではないでしょうか。いのちの奥底には、誰しもが、わたしたちの一生分以上の計り知れない大きなものが秘められているのではないか、ということを、聖書を読む中で感じさせられるのです。
# by oji-church | 2016-10-06 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ
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子どもがつくった傑作パンケーキ

# by oji-church | 2016-09-28 15:08 | みちばたの教会
覆いの掛かった世界で(2)

★(承前)まさにわたしたちは「福音に覆いが掛かっている」社会の中に生きているのではないかと思うのです。パウロは、そのようにわたしたちの社会が「福音に覆いが掛かっている」社会となっているのは、「この世の神が、信じようとしない人々の心の目をくらまし」ているからだと言います。「この世の神」って、一体どんな神でしょうか。それは、お金の力に依り頼もうとしたり、武力、武器の力に依り頼もうとしたり、そのように人間の創り出す力に依り頼もうとするわたしたちの心が創り出す、「偽物の神様」なのかもしれません。お金の力や、武器の力に依り頼んで、それを神様のように崇めようとするわたしたちの心が、わたしたちの目をくらましているんだ、と言うのです。
★聖書の一番最初には、このように書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」。
★聖書には、神様自らが造られた命あるものに向かって、「見よ、それは極めて良かった」と喜びの叫びを挙げる場面が語られています わたしたちは今も、厳しい「闇」に向かってうち沈んでくような世の中に生きていますが、そのように闇のような世の中に生きているわたしたち自身のこの命には、神様から「見よ、それは極めて良かった」と呼びかけられているという光が、隠されているのだということを、改めて心に刻みたいと思うのです。そうして、わたしたち一人ひとりの、凸凹していて、失敗や惨めな経験やらを積み重ねているこのわたしたちのいのちが、覆いを取り除かれて、再び輝くように、神様は今も「闇から光が輝き出よ」と呼びかけておられる。その神様の呼び声に耳を傾けて、与えられたお互いの命を、恥ずかしいなどと思って隠してしまうことをせず、神様から与えられた何よりも輝かしいものとして大切にし、愚直に生きていくその務めを果たしてゆきたいと願うのです。
# by oji-church | 2016-09-28 14:56 | 牧師からのメッセ-ジ
覆いの掛かった世界で(1)

〈わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは滅びの道をたどる人びとに対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章3~4節)
★相模原で、19人のしょうがいを持つ人たちがいのちを奪われる事件がありました。容疑者は「障害者は生きていても意味がない」ということを語っていると言われます。それが間違った考えであることは無論言うに及ばないことです。テレビでこのことが報道される時も、解説する人は繰り返しこれは間違った考え方だと言います。
★だけれども果たして、わたしたちの暮らしているこの世界、この社会は、その「間違った考え方」ではなく、「正しい考え方」に従って、本気になって「正しい世界」「正しい社会」を形作ってきているのだろうか、と思うのです。不景気が深まっていく時代の中で、貧しい人の命が守られることよりも、企業が儲けを生む経済政策が優先されて、誰もがそのことに期待を掛ける社会の中に、わたしたちは生きています。沖縄に米軍基地を集中させて、日本を守るためには沖縄に暮らす人が負担を負うのは仕方のないことだと、そのことが正当化される社会の中にわたしたちは生きています。それはやはり命の価値に、優劣を付けていることではないのか、と思うのです。
★社会全体が命の価値に優劣を付けて、そのことをみんながよしとする、そのような社会の中に、わたしたちは生きているのではないか。その大きな社会の流れの中で、あのような事件が起こってしまったのではないかと思うのです。「障害者は生きていても意味がない」と言うあの事件の容疑者の「間違った考え方」を、あの容疑者一人の問題とすることはできないように思うのです。
# by oji-church | 2016-09-21 12:19 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうの自由(4)

★(承前)力によって一人ひとりの人間の自由を「威張り散らし」と「こびへつらい」に縛り付ける序列。戦前の大日本帝国憲法が第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」で始まっていたことはそのような人間の序列づける社会の在り方を如実に表しています。
★その古い憲法が廃止されて70年が経ちますが、いまマスコミやメディアが政府の顔色を窺って、政府に都合のよくないことを報道しなくなれば、同じような人間の序列に基づく不自由な社会に再び舞い戻ってしまうことになります。いまの世の中がそのようになりつつあるのではないかと危惧しているのです。
★神様は、一人ひとりの命を、掛け替えのないものとして、それぞれ個性を持った個人として、「見よ、それは極めて良かった」という喜びの声によって祝福し、造り上げられました。それは、誰にもこびへつらったり、威張り散らす必要のない自由ないのちです。この自由な命を、国が損なおうとする時には、人間の力に依り頼んだり、従うのではなく神様に従わなければならないのだ、ということを聖書はわたしたちに告げているのです。
★一人ひとりがそれぞれに違っていていいという自由は、わたしたちが人間らしく、わたしたちらしく生き生きと生きていくため、つまり平和のために、是非とも必要なものです。この自由が脅かされる時、わたしたちは、人間に従うよりも、神様に従わなければなりません。一人ひとりの違いを持った命に向かって、「見よ、それは極めてよかった」という喜びの声を祝福として送って、一人ひとりの命を造り上げられた神様にしたがわなければなりません。それがわたしたちキリスト者の務めであり、キリスト者が世の人のために与えられている、大切な自由なのだと思うのです。
# by oji-church | 2016-09-14 11:50 | 牧師からのメッセ-ジ

創立123年記念礼拝愛餐会

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8月28日、王子教会創立123年記念礼拝を行いました。
礼拝後は、そうめんで愛餐会。様々な具や薬味を持ち寄って、盛大な“そうめん会”となりました。
# by oji-church | 2016-09-07 10:12 | 全体のお知らせ
ほんとうの自由(3)

★(承前) 敗戦によって戦争が終わり、戦前の大日本帝国憲法は廃止され、新たに国民主権・民主主義・平和主義の日本国憲法が制定されました。日本人の多くはそのことを喜んだはずでした。ところがその憲法を今、「みっともない憲法」と呼ぶ政治家がいます。恐らくその人は、日本国憲法九条に規定された交戦権の否認、つまり戦争放棄の規定が「みっともない」と思うのでしょう。またそれだけでなく、同じ憲法の第13条に「すべて国民は、個人として尊重される」と規定された「個人の尊重」、それに基づく「思想・良心の自由」や「信教の自由」「表現の自由」などが、国の意向にかかわらず、一切を保障されている点もやはり「みっともない」と感じるのかもしれません。つまり、国の力が弱く定められていることが、恐らくは気に入らないのでしょう。
★でも、人間の強い力に依り頼むことは、必ずその強い力で押さえつけられ、押しつぶされてしまう人を生み出します。今の沖縄や福島の人々はまさにそのように、強い力を追い求める国によって押しつぶされようとしている人々でしょう。しかし人は人間の力の強さを追い求めます。誰か、一番強い人間を押し立てて、いわばその「おこぼれ」に与ることで、自分も権力を振るうことができます。だから、自分ではなくても、誰か他の人間の強さ、あるいは武力の強さを追い求めるのです。こうして、自分より強い力にはこびへつらい、自分より弱い者には威張り散らす、そのような人間の序列が出来上がることになります。その中のどこかに身を置いていれば、人は誰かに対しては、こびへつらわなければなりませんが、その一方で誰かに対しては威張り散らすことができる、少なくとも、優越感を持つことができるので、心地いいのです。(つづく)
# by oji-church | 2016-09-07 10:06 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうの自由(2)

★(承前)国家神道が国の全体を覆っている社会に生きている人間は、あのローマ帝国と同様に、実は見えないところで自分の「底」に他人の手を入れさせていたのです。やがて、日清・日露、第一次大戦と戦争が深まっていき、日本が次々と植民地を手に入れようと、戦いを広げていった時、自分の「底」に他人の手を入れることを許した日本人は、だんだんと自由を失い、有無を言わせずに次々と戦争に狩り出されていくことになりました。自分たちは自由だと思っていたのは、完全に幻想でした。でも恐らく、多くの人たちは、あの戦争が終わるまで、自分たちの自由が完全に人の手に奪われているとは思っていなかったのではないかと思うのです。それほどまでに、自分自身の「底」に他人の手を入れられて、自分を担ぎ上げられて、頭の先まで、自分というものが他人のものになってしまっていたのです。(つづく)
# by oji-church | 2016-09-01 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうの自由(1)
★ローマ帝国は、「帝国への忠誠」を誓い、皇帝崇拝に従う限りにおいては、「パンとサーカス」という楽しみを手にすることができました。けれども、果たしてそれは「本当の自由」でしょうか。「崇拝」というのは、心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いでしょう。その心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いを、自分の思いではなく、命令を受けて行うとしたら、わたしたちは自分自身の一番深いところを、他人の手に譲り渡してしまうことになります。自分自身の一番深いところを他人の手に譲り渡してしまったとしたら、やがて、そんなに深くないところも、他人の意のままに操られることになってしまいます。十戒の掟で神様が語る「わたしをおいて他に神があってはならない」という教えが意味しているのは、自分の「底」に神様以外の誰かの手を入れさせてはならないということなのだと思うのです。そのようにして、自分を誰かに譲り渡してはならないということです。
★戦前の日本は、このローマ帝国と同じような状況にありました。国の主権者は天皇であり、国民は「天皇の臣民」でした。憲法も国民が議会を通じて作ったものではなく、天皇から与えられたという形を取っていました。そして天皇を崇拝することが国家によって、絶対的なこととして要求されました。国は天皇崇拝(国家神道)は宗教ではないから、たとえクリスチャンといえども、これに従わなければならないとしました。戦前の大日本帝国憲法にも「信教の自由」が定められていましたが、その文面はこういうものでした。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」。天皇崇拝、国家神道、例えば神社参拝などを行わなければ、「臣民たるの義務」に背くことになります。そうなれば、キリスト教は国家に反逆するものとして弾圧の対象となります。しかし、戦前の日本においても、ローマ帝国においてそうであったように、多くの人々は、さほど不自由を感じずに暮らしていました。(つづく)
# by oji-church | 2016-08-24 12:27 | 牧師からのメッセ-ジ
70年という年月

★敗戦後、71年目の夏を迎えました。聖書には、ユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロニアへ捕囚として送られた後、「七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる」という神様の言葉が記されています。神様に従うことをなおざりにしたユダの国の人々は、その代償として、70年間、国の滅びと捕囚という痛切な憂き目を見なければならなりませんでした。つまり、最初にバビロニアに捕囚として送られた人たちは、生きてもう一度、ユダの国に戻ることはできないことを意味しています。聖書が語る70年間の捕囚の期間というのは、人が一生をかけて、自分たち自身の罪と、その罪によって引き起こされた惨禍を直視して、心に刻み、そして語り伝えることで、本当の平和を願い求め、見出し、形作る者へと、わたしたち人間が生まれ変わっていく、ということを意味していのでしょう。そのような努めを重ねて、「七十年の時が満ちたならば、わたしはあなたたちをもう一度顧みる」と神様は語っているわけです。
★翻って、あの戦争から今にいたるわたしたちの暮らす国の70年は、どんなものだったでしょうか。この70年間、果たしてわたしたちは、あの戦争において犯した日本人の罪と、その惨禍を直視し、心に刻み、語り伝えてきただろうか。そうすることを通じて、本当の平和を願い求めて、見つけ出し、形作るべく努めてきただろうか。それを怠るならば、たとえ70年の年月を経たとしても、神様はわたしたちを顧みはしないだろう。
★70年という年月は不思議な感じがします。1868年の明治維新からおよそ70年後に、日本は泥沼の戦争に突入していきました。そしてその戦争が終わってから、また70年の年月が過ぎたわけです。日本人が、戦争というものの罪と惨禍を直視し、心に刻み、語り伝え、それによって本当の平和を願い求め、見出し、形作ることを怠って70年が過ぎたとき、巨大な戦争の嵐に突入していきました。いままた、同じような過ちと惨禍を経験することになるのではないかと危惧しているのです。
# by oji-church | 2016-08-17 13:56 | 牧師からのメッセ-ジ
顔の覆いを取り去って

〈主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第3章17~18節)。

★誰もが、顔の覆いを取り除かれて、自分自身の生きた生身の、裸の命を輝いて生きることができることを聖書は宣言しています。けれどもわたしたちの生きる世の中は、なかなかそのようにはなっていません。人の痛みや苦しみに共感することが少なくされ、国を隔てて対立が煽られ、その分、軍事力を頼りとし、わたしたちはますます、自分の顔に覆いをし、生きた生身の裸の命どうしに触れ合うことが難しくされていくようでもあります。国を隔てて、自分の国のことばかりを「輝かしい」もののように思いなし、互いに対立し合っている今の国々どうしの関係というのは、実は、わたしたちが自分自身の、生きた生身の、裸の命を「恥ずかしい」もののように思って、自分の顔に覆いを掛けてしまうことと裏腹に繋がっているようにも思います。わたしたちが自分自身の、生きた生身の、裸の命を「恥ずかしい」もののように思って、自分の顔に覆いを掛けてしまえばそれだけ、ひとの痛みや苦しみは、他人事となってしまうからです。
★このわたしたちの顔を覆う覆いを取り除き、誰もが神様によって与えられた〈わたし〉を生きることで、生き生きと輝いて生きることができる。そのためにイエス様はわたしたちのもとを訪れ給う。そのことを心に刻んで、なお希望を持って、神様から与えられた〈わたし〉自身を、覆いを掛けずに生きてゆきたいものです。
# by oji-church | 2016-08-03 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
イエスが書いた手紙

〈あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として、公にされています〉(コリントの信徒への手紙二第3章2節)。

★福音書に描かれたイエス様は一文字も文章を書いていません。一つだけ、ヨハネによる福音書の中で、姦淫の罪を犯したと言われる女性がイエス様の前に連れてこられて、律法学者やファリサイ派の人々が「こういう女は石で打ち殺せと律法の掟には書かれているけれども、あなたはどう考えるのか」と詰め寄った時に、イエス様はしゃがみこんで、指で地面に何か書き始められます。そうして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。けれども人々は誰も石を投げることができず、最後にイエス様もまた立ち上がって、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたと。そこでイエス様が指で地面に何を書いていたのかについては、何も語られていません。イエス様が文字で何を書かれたか、ではなく、イエス様がどのように生きられたか。そのことのほうがよほど大事だと言うかのように、です。
★わたしたちは、そんなイエス様が書いた手紙なのだとパウロは言います。一文字も書かれなかったイエス様、ただ人の痛みや苦しみや寂しさに心寄せ身を寄せて懸命に、精一杯生きたイエス様、そのイエス様が書いた手紙がわたしたち自身なのだと言うのです。そうならば、わたしたちもまた、資格証明書だとか推薦状だとか規則だとか、そんな紙に書かれた文字によって人を判断するのではなく、自分自身が日々、どのように生きているかということを何よりも大事にするべきではないかとパウロは問いかけているのです。人の痛み、苦しみ、悲しみ、寂しさに心寄せ、身を寄せて生きられたイエス様のその文字に表されないメッセージ、呼びかけが、イエス様の書いた手紙となって、資格も何も持たないわたしたち自身の生身のありのままの心に今も響いており、わたしたち自身の生身のありのままのこの体に生きているかどうかということの方が、よほど大事な事柄なのです。
# by oji-church | 2016-07-27 08:55 | 牧師からのメッセ-ジ
それはどんな「香り」か?

〈神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。〉(コリントの信徒への手紙二第2章14節)。

★ここで「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせる」と言われているのは、どうやら凱旋行進に勝軍の兵としてではなく、敗れた側の捕虜として繋がれた姿で神はわたしたちを行進に連ならせるという意味ではないかと思われます。すると「キリストを知るという知識の香り」というのは、あまり「いい香り」ではないように思われてきます。しかしこの「神様の捕虜」としての行進の中には、イエス様も共に連なっていることが含意されてもいるように思われるのです。逮捕され、茨の冠をかぶせられ、叩かれ、唾を吐きかけられ、十字架に掛けられるために引かれていくイエス様の姿がそこに重ねられているのではないかと思うのです。
★『讃美歌21』の364番の4節はこんな歌詞です。「大いなる命の主、人の目には見えねど、神の国はここにあり」。「香り」は目には見えません。けれども「香り」は大事なことをいろいろとわたしたちに思い起こさせてくれます。364番にはこのように歌われています。「強き主、母のごと、すべてのものを支え、昼も夜もはぐくむ主、いざホサナわが母。やさしき父のごと、その慈しみ絶えず、病む者らを抱きたもう、いざ、ホサナ、わが父。年老い、弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解、限りなし、いざホサナ、老いし主。若さにかがやく主、正義を叫び求め、われを忘れ、戦う主、いざ、ホサナ、若き主」。ここで母として、父として、老人として、そして若者として語られる主、イエス様の姿は、思い描いてみればどれも、香水のようにいい匂いのするイエス様ではないように思われます。どちらかと言えば、汗の匂いがしてくるようでもあります。しかしそのイエス様の汗の匂いこそが、神に献げられる良い香りなのでしょう。
# by oji-church | 2016-07-20 09:17 | 牧師からのメッセ-ジ