攻撃と暴力の檻からの解放(2)
★今わたしたちが生きているこの世界こそ、攻撃と暴力の檻の中に閉じ込められた世界ではないかと思わされます。ウクライナで起こっている人々の命に対する攻撃は言うに及ばず、二年以上にわたってわたしたちは、この世界のどこにおいても新たなウイルスによって人の命と健康が攻撃を受ける逃げ場の無い世界に生きてきました。その根底にあるのは人間の営みによる自然環境への攻撃と暴力です。またこの状況にあって、自分とは異なるものを排除しようとする差別と排外主義の攻撃と暴力があらわにされてきました。ミャンマーや香港での権力による人々の自由と民主主義に対する攻撃と暴力。11年前、わたしたちの住まうこの国は、原子力発電所の事故によって、放射能の攻撃から逃れようがないことを知らされたはずですが、また原子力への依存を進めようとしています。ウクライナへのロシア軍の侵攻に乗じて、「核共有」「軍備増強」「敵基地攻撃能力」など、まさに「攻撃」を事とする議論が高められています。世界のほぼ全体を包んでいる資本主義経済も、人と競って多くの富を集め、それができない人は「自己責任」と切り捨てられる点で、それ自体いのちへの攻撃と言えます。わたしたちは今まさに、そんな逃げ場のない攻撃と暴力に閉ざされた世界に生きているのではないでしょうか。
★この現実の中から、わたしたちがもう一度、いのちを生み出す世界への道を見つけだすには、イエス・キリストの信=イエス様が、自ら「呪われた者」として十字架に掛けられるに至るまで、「呪われた」とされる人々と共に生きる生きざまを生き通された、そのイエス様の一途な生きざま=その確かさ。そんな「いのちの確かさ」が、そこから差し伸べられる手(=福音)が、是非とも必要なのだ、ということです。