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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
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攻撃と暴力の檻からの解放(2)

★今わたしたちが生きているこの世界こそ、攻撃と暴力の檻の中に閉じ込められた世界ではないかと思わされます。ウクライナで起こっている人々の命に対する攻撃は言うに及ばず、二年以上にわたってわたしたちは、この世界のどこにおいても新たなウイルスによって人の命と健康が攻撃を受ける逃げ場の無い世界に生きてきました。その根底にあるのは人間の営みによる自然環境への攻撃と暴力です。またこの状況にあって、自分とは異なるものを排除しようとする差別と排外主義の攻撃と暴力があらわにされてきました。ミャンマーや香港での権力による人々の自由と民主主義に対する攻撃と暴力。11年前、わたしたちの住まうこの国は、原子力発電所の事故によって、放射能の攻撃から逃れようがないことを知らされたはずですが、また原子力への依存を進めようとしています。ウクライナへのロシア軍の侵攻に乗じて、「核共有」「軍備増強」「敵基地攻撃能力」など、まさに「攻撃」を事とする議論が高められています。世界のほぼ全体を包んでいる資本主義経済も、人と競って多くの富を集め、それができない人は「自己責任」と切り捨てられる点で、それ自体いのちへの攻撃と言えます。わたしたちは今まさに、そんな逃げ場のない攻撃と暴力に閉ざされた世界に生きているのではないでしょうか。

★この現実の中から、わたしたちがもう一度、いのちを生み出す世界への道を見つけだすには、イエス・キリストの信=イエス様が、自ら「呪われた者」として十字架に掛けられるに至るまで、「呪われた」とされる人々と共に生きる生きざまを生き通された、そのイエス様の一途な生きざま=その確かさ。そんな「いのちの確かさ」が、そこから差し伸べられる手(=福音)が、是非とも必要なのだ、ということです。


# by oji-church | 2022-08-03 09:56 | 牧師からのメッセ-ジ

攻撃と暴力の檻からの解放(1)

〈万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。〉(ガラテヤの信徒への手紙3章21〜22節)

★「人を生かすことができる」とは、原文通りには「いのちを作り出す=生み出すことができる」という言葉です。いのちを生み出すことのできる律法が与えられていたなら、律法によって人が「義とされる」=神様から「よい者・大切な者」と呼びかけられて救われることもあるだろう、と。しかし律法の働きとは、「違犯を明らかにする」、つまり間違い・過ち・やってはいけないことを明らかにするものでした。律法の掟によって、人は誰かに「お前は間違っている」「お前は過ちを犯したダメな奴だ」「お前はけがれている価値の低い人間だ」と指摘することはできる。でもそれによって、いのちを作り出す=生み出すことはできるだろうか。いやむしろ、そのような指摘は人への攻撃、いのちへの攻撃となり、攻撃は暴力となっていのちを傷つけ、損なうことになるのじゃないか。パウロはかつて、ユダヤ教の律法学者として、キリスト教徒を迫害し、弾圧する暴力に携わっていくこいとになりました。人の違犯=間違い=過ちを指摘するだけの律法の掟=決まり事は、決していのちを生み出すことなく、かえって攻撃と暴力に人を追い込んでいくのです。

★「しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです」。「聖書は」というのは「律法は」と読み替えて差し支えありません。律法はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた。言い換えれば、律法はすべてのものを、攻撃と暴力の檻の中に閉じ込めたということです。(つづく)


# by oji-church | 2022-07-27 09:08 | 牧師からのメッセ-ジ

「呪われた者」の側に(2)

★(承前)本当は、この人生の中でわたしたちの誰もが、マニュアルにはない出来事に繰り返し直面し、クヨクヨ迷ったり、右往左往したりしながら生きていかざるを得ません。そんなわたしたちのもとにしかし、一つの声が響くのです。「必ずあなたを見つけ出し、どこまでもあなたを愛し通そう」と呼びかける声=福音がです。その奥底に響くのは、「あなたは決して独りぼっちではない」という声です。

★イエス様はこの神様の呼びかけそのものを生き通されました。徴税人や罪人と共に食事をし、病やしょうがいを負う人に触れて手当てし、励まし、外国人と出会い、行き場のない多くの人々と食事を分け合って食べた。いずれも律法の掟から外れた「呪われた者」とされてユダヤ人社会から切り離されて排除されていた人々でした。

★本当は、ユダヤ社会に生きる人全員が、律法の掟など守り切れない「呪われた者」であるのに、多くの人々はそれをごまかして、弱い立場に追いやられた人々だけに「呪い」を押しつけ、排除し、目をつぶって「見えない存在」とし、いっぽう、自分たちは「あいつら」とは違う「救われる人間」なのだと、自分の立場を守ったのです。

★イエス様はそれとは裏腹に、「呪われた者」とされた人々に「あなたは独りぼっちではない」と呼びかける生きざまの末に、逮捕され、罪人とされ、十字架に掛けらてイエス様自らが「呪われた者」とされるに至る。そこに至るまで、「あなたは独りぼっちじゃない」と呼びかけて「呪われた者」とされた人々と共にある生き方を生き通されたということです。


# by oji-church | 2022-07-20 10:36 | 牧師からのメッセ-ジ

「呪われた者」の側に(1)

〈律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。〉(ガラテヤの信徒への手紙3章10節)

★パウロは、人がどうあれ神様の側からすべての人に向かって「必ずあなたを見つけ出し、どこまでもあなたを愛し通そう」と呼びかけられる。その神様の呼びかけ=福音を受けとめることによって、人を救われると宣べ伝えました。しかしそんなパウロに対して、後からガラテヤの教会にやってきた人々は、人は律法の掟を守って生きることによって救われると説きました。確かに、神様の呼びかけを受けとめるという信仰よりも、律法の掟を守る信仰の方が具体的で分かりやすいものです。

★しかしここでパウロは、律法の掟を守ることで救われるという信仰の奥底にある、一つの「ごまかし」を見つめているのです。確かにその信仰は分かりやすいものです。それが例えばパソコンやスマホの操作のなら問題ありません。パソコンはスマホはあらかじめ仕組みが作られており、本質的にマニュアルにないことは起こりません。けれども、わたしたちが生きることはパソコンやスマホの操作とは違います。

★わたしたちが生きること、それは命を生きることです。それはあらかじめ仕組みが作られた機械ではありません。仮に律法の掟というマニュアルがあったとしても、わたしたちの人生にはマニュアルには無いことがいくらでも起こります。律法の掟に従っていれば救われるという信仰には、マニュアルに無いことには「目をつぶる」という「ごまかし」が必ず含まれるのです。この「ごまかし」がある限り、例えば十戒の掟にある「偽証してはならない」という掟を破っているということになります。だからパウロは「律法によってはだれも神の御前で義とされない」と語るのです。(つづく)



# by oji-church | 2022-07-13 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ

違う「誰か」との出会いの中に

〈聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。〉(ガラテヤの信徒への手紙3章8節)

★「異邦人」=わたしが「他人」と思っている人=自分には関係の無い人間=そんな奴は居ないほうがいいとすら思うような「誰か」。そんな「誰か」にも神様は「必ず見つけ出し、どこまでも愛し通そう」と呼びかけられる。そのきっかけに、わたしが用いられるということ。神様が造られたこの世界の中で、わたしたちはどこまで行っても自分とは違う誰かとの出会い・つながりの中に置かれ続けるのだということ。それが神様が造られたこの世界のほんとうの姿なのだということです。

★信仰とは、自分とは違う誰かとの出会いの中でこそ紡がれるものであり、決まったルール=型枠に自分をはめ込んで「同じ人間」になった者だけが「救われる」なんていうのは、この世界のほんとうの姿とはほど遠いものだということです。

★わたしたちがこの世で出会う人一人ひとりが、それぞれにその人独自の来歴=物語を持っています。神様は人一人ひとりの小さな物語の一つひとつを「義と認められた」=大切なものとし、愛されました。わたしたちは出会うことによって、自分の物語と、自分以外の「誰か」の物語を結び合わせます。そのようにしてわたしの物語の中に、違う「誰か」の物語が息づくようになります。出会いを通じて、神様がよしとされ、大切なものとし、愛された互いの物語を紡ぎあわせること、それこそが信仰というものなのでしょう。

7月3日の週報コラム「ひだりて」_e0088612_14170903.jpg
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近所の音無もみじ緑地にて、ハスの花が咲きました。



# by oji-church | 2022-07-06 14:18 | 牧師からのメッセ-ジ