日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「宣教に境界線はありません」

★今年度の王子教会の主題に「神を愛し、人を愛する教会」という言葉を挙げました。その根っこにあるのは、教会の宣教ということを、皆でもう一度考えてみようということです。「皆で」というところが大切な点です。
★教会の宣教を考えるという時には、どこかに境界線を引っ張ってはいけないのだと思います。この人だけが考える。このことだけを考えるというのではいけない。なぜなら教会というのは、神様と出会って神様に繋がっていく場所だから。その神様は、この世界のすべてを造られた神様なのだから。わたしたち一人ひとり、すべての人間を創られている神様なのだから。
★福音書には、様々な人々の生きる姿が描かれています。この世の生活の中で、様々な苦労を負う人、挫折を経験している人、悲しみや痛みを背負う人、高慢な人、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われながら、ついていくことができない人。いずれも教会の外で生きている人々の姿です。でも福音書には、その教会の外で、イエス様と出会うことによって、新しい生き方に気付かされていく人たちの姿が描かれています。
★日曜日は教会に行って礼拝に出席する。でも他の日は神様のことも、イエス様のことも忘れて、この世のものの見方、考え方にすっかり浸って生活している。それではキリスト者である意味も、甲斐も無くなってしまいます。教会で神様と、イエス様と出会い、その神様・イエス様との出会いを携えてこの世に出て行き、そこでの様々な人との出会い・触れあいの中にまた、神様・イエス様との出会いを見出して、また教会に戻ってきて、神様に、イエス様に感謝を献げる。それがキリスト者としてのわたしたちの生き方ではないかと思います。
# by oji-church | 2017-06-28 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちをわけあえば」

〈自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな〉(マルコによる福音書2章5から6節)。

★『世界がもし100人の村だったら』という本には、こう書かれています。「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。いま世界の人口はだいたい70億人です。計算すると14億人は栄養が十分じゃない。7千万人は食べるものが無くて死にそうです。でも10億人くらいの人たちは食べ物が有り余っています。
★わたしたちは結構、食べ物を食べないで捨ててしまったり、残してしまったりしていますよね。食べ物が余っている人がいるいっぽうで、食べるものが無くて、死にそうになっている人がいるのが、いまわたしたちの生きているこの世界です。
★日本でも、6人に1人の子どもが「貧困家庭」といわれます。日本の場合は、「今日食べるものがない」わけではないかもしれません。けれども、他の友だちと同じように、学用品を揃えたり、習い事をしたり、上の学校に進学したり、着るものや食べるものを選んだりすることができません。それでいじめられたり、ひとりぼっちにさせられたりしてしまう子がいます。そんな国の中にわたしたちはいま、生きています。
★そんな世界に生きているわたしたちに向かってイエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むのをやめなさない」と言われるのです。食べ物や着るものを選べない人がいる時、持っている人が、持っていない人と分け合ったとしたら、もしかして、みんなが生き生きと生きることができるようになるんじゃないか。「自分の命」「自分の体」「自分の食べ物」「自分の飲み物」「自分の服」、自分自分自分。わたしたちは結構いつも、自分のことばかり考えて生きています。だけれども、自分のことばっかり考えるのはやめないかい? そうイエス様は言っているのじゃないかと思うのです。(6月11日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
# by oji-church | 2017-06-20 16:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「聖霊が語らせる言葉」

〈エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった〉(使徒言行録2章5から6節)。

★「信心深い」という言葉は、もともと「よく受けとめる」という意味。相手に対して「しっかり丁寧に心遣いをする」というような意味です。そういう人たちが集まって来て、「自分の言葉」(「自分の故郷の言葉」とありますが、もとのギリシア語の原文には「故郷」という言葉はありません)が話されているのを聞いたということです。
★「相手に対してしっかり丁寧に心遣いをする人たち」が、「自分の言葉」が話されているのを聞いたということ。いま、戦争が平和と言い換えられ、支配と監視が安全と言い換えられ、搾取が自由と言い換えられ、いろいろな言葉が正反対の意味に使われて、嘘がまん延して、現実が歪められている世の中にあってそれは、問いかけ、答えて、理解し合う。語りかけ、聞き受けて、共感する。そのようにして、現実の、いま目の前に現に生きている人と出会って共に生きる、そういう言葉本来の役目をきちんと果たす、丁寧な言葉が交わされた、ということではないかと思うのです。
★目の前に現に生きている人と出会うことが、とても難しい時代にわたしたちは生きています。だれもが人と出会うことよりも小さなスマホの画面に夢中になっています。自分だけの世界に浸ることが多くなれば、その分、現実のほうはどうでもよくなっていきます。実際の現実の方はいま、国々の指導者の得手勝手が大手を振って闊歩するようになっていて、世界は戦争へとまっしぐらに突き進んでいるように思えてなりません。そういう時代の中で、相手に丁寧に心遣いをし、互いに問いかけ答えて理解し合う。語りかけ聞き受けて共感する。そうして現にいま目の前にいる人と出会って共に生きる道筋を形作っていく。それが、聖霊、神様の霊がわたしたちに語らせる言葉なのでしょう。

# by oji-church | 2017-06-14 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「ミンナオンナジ?」

★「それは当たらない」。テレビを見ていると、官房長官が、何か問題点や疑問点を指摘されるとそうと言って、それ以上の説明や釈明をまったくせずに、記者からの問いかけや批判を一切受け付けません。「当たらない」と言うのですから、「お前がはずれてる」「お前が間違っている」ということ、「悪いのはお前だ」と質問した側の記者をなじる言葉でもあります。問いかける言葉と答える言葉とがまったく出会うことも触れ合うこともないまま、空中分解して泡のように消えてしまうのです。問いかけ答えて理解しあう。語りかけ聞き受けて共感する。そういう言葉本来の働きは、どこかへ消え去ってしまったかのようです。その代わりでしょうか。ネット上には、立場や意見の異なる人に対する苛立ちや憎しみをぶちまけ、煽り立てる言葉が溢れています。
★「ミンナオンナジ」と思える人間同士の間では麗しい言葉が交わされますが、自分と立場や意見が異なる人には、言葉は、理解し合い、共感し合うという言葉本来の役目に用いられなくなってしまっているようです。「ミンナオンナジ」と思えるのは心地いいことですが、立場も境遇も意見もやることも、すべて同じ人間というのはどこにもいません。「ミンナオンナジ」は幻想に過ぎません。この幻想にしがみつこうとするとき人は、自分とは違う立場や意見の人に対して、居心地の良さを壊す者として、苛立ちや憎しみを持つようになり、やがてそれをぶちまけ、煽り立てる事になってしまうのでしょう。人間というのは元々バラバラの違う存在。でも、同時に人間というのは一人では生きられない存在でもあります。だから、お互いに違いを乗り越えて、理解し合い、共感し合って共に生きる社会を形作るために、言葉というものを編み出してきました。それはなかなか簡単ではない、忍耐も必要なことでしょう。しかし、言葉があるからこそわたしたち人間はその、簡単ではない、忍耐力の要ることも、成し遂げてくることができたのです。そういう言葉というものが持っている本来の意味・役割に、わたしたちはいまもう一度心を向けていく必要があるのではないでしょうか。
# by oji-church | 2017-06-07 09:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「すでに手遅れだった」

★先週、衆議院で「共謀罪」法案が可決されました。実際に犯罪が行われるよりも前に、その「準備」をなしたと見なされる者を逮捕・起訴できる法律です。どのような振る舞いが犯罪の「準備」と見なされるかについて、国会では曖昧かつ「いい加減!」な答弁しかなされないまま法案は可決されました。この法律が成立すれば、官憲から目をつけられた人は、恣意的に「犯罪の準備をした」と見なされ、逮捕・起訴され、犯罪者とされる可能性が生じます。これは、戦前に「希代の悪法」と呼ばれた「治安維持法」と同じ働きです。戦前・戦時下、治安維持法によって、官憲から目を付けられた無実の人が多く逮捕・投獄されました。戦時下ホーリネス系教会が弾圧され、牧師が逮捕・投獄され、教会が解散を余儀なくさせられたのも、治安維持法によるものでした。それは人々の間に国には逆らわないほうがいいという萎縮を生み出します。
★「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」。いずれも国の力を強め、国を国民・市民から遠ざける法律です。この状況は「戦前に近づいている」というよりも、もはや「戦前である」と言った方が近いでしょう。首相は憲法9条の改憲を呼びかけていますが、そうなれば確実にそれは、「戦時下」になることでしょう。
★ナチス・ドイツと闘ったドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉が、いまわたしたちに大事なことを呼びかけているように思います。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかったので、やはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」。
# by oji-church | 2017-05-31 17:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「見よ、それは極めて良かった」

★創世記2章で、神様は最初に大地を造ります。その大地から最初の人を造り、人が大地を耕し守るようにされます。更にその最初の人からもう一人の人を造ります。大地と最初の人ともう一人の人。この三者の中で、一つのものが別のものの「道具」のようにみなされているものは一つもありません。人は大地を「道具」のように、好き勝手に使うのではなく、耕し守り、世話する役割を与えられています。二人目の人は「彼に合う助ける者」と言われていますが、決して一人目の人を「助ける」ためだけに造られた「道具」ではありません。「わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」と言われているように、「同じ」立場の存在として「助け合う」ことが目指されいます。創造物語の中では、誰も誰かの「道具」とされてはならないということが語られているのだと思えます。人は命は、「道具」ではなく「目的」として、その人・命が、守られ大切にされ、喜んでいきいきと生きることができることを目指して、お互いに出会い、結ばれていくものなのだということ。
★そもそも、神様はこの世界・命を・人間をどのように造られただろうか。神様は、この世界・命・人間を創られご覧になって「見よ、それは極めて良かった」という最上の喜びの声を挙げられました。自分の都合に合わせた「道具」としてではなく、ただこの世界があること、命が生きていること、人間が生まれ、生きていることそのことを「喜ぶ」ために、神様はこの世界を、命を、人間を造られたということです。「道具」としてではなく「目的」として出会い、結び合うということを、一言で言い表す言葉があります。「愛する」ということです。
★いま、わたしたちの暮らす社会の中で、どんどんと人と命の「道具化」が進められているように思えてなりません。聖書の創造物語はわたしたちを命の原点に立ち帰らせてくれます。
# by oji-church | 2017-05-24 11:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「イムジン河の畔」(2)

★韓国と朝鮮は、朝鮮戦争の結果、北緯38度線で分断されて、北と南の二つの国家に分けられてしまっています。歌でよく知られたイムジン河は北と南の境界線にあります。その河のそばに連れていってくださいました。朝鮮戦争時代、そこには鉄橋が架かっていました。爆撃で破壊されたその鉄橋を、朝鮮戦争の最中、荷物を抱えた人々が鉄橋の柱にしがみつきながら鈴なりになって戦火を逃れてくる様子を写した有名な写真もあります。今は破壊されて、橋脚だけが残っています。その脇には、金大中だ大統領が「太陽政策」の中で作った新しい鉄道の鉄橋が架けられていますが、その後、再び朝鮮と韓国の関係は冷えてしまい、いまはまた、閉鎖されています。
 川岸は有刺鉄線で囲われて軍隊の監視所が置かれており、河のほとりに降りていくことはできません。展望台のある高台には、北朝鮮に故郷がある人たちが、韓国のお盆やお正月に先祖を祀るための祭壇が築かれています。周辺には、北と南に分け隔てられてしまっている同胞が、再び平和裡に統一されることを願うメッセージを書いたリボンが、壁に無数に結びつけられています。今回、わたしがよく知り合っているソウル老会の牧師さん方の多くが、家族が北出身であることも知りました。北には親族もいるはずですが、まったく消息はつかめません。韓国の人たちは、北朝鮮の人たちとの間に、血の繋がった一人一人の顔を思い描くことのできる繋がりを持っているのです。ですから、韓国の人たちが北朝鮮に対して持っている感情は、「敵意」や「憎しみ」「恐れ」よりも、根本的には深い深い「悲しみ」の感情であると言っていいのではないかと思います。日本人が、そのように現在の朝鮮のありようを、「悲しみ」を共有しつつ思い描くことができるかどうか、問われた気がします。
# by oji-church | 2017-05-17 10:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「イムジン河の畔」(1)

★4月17日から20日にかけて、韓国基督教長老会ソウル老会の定期会に出席するため、ソウルに行きました。日本では連日、アメリカと北朝鮮が一触即発の事態にあるかのような報道がなされていました。韓国でも同じように皆が深刻な危機感の中で緊張しながら暮らしているかのような報道です。帰ってきた今も同じような報道が繰り返されていますし、わたし自身も実際に行くまでは、韓国の人たちも同じような危機感の中で暮らしているものと思い描いて、「一緒に平和を祈りましょう」というメッセージを携えて行く準備をしていました。しかし、実際に韓国に行ってみると、韓国の人たちは、ごく普通の当たり前の日常の生活を続けていました。むしろ、日本でそんな大騒ぎになっていることに驚くと同時に、あきれてもいました。韓国の人たちは、こうした危機感というのが、一部の権力を持つ人たちが自分たちに都合良く社会を動かそうとして「演じられている」ものだということを、日本人よりも余程冷静に見極めている感じがしました。何故かと言えばそれは、日本による過酷な植民地支配に置かれた戦前・戦中、戦後も、朝鮮戦争や、軍事独裁政権に対する民主化闘争など、数々の厳しい社会情勢を乗り越えてくる中で韓国の人たちが培ってきた社会というものに対する確かな見識というものがあるのだろうと感じます。しかしそれとは別に、もっともっと大事なものを、韓国の人たちは日本人と違って、持っているということを今回の旅で感じさせられました。
★定期会の翌日、ソウル老会の人たちが、わたしたちをあるところへ連れて行ってくださいました。それはソウルから車に乗って、一時間足らずのところ。ソウルの町の真ん中には漢河(ハンガン)という大きな河が流れていますが、その川沿いを河口に向かって車で進んでいくと、河口の近くで別の河との合流点があります。別の河というのはイムジン河という名前の河です。(つづく)
# by oji-church | 2017-05-10 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ

イースターのひよこたち

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教会学校の子どもたちが作ったかわいいひよこたちが教会の窓辺に迎えてくれます。


# by oji-church | 2017-05-03 11:39 | 教会学校のご案内
「知るとは愛すること」

〈一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった〉(ルカによる福音書24章30~31節)

★イエス様が十字架に付けられて殺された後、二人の弟子たちは復活したイエス様に出会いますが、二人はそれがイエスだとは気付かず、通りすがりの旅人と思って「そんなことも知らないのか」とイエス様が十字架に掛けられて殺されたことを「オレの方が知っている」とばかりに得々と説いて聞かせます。すぐ目の前に、隣りにいる人を、同じ人間とわかっていながら、人間として心通わせて出会うことができない。そんな人間の弱さ、不完全さを、わたしたち誰しもが実は持っています。
★日暮れが近づき、二人の弟子たちは、なお先に進もうとされる旅人を、エマオの村にある自分の家に強いて招きます。そこでイエス様と二人が食事の席に着き、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したその時、はじめて二人の「目が開け、イエスだと分かった」と語られています。
★韓国では「食口(シック)」という、「一つのお皿からみんなで食べれば、もうそれで家族だ」そんな意味の言葉があります。人間は食べなければ生きては行かれない存在です。そんなある意味で人間の持っているどうしようもない弱さを、「一緒に食べる」ということは、共に分かち合うという意味があるのだと思います。そういう意味で、「一緒に食べる」というのは「愛する」ということの一つの形でもあるのでしょう。一つのパンを分かち合い、そのようして「愛する」ことをした時、はじめて目が「開けて」、弟子たちは「イエスだと分かった」のです。
★「一緒に食べること」は「愛すること」、「知る」とは「愛すること」。一緒に食べることを通じてわたしたちがお互いを知り合う時、そこに「愛すること」が起こっています。今、隣国同士、敵意や競合がわき起こっている中で、大切にしなければならないことかもしれません。
# by oji-church | 2017-05-03 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「韓国での出会いから」

★4月17日から20日にかけて、北支区長として韓国基督教長老会ソウル老会(「ソウル教区」のようなもの)の定期会(「総会」のようなもの)に出席するためにソウルを訪問しました。これで定期会に出席するのは4度目になりますが、毎回行くたびに、ソウル老会の方々は多忙を極める中で歓迎され、盛んな食事の接待や、韓国内の歴史を学ばせてもらえるいろいろな場所に連れて行っていただけることは本当に有り難く、感謝のしようもない程です。
★この間、知り合うことのできた牧師さんの中に、イン・ヨンナム先生がおられます。一昨年までソウル老会の総務(事務の総責任者のようなお仕事)を務めておられました。普段コワモテながら冗談ばかり言っている気さくな方ですが、本当に律儀な方で、定期会のお仕事やご自分の教会の働き(韓国の教会は毎朝5時くらいに早天祈祷会が行われます)に忙しい中を縫って、夕食後、ただわたしたちと一杯のコーヒーを飲むためだけに駆けつけてくださいました。一昨年、わたしが個人で韓国を訪れたときもホテルの手配をしてくださり、ソウル以外の町で泊まりがけで重要な会議をしている最中に時間を作ってソウルまで出て来てくださり、夕食をご馳走してくださいました。今回も、最後はただわたしたちをほんの一瞬見送るためだけに、車で1時間弱かかる空港まで駆けつけてくださいました。韓国の方々のこうした篤い懇意を有り難く思うと同時に、わたしたち日本人が見習わなければならないことだなあと思わされます。
★そのイン・ヨンナム牧師から、いまご自身が牧されているヒョンソ教会と王子教会とで交流を結びましょうとの提案を頂きました。本当に有り難く思いました。ぜひ実現に繋げて、本当に顔と顔とを合わせた出会いと繋がりを形作っていきたいと願っています。
# by oji-church | 2017-04-26 13:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「ののはな」

★寒かった3月から、4月に入ってようやく春らしい気候になってきました。教会の植え込みの花もそれぞれに色とりどりの花を咲かせて、心を和ませてくれています。それぞれにいろいろな人が植えたもので、ほとんど手入れもしていないのに毎年こうして花を結んでくれることに感謝の思いで一杯です。この花々の姿から学ばされることはたくさんあります。
★「ののはな」の名前を冠した子ども食堂にも、一人また一人といろいろなところから子どもたちが集まってくるようになりました。ささやかな「居場所」ですが、本当にこの場所を楽しみにしてくれ、またここで出会って友だちになったつながりを、本当に喜んで大切にし合ってくれています。その姿を見るにつけ、まさに「野の花を見よ。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉の真実を教えられます。
# by oji-church | 2017-04-21 15:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(3)

★振り返ればこれまで、自分がサービスを受けることより、人のために立ち働く人が、他の誰よりも生き生きと喜んでいる姿に出会わされてきたなあと思わされます。心身の不自由など「弱さ」を負って小さくされた人から、あるいは小さな子どもから、力強く人を励まされ、背中を押されたことは何度も。わたしなどよりもよほど厳しい貧しさの中にある人から招かれて、歓待を受けたことは数知れず。そんな、この世の常識をひっくり返したような生き様に触れさせられてきた。その度毎に、いっぱしに一人前のこの世の、世間の常識を身につけてきたと思っていた自分自身をつまづかせられ、打ち砕かれてきました。でもその度毎に、神様から与えられてある本当の「いのち」というものに触れさせられてきたようにも思う。
★この世の「当たり前」をひっくり返す神様の働きは、この世の表側からは見えないところで確かに、今日も今も働いて働いているます。
# by oji-church | 2017-04-12 16:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」(2)

★「コレハドウイウコトダロウカ? 力が弱さの中でこそ発揮されるというのは、仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が、最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまづき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験をする。
★「人の子は必ず多くの苦しみを受けて、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」というイエス様の言葉を聞いて、ペトロは「そんな物騒なことを言っちゃいけません」と、この世の物の考え方からすれば当たり前のことを言ったはずでしたが、それを「サタン、引き下がれ」とこっぴどくイエス様からこっぴどく叱られて、ペトロの心は乱れ、砕かれ、バラバラになったことでしょう。でもそんな乱れ、砕かれた心でもって、もう一度この世界を見直してみるとき、この世界が違って見えてくるということがあるのじゃないか。
★これまで当たり前と思ってきたことが、当たり前じゃなく見えてくることがあるのじゃないか、と思うのです。「当たり前」と思っていた自分自身が砕かれて、「当たり前」の自分自身が砕かれることによって、はじめて、「いのち」というものの本当の姿が見えてくるのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の特があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。これが「いのち」というものの本当の姿です。この世の常識とは正反対の。
# by oji-church | 2017-04-05 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「つまずきましょう」

★「つまずく」という教会用語があります。人のクリスチャン「らしくない」振る舞いによって、信仰を持って生きる気力を奪われたという意味。元は何らか挫折を経験して、そこから先に進めなくなってしまうという意味でしょう。「つまずく」というのはあまりいい意味で使われません。けれども、この言葉が大切なこととして語られている場面もあります。パウロは、自分がこれまでのユダヤ教のように、救われるためには割礼が必要だと宣べ伝えていたとすれば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と語っています。つまり、イエス様のことを宣べ伝えるときには、必ず「つまずき」というものが伴うんだと言っています。
★イエスを宣べ伝えること、それは、この世の中の、世間一般の普通の見方、考え方をひっくり返すようなことを宣べ伝えるということです。そしてそれはこの世の中の表側の、目に見えるありようからは見えないことです。この世の中の表側の目に見えるありようだけを見て生きている時、わたしたちはどうしたって、イエス様の言葉やイエス様の生き方に、つまずかざるを得ないのです。
★「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」。「最も小さい者こそ、最も偉い者だ」。「貧しい人びとは幸いだ」。そんなのはこの世の常識とは違う。そんなことあるわけがない、と。わたしたちはつまずきます。そこでつまずいて止まってしまい、また世間の常識的なものの見方、考え方に帰っていくこともできます。でも、そんなふうに聖書の言葉につまずいた時が、チャンスでもあるのだと思うのです。「コレハドウイウコトカ? 仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまずき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験。しかしそこが「始まり」なのです。(つづく)
# by oji-church | 2017-03-30 16:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの傍らにいることこそ」

〈力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二12章9節)。

★いまわたしたちの生きる世界は、アメリカの大統領の選出によく現れているように、どの国も、どの人間も、競って我勝ちに自分の利潤、利益を追い求める世界になっています。この利潤競争に打ち勝つための「強さ」が求められる時代です。その中で、わたしたち一般の人びとは権力を持つ人たちに煽り建てられるようにして、お互いにお互いを分け隔てて対立し合い、貶め合い、憎しみをぶつけ合う様相を呈しています。そんな醜い自分自身の有様を繕うために、嘘偽りがそこら中に横行はびこっています。その傍らで、貧しい人や難民となる人びとが犠牲とされています。そのように「強いことこそいいことだ」と考えてきた末に、わたしたち人間の世界は、おそろしく醜く、また残酷な世界になっているのではないでしょうか。
★わたし自身も、自分の「能力」だとか「粘り強さ」(執念深さ?)だとか、そんな自分の「強さ」を頼りにしようとしている自分がいることに気付かされます。でもそんな自分の「強さ」が綻ぶとき、わたしもきっと醜く、残酷な姿をしているのです。
★「子ども食堂」を開いて、学校や家庭になかなか「居場所」を見出すことのできない子どもたちを迎えにいって、隣り合って歩き、肩を寄せて一緒に食事の準備をし、遊び、食べる、そんなささやかな「居場所」の中で、自分自身の「強さ」を解かれ、弱さの中からほんとうの「喜んで生きる力」が沸き上がってくる経験をします。嘘偽りで自分を取り繕う必要はまったくありません。ああ、これが「力は弱さの中で発揮される」ということなのかなあと思い至ります。「弱いことこそ、いいことだ」「弱さの傍らにいることこそ、嬉しいことだ」、掛け値無しにそう言い合える世の中を待ち望みたいと思うのです。
# by oji-church | 2017-03-22 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「語る言葉を持たない声に耳を寄せて」

〈イエスは……一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためいこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。……あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』〉(ルカによる福音書9章47~48節)。

★イエス様は、「誰が一番偉いか」という議論に対して「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」とは言わないのです。「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」のだから、自分の言うことを聞け、自分を受け入れろ、とは言われないのです。そうではなくて、一人の子どもの手を取ってそばに立たせて、この子を「受け入れなさい」と言われるのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。子どもというのは当時、ただただ世話の必要な厄介者と見なされていました。「子どもの人権」などと言われるようになったのはごくごく最近のことです。そんな中、イエス様は「誰が一番偉いか」という議論に対して「この子どもを受け入れなさい」と、つまりは「この子どもの言うことを聞きなさい」と言われたのです。そして、それがイエス様を受け入れるということであり、神様を受け入れるということなんだと言ったのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
★よくわたしたちは謙遜して「わたしなど小さな者です」なんて言ってみたりしますが、実はそれは、ここでのイエス様の言葉に照らしてみれば「エライ」ことを言っていることになります。「自分が一番偉い」と言っていることになるのですから。「わたしなど小さな者です」と「言える」ということは、実は結構自己主張している、ということでもあるわけです。
★大人たちの間に立たされた子どもは「わたしなど小さな者です」とも言えなかったでしょう。語る言葉を持っていなかったでしょう。でもそんな小さな子どものように「語る言葉」さえ持たない者、その「弱さ」「小ささ」に、じっと耳を寄せて、耳を傾け、受けとめていくことの中に、わたしたちが神様を受け入れる、神様に聞き従って生きていくという道筋があるんだ、といういことを、イエス様は弟子たちに示されたのではないでしょうか。
# by oji-church | 2017-03-15 10:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛とは与えることだけど」

★昨年7月に起きた相模原の障害者施設での殺傷事件の被害者の中で、実名を公表している尾野一矢さんのご両親がニュースの中で語っておられた言葉が、深く心に残りました。家族の真ん中にいつも一矢さんがいた、とご両親は語られます。「一緒にいて不幸だと思ったことは一度もない。わたしたちに宝だ」と。そのようにして大切に、愛して、一矢さんをご両親は育てて来られました。犯人に対する憎しみがわき起こってくるのを「そればかり考えていると、犯人に負けてしまうから」と敢えて憎しみを封印して、代わりに「障害者は不幸をつくることしかできない」「障害者なんていなくなればいい」という犯人の言葉とたたかうために、顔と名前を明かして自分たちの姿を明らかにしたと言われます。そうしてお母さんが言われた言葉が深く心に残りました。「息子は今回、被害者となったが、他人を傷つけることしかできない容疑者より幸せだ」「一矢は刺されちゃったけど、刺すよりはマシかなって。私は一生懸命かわいがって、いらない子なんかじゃなかったから」。
 この言葉を聞いて、本当に「愛する」とはどんなことなのかを教えられた気がしました。「愛とは与えること」。でもそれは「愛するばっかりで何の見返りもない」わけではないんだということです。愛するということ、自分の弱さをを人にさしだし、与えていくことを、本当に本当に、大切に、丁寧に重ね、育てていくとき、そこには本当に、深い「喜び」があるのだということを教えられました。それは人を憎む気持ちとたたかって打ち勝つ強さを持った「弱さ」「愛すること」なのです。
★自分の「弱さ」など人に差し出し与えたところで何の役に立つだろう、と思われるかもしれません。でもそれこそが、真の意味で「人間」というものを造り上げていくのでしょう。「いらない子なんかじゃない」人間、宝としての人間を、です。お互いの「弱さ」をさしだし合い、「弱さ」によって出会い、繋がれながら、お互いに大切な、宝物である人間になっていく、そういう道を見出し、進んでゆきたいと願います。
# by oji-church | 2017-03-08 13:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの中に働く神様の力」

〈わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二第12章9節)

★弱さの中にこそ満たされる神様の力って、いったいどんなものなのでしょうか。それはやはり、人と人とを繋ぐ力、人と人とを出会わせ、結び合わせる力なのではないでしょうか。パウロ自身が持病やしょうがいを負っていたように、人は生きている限り誰もが心や体に傷を負っているものです。生きるということは傷を負う弱さを背負うということです。そんな自分の弱さを心に留める時、わたしたちは自分一人では生きられないと思う。誰かと繋がり、誰かと結び合わせられることによって、初めて人間というのは生きることができる存在です。しかしわたしたちは、なかなかそのように自分を見つめる眼差しを持つことができません。自分の「強さ」、自分の「力」に寄せる思いしか持っていないから。それで、自分の「弱さ」に直面すると、もうそこで絶望するしかなくなってしまいます。「弱い」自分に直面すると、もう夢を望むことができないと思ってしまう。それで「強い」人、「力を持った」人に依り頼もうとしてしまいます。
★けれどもパウロが示されたのは、「自分の」力、「自分の」強さ、あるいは自分より「強い人」の「強さ」、自分より「力ある人」の「力」ではなく、神様の「力」でした。それは「弱さの中にこそ満たされる力」。人と人とを同じく「弱さ」を背負った者として受け容れて、出会わせ、結び合わせ、互いに助け合う者同士として繋ぐ力です。この神様の力によって、わたしたちは自分自身の「弱さ」に直面し、自分自身の「弱さ」を背負いながらも、なお夢を望むことができるのだと思うのです。
# by oji-church | 2017-03-01 16:43
「誰かが弱っているなら」

〈誰かが弱っているなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ11章29節)

★先々週から先週にかけて、神学校で日本基督教団の歴史を教える授業を受け持ちました。かつての戦時下、ひたすらに戦争勝利のための「強さ」が追い求められた時代の中で、日本のクリスチャンたちが自分たちのだけの「生き残り」のために、国家崇拝に同調し、戦争を支持し、戦意昂揚に加担していった歴史を神学生たちと一緒に学んでいます。でもそれによって、どれだけ多くの人たちが戦争に駆り立てられ、また戦争によって命を奪われたか計りしれません。戦時下の教会は自分たちだけの生き残りを図って、ある意味でそれは成し遂げられましたが、そこには戦争に駆り立てられ、戦争で命を奪われていった多くの人たち、その「誰か」に心寄せる信仰を失っていたことは否めません。
★今教会はいわゆる「教勢」の落ち込みの中でじり貧の状態であることも神学生たちに教えます。その中でやはり自分たちの「生き残り」のために「強さ」の時代に同調していくことも可能でしょう。ですが、あの戦時下の教会の有様を振り返る時、いま教会が「弱さ」の中に置かれていることの中に、むしろ神様の「恵み」らしきものが感じる気がするのです。この「強さ」の時代の中で、数多く「弱さ」の中で苦労を背負わされ、ゆく先の見えない状況に追い込まれている人たちがいます。今教会が背負わされているじり貧の「弱さ」には、もしかしたら、そんな「弱さ」を背負わされて、苦労している多くの人たち、その「誰か」を離れないように、その「誰か」の傍に居続けるように、という神様の思い、神様の呼びかけが響いているのではないかないと思うのです。
★イエス様に出会い、弱さのままに、裸の姿で、しかしなお前を向いて進んでいく。そうして、同じく弱さを背負った「誰か」と出会わされ、その「誰か」の元を離れずに、弱さゆえの苦労を分かち合い、それを通じて希望を見出していく、心を温かく燃やされていく、そんな信仰の歩みを大切にしてゆきたいと願うものです。
# by oji-church | 2017-02-15 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ