日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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降誕前第6主日 召天者記念礼拝
11月19日(日)午前10時30分
説教「悲しみの器」
大久保正禎牧師

【聖書】マルコによる福音書14章3~9節、コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7~14節
【讃美歌】29.382.436.493.65-1.88.
【招詞】詩編46編9~12節
【詩編交読】119編25~32節

by oji-church | 2017-11-16 12:26 | 全体のお知らせ
「人々のそばに」

〈イエスが多くの病気をいやされたので、、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。〉(マルコによる福音書3章10~12節)

★どうしてイエス様は「あなたは神の子だ」という悪霊の叫びを「言いふらさないように」と厳しく戒められたのでしょうか。イエス様が「神の子」というのは聖書的には決して間違いではないのに。神学では「メシアの秘密」と言って、イエス様が「神の子」であることは、十字架に掛けられて人々の罪を贖(あがな)うまで秘密にされておかれなければならないこと、イエス様の贖いの業を知らないでイエス様を「神の子」と呼ぶのは「間違い」だから、というようなモットモラシイ説明がされるのですが、ナンだかアンマリ、シックリきません。
★こんなふうに想像してみました。病気でずっと悩んできたのが、イエス様に出会って、病気が癒されたのだとしたら嬉しさのあまり、悪霊でなくても思わず知れず、「あなたは神の子です」なんて叫びたくもなってしまうのじゃないかと思うのです。それに対してイエス様は「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応える、そんな場面が幾つもあったのじゃないか、そんなふうに想像するのです。これは「神の子」イエス様に対する冒涜なのでしょうか。
★イエス様に出会って、病気が癒されて、嬉しさのあまり、飛び上がるように「あなたは神の子です」と叫ぶ人に対して、「いやいや、自分は神の子なんかじゃない」と応えるイエス様。そこには、「神の子」という特別な立場に立って、人々を「救ってあげる」救い主ではなくて、どこまでも人々のただ中に、人々と共に、人々のそばに居ようとするイエス様の姿があったのじゃないかと思うのです。(つづく)
by oji-church | 2017-11-16 12:23 | 牧師からのメッセ-ジ
「民主主義とキリスト教」

★今週末から、北支区の日韓宣教協議会が始まります。主題は「キリスト教と民主主義~敗戦・解放後の歩みのなかで」というものです。韓国では先年、腐敗した政権を市民がデモを繰り広げることによって退陣に追い込んだ「キャンドル革命」が起こりました。一方日本では、数にものを言わせた与党・政府の恣意的な政治が続き、庶民の生活がないがしろにされる一方で、「戦争をする国」への準備が着々と進められています。この違いは一体何なのだろうかと考えるのです。
★韓国では、戦前・戦時下の日本の植民地支配、また戦後の軍事独裁政権の支配に対して市民自らが声を挙げて抵抗し、時の権力を覆して新しい時代をひらくということをしてきた歴史があります。日本ではそのように、一般の市民が自らの手で歴史をひらくということがなかなかできずに来ました。歴史は、力のある者が作った「出来合い」のものを受け取るだけ、という感覚が根強く色濃いのかもしれません。
★昨年、「安全保障関連法案」に反対するデモが路上を埋めていた国会前には、SEALsの若者たちの「民主主義ってナンだ?」「コレだ!」というコール&レスポンスが響いていました。民主主義とは、権力の集中や絶対化を退け、それぞれの小さな個人が能動的な「主体」(コール)となって、「対話と合意」(レスポンス)の下に社会を形作ることでしょう。その根底には、神のみを神とし、神の前での一人ひとりの人間(個人)の自由と平等を受けとめるキリスト教信仰があったことは確かです。
★いま日本の教会は信徒の数が減少する中で、衰退を余儀なくされています。でも、一人ひとりの個人が、生き生きと自由に呼びかけ、応えするなかで社会を形作る民主主義の奥底に、キリスト教の信仰があることを、もう一度教会は受けとめ直す必要があるように思います。このことを教会・キリスト者がしっかりと噛みしめるとき、今の時代の中で、教会は小さくあっても、市民、一般庶民と共に歴史をきりひらいていく大切な一員になることができるはずだと思うのです。
by oji-church | 2017-11-08 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ