日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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11月3日(金)に王子教会オープンチャーチを開催いたします。
午前中はバザー、喫茶、カレー、お弁当、子どもコーナー(ゲームとわたあめ作り、コマ作り)。
午後は、お琴とゴスペル、コーラスのミニコンサートを開催します。
ぜひご来会ください。お待ちしております。



by oji-church | 2017-10-31 14:04 | 全体のお知らせ
「ゆるしとしての生き方」

〈安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか〉(マルコによる福音書3章4節)

★以前、ある牧師さんがこんな言葉を語っていたことを伝え聞きました。「神様が許しておられるのは、共に生きることだけ」。ひっくり返せば、神様は「共に生きること」以外は全部禁じておられるという意味にもなるでしょう。わたしたちの生き方を律する神様の厳しさが伝わってきます。だけれども、それはまた、もう一度ひっくり返せば、「共に生きる」ためならば、どんなことでも神様はわたしたちに許して下さっておられるということです。
★いかに自分が「正しく」生きるか、あるいはいかに自分が「救われる」か、ということが人生の目的なのではなくて、いかにして「共にいきる」か、ということこそが、わたしたちの生き方の一番大切な目的なのだということです。
★いかにして「共に生きるか」。それをわたしたちの人生の一番の目的として生きようとするとき、その一番の土台となるのは、何よりもまず、このわたし自身が、どうあれ「生きること」を「ゆるされている」ということなのではないでしょうか。神様はわたしたち一人ひとりに、わたしたちの姿がどうあれ、何よりも先ず「生きていていいんだ」とゆるしの声を呼びかけておられる。このことをわたしたちが本当に心の奥底に刻むとき、わたしたちの生き方は、「共に生きなければならない」という義務としての生き方から、「ともに生きていい」という喜びに溢れた「ゆるしとしての生き方」に変えられていくのではないかと思うのです。
★いま、将来への不安から、いたるところで自分中心と、他者への不寛容が、黒雲のように世界を覆っていくような時代の中、「~してはならない」生き方、「~しなければならない」生き方から、「~してもよい」生き方、「生きていていい」と呼び交わす生き方、「共に生きていい」というゆるしの声を喜んで受けとめる生き方、「ゆるしとしての生き方」を、見つけ出してゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-10-31 13:44 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱い声と言葉のために」

〈安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある〉(マルコによる福音書2章27~28節)

★今選挙の真最中で街には、「強く、勇ましく、人を圧倒する」言葉が各所に響いています。わたしたちは「強く、勇ましく、人を圧倒する」ことが「いいこと」だと思っています。でも自分自身を振り返ると、弱く、臆病で、人を圧倒しもしない自分に不甲斐なさを感じるものです。でも人間のほんとうの姿って、「強く、勇ましく、人を圧倒する」ものなのでしょうか。
★イエス様の弟子たちが安息日に、麦の穂を摘んで食べたことを見とがめて「安息日にしてはならないことをした」とクレームを付けてきたファリサイ派の人々たちにイエス様が応えた言葉が、上の言葉です。「安息日は人のために定められた」。ここで語られる「人」というのは、道端の麦の穂をちょっと摘んで口に放り込んでみるような、「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のことでしょう。安息日は、神様がこの世界を創られて、休まれたことを覚える日です。安息日が「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のためにあるということは、この世界それ自体がそのような人のために創られたということでしょう。
★「ああ、思った通り、やさしそうな人でよかった」。「今日帰ったら、お母さん、起きてるといいな」。「ええ? 今日ママ、家にいるの?」。どれも、子ども食堂に来ている子どもたちの口から出た、小さな小さな言葉です。人を圧倒することもなく、臆病で、弱い言葉です。そんな小さな声と言葉が、実はわたしたちの日常・普段の生活の傍らには幾つも響いています。神様は、そんな人間のために、そんな人間に向かって、そんな人間を大事にするために、そんな人間に焦点を合わせ、そんな人間を目指して、安息日を与えられたのだ。この世界を造られたのだ。そして今日も今も働いておられるのだ、そう思ってこの世界をもう一度、見渡してみるのです。
by oji-church | 2017-10-25 16:24 | 牧師からのメッセ-ジ
「新しいわたしたち」

〈だれも、織りたての布から布切れをっとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。…また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない〉(マルコによる福音書2章21~22節)

★実はわたしたち人間というのは、目に見えるものだけを見ているだけでは、「希望」なんて、どこにも見出すことができないのです。なぜって人間には未来を見通すことができないのだから。目に見える隣国のミサイルとか、テロとか、独裁者だとか、そういうものに突き動かされているのではどこからも本当の「希望」なんて生まれてきはしないのです。「希望」というのは敢えて持つもの、嬉しいことや楽しいことが何処にも見当たらなくても、目に見えるものはミサイルやテロや独裁者であったとしても、それでも「希望」を持とうとわたしたちが心に決める時、その時初めて「希望」というのはわたしたちの胸の内に、小さな新しい芽を芽生えさせるのでしょう。
★以前信徒の方が礼拝で語ってくださった言葉が今も心に響いています。「どんな人でも、今が一番若いのですから」。自分の内に「新しいもの」「喜ばしいもの」を見つけ出すことが難しくなってくると、わたしたちは、自分の過去に依り頼もうとします。自分はこれだけのことをやってきた。こんな経験をしてきた。これだけのことを知っている。分かっている。そうやって自分を人よりも「上」の立てて、自分を守ろうとしてしまうのです。「どんな人でも、今が一番若いのだから」。そこには「自分の」業績や経験ではなくて、「神様が」造り出す、まだ見えない未来に、喜びを見出そうとする「希望」が感じられます。生きている限り、今日という、神様が作られる「一番新しいもの」を与えられている点では、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、まったく変わりはないのです。
★ここでイエス様が言われている「織りたての新しい布」「新しいぶどう酒」「新しい革袋」というのは、新しい今日という日を与えられているわたしたち自身のことなのです。一方「古い服」「古い革袋」というのは、わたしたちが自分自身の過去の業績や経験に依り頼んで、「上から目線」で世の中を見ようと苦労しているわたしたちの心持ち、有様のことなのでしょう。
by oji-church | 2017-10-18 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「病むことを当たり前として」

〈医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである〉(マルコによる福音書2章17節)

★8月に腰を痛めて4日間入院。歩行不能のわたしは看護師さんにストレッチャー、ベッド、車椅子で運ばれる日を送りました。普段お見舞いで伺いスタスタ歩く事になれた病院の廊下を「運ばれる」時、何とも言えない気持ちを味わいました。「情けない」「格好悪い」「申し訳ない」……。でもそれはもしかしたら、介護や介助を受ける側に身を置いておられる多くの人たちが、内心で感じていることかもしれないなあと思ってみるのです。そんな介護や介助を受ける側に身を置く人の胸の内に秘められたかすかな声は、なかなか世の中の表舞台には上がってきません。世の中の表舞台は、健康で丈夫な、介護・介助される必要のない人間というものを「当たり前」として成り立っていて、そういう小さな声に焦点が当てられることはほとんどありません。
★「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。ここでイエス様は、丈夫な人ではなく、病気の人に焦点を当てて、世の中の表舞台の真ん中に置くのです。確かに病気の人がお医者の手当てを、介助を、介護を必要とするのは「当たり前」のことです。イエス様は、丈夫で、自分の足で立ってスタスタあるいて「人を助ける側」にいるのが「当たり前」という世の表舞台のありようをひっくりかえして、むしろ病気の人をその真ん中に置いて、病気の人が手当てや介護や介護を必要とすることこそが「当たり前」であって、それは「情けない」ことでも「格好悪い」ことでも「申し訳ない」ことでもないと言われているのです。いわば、立ってスタスタ歩く目線を「当たり前」にするのではなく、車椅子に座り、ベッドに横たわり、ストレッチャーに寝かされて運ばれる時の目線をこそ、「当たり前」として、この世の中を見直してみること(=悔い改め)をわたしたちに呼びかけているということでしょうか。
by oji-church | 2017-10-11 15:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「愚直の信」

〈四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがし穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた〉(マルコによる福音書2章3~5節)

★当時、「治らない病気」は「呪い」によると考えられました。治癒が困難であればあるほど、それはより強い「呪い」、すなわち、「神様の呪い」と考えざるをえなかったのです。それでもなお、この四人の人たちが中風の人をここに運んできたのは、彼らの思いの内に、「いや、神様は、人を永遠に罰するような、そんな呪いを人間に下す神様ではなく、人を祝福する神様であるはずだ」と、そんな強い希望があったからではないでしょうか。イエス様だったらそんな本当の神様の姿をよく知っているはずだ、と連れてきたのです。
★イエス様に引き合わせるために、人の家の屋根をひっぺがえすなど、アホのやることです。わたしたちはしばしば、クリスチャンになると途端に「訳知り顔のクリスチャン」になってしまいます。でも、信仰とは「愚直」であること、「愚かになる」ことでもあるのではないか。何に対して? それは、「神様は、人を祝福する神様であって、人を呪う神様であるはずがない」という希望に対して。病いを得ているどの人も、生きることに困難や厳しさを負っているどの人も、神様の祝福から外れているはずがないと。その困難や厳しさを乗り越えて、一緒に、与えられた命を喜んで生き生きと生きることのできる道が必ず備えられているはずだと。神様に対して「愚直」であることは、必ず、自分一人のわたくし的な「心の中の信仰」に留まらず、自分以外の人と手を取り合って共に生きることへと繋がっていきます。
★彼らの「愚直」な信仰を「見て」、そこに心を重ねて、イエス様は言われます。「あなたの罪は赦される」。「見てご覧。あなたはこんなにも愚直に、人を祝福する神様への希望を携えた人たちに囲まれているじゃないか。そうならば、あなたは神様に呪われてなんかいるものか。こんな人たちに囲まれて、あなたは確かにもうすでに、目一杯神様に祝福されているぞ」。そんなふうにイエス様は言われたのじゃないかと思うのです。
by oji-church | 2017-10-04 12:21 | 牧師からのメッセ-ジ