日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「煽られた危機感の先には」

★先週、朝鮮がミサイルを発射しました。これに際して日本政府は「Jアラート」なる警戒警報を、北海道から東北、北関東3県、他に新潟、長野の計12県に発したということです。わたし自身、先月29日、秋田県にいた時にこの「Jアラート」を受けました。朝6時頃、突然枕元のスマホがすさまじい音量でビービー鳴り出しました。「こんな音で目覚まし、掛けたっけか?」と思いながらスマホを取り上げると、なにやら「国民保護情報」云々と書かれていましたが、寝ぼけて何かボタンを押したらすぐに消えてしまい、何のことやら分からぬまま、また寝てしまいました。
★朝鮮がいきなり日本にミサイルを撃ち込むことがないことは、現在までの情況を考えれば明らかです。また、実際に核弾頭を搭載したミサイルが日本に向かって発射されたなら、こんな警報が間に合わないことも明らかです。こうした警報を発することで、人の危機感や恐怖感を煽って、戦争をする態勢へと人心を束ねていこうとする意図があるのではないかと勘ぐってしまいます。
★84年前、桐生悠々という信濃毎日新聞の記者が「関東防空大演習を嗤う」という記事を書きました。昭和8年東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して「如何にそれが大規模のものであり、また如何にしばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない」と語りました。この記事を読んだ信州在郷軍人会が信濃毎日新聞の不買運動を展開し、桐生は信濃毎日新聞を退社することを余儀なくされました。
★煽られた危機感によって自由な発言や批判が封じられた先には、有無を言わせぬ戦争が待っています。その時犠牲にされるのは一般庶民に他なりません。「Jアラート」は決して「国民を保護する」ものではありません。そんなことよりも、国際間に対話の気運を開くように努めることのほうが、余程意味あることではないかと思います。
by oji-church | 2017-09-20 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「いやし―人をひととして向き合うこと」

〈イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし…〉(マルコ1:34)。

★聖書で使われる「いやす」という言葉は「テラペウオー」というギリシア語です。辞書で調べてみると、最初に出てくる意味は「いやす」ではないのです。「奉仕する、仕える、侍する、(神を)祀る、尊崇する」とあって、「世話をする、面倒をみる、意を用いる、心がける、配慮する」、次は「ご機嫌をとる、歓心を買う、へつらう、おもねる」、次に「育む、養う、大切にする、重んずる」とあって、その次「看護する」とあって、ほとんど最後に「治療する」とあります。聖書はイエス様のいやしの業をサラッと書いていますが、パパッと癒して「はい、次」というような「お手軽」なものではなかったのじゃないかと思えてきました。
★先月、腰を悪くして4日間入院しました。看護師さんたちには本当に頭が下がりました。担架で、ベッドで、車いすで運ばれ、歩行器で歩くのに付き添われしました。普段自分の足でスタスタ歩いている自分がどれだけ、高い目線でしか物を見ていないかを知らされました。そんなわたしを看護師さんたちは、丁寧に丁寧に、チョットした段差にも声を掛けて配慮して運んでくださいました。夜中中叫んで居られるお年寄りもいました。それでも嫌な顔一つせずに、呼ばれればそばに行き、説教めいたことは一言も言わず、言われたことに応える働きをなさっておられた。そういう看護師さんたちがおられることに心打たれました。
★「藪医者は人で持つ」という言葉があります。病気が治るかどうか以前に、病いや怪我を負った人を、尊い一人の人間として大切に、丁寧に扱ってもらえるかどうか、それがもうほとんど全部じゃないか、という思いを一層強くしました。イエス様がなした「いやし」「テラペウオー」というのも、そういうものだったのじゃないか。人を人として大事にする、心を通わせることのできる相手として向き合う。専門家にしかできないことではありません。だけれども、簡単にできることだとも思いません。問われているのは、わたしたちがどれだけ、人を人として、大切な存在として見つめ、向き合うことができるかということでしょう。

by oji-church | 2017-09-14 13:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「記念―想い起こすこと」

★世の中では、学校で会社でも、しばしば創立何周年記念というお祝いをします。教会もしばしば同じように、創立記念の日にお祝い事をするのですが、聖書では「記念」という言葉は「想い起こす」という特別な意味を持っていることを知らされます。
★想い起こすという人間の営みには、さまざまな感情が伴わざるを得ません。時には胸の痛みや恥ずかしさ、悲しみと共に想い起こされる思い出もあります。しかし同時に、わたしたちが痛みや恥ずかしさや悲しみを越えて、前に進んでいくための力や励ましを与えられるのも、やはり「想い起こす」ことを通じてではないかと思います。わたしたちには未来を見晴るかすことはできません。わたしたちの胸の内に残されているのはすべて過去の出来事です。しかしまたわたしたちは、前に向かって、未来に向かって進んで行かなければなりません。その時に、前に向かって歩みを進めるわたしたちを支える杖となるのも、やはり過去の経験なのです。
★聖書を開けば、そこに語られているのは、ほとんど最初から最後まで、過去を想い起こす人間の営みです。聖書の中で神様は繰り返し「想い起こして見なさい」と人々に呼びかけています。聖書の中でイスラエルの人々は、神様によって繰り返し繰り返し、過去を想い起こすことを促され、そこに示されていたはずの神様の指し示しに、自分たちが、また自分たちの先祖が従い得なかった「罪」を直視させられるのです。しかしそれと同時に、その「罪」にもかかわらず、繰り返し神様がイスラエルの人々に呼びかけ続けてこられた、そしていまも呼びかけ続けておられる、そういう神様の姿をも想い起こさせられるのです。そうした改めて、神様から、今、そしてこれから未来に向かってわたしたちが進んで行く道筋を示される。それが、聖書の最初から最後までほとんど全部の頁に語られていることであり、この「想い起こす」という営みそのものが、聖書の信仰と言ってもよいでしょう。ですから、わたしたちもまた、教会の歴史を記念する時、単にそれを祝うのではなく、「想い起こす」ことが求められているのです。
by oji-church | 2017-09-07 10:54 | 牧師からのメッセ-ジ