日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「なすべきこと―石の叫びに耳を寄せて」

★戦争から72年目の8月を迎えています。先月誕生日を迎えて48歳になりました。戦争後の72年とわたしの生きてきた48年とを引き比べると、丁度この敗戦後72年の3分の2の時間を生きてきたことになります。8月を迎える度に、わたしたちは戦争によるあまりにも多くの犠牲に思いを致し、平和を求めて礼拝を行っていますが、70年以上にわたってそれを積み重ねてきながら、いまのわたしたちを取り巻く状況を見ると、70年経ってまた、戦争の前に舞い戻っているかのようです。「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」と、いずれも戦前、民主主義の存在しなかった日本で、人々を国の都合で操り、戦争へと駆り立てる諸々の法律が定められていきましたが、それと同じものがいま、出揃っている有様です。この72年間、わたしたちは何をやってきたのか。少なくともその3分の2、半分以上の責任を、わたし自身も負っているのです。今からでも遅くない。そう信じて、なすべきことをなしてゆきたいと願うものです。
★わたしたちが平和を形作ってゆくために、まずなすべきことは何だろうか。イエス様は「もっとも小さい者にしたことが、わたしにしたことなのだ」と言われます。わたしたちは、この世界で「もっとも小さい者」を見つけることはできません。「もっとも小さい者」とは「わたしよりも小さくされた者」のことなのでしょう。平和を求めて進む時、それは、あの戦争によって無念の死を遂げた人々のことではないでしょうか。すくなくともいまここにいるわたしたちは、戦争によって命を奪われてはいないのですから。戦争によって無念にも命を奪われた人たちの、その声に耳を傾けること。それが平和を求めて進む時、わたしたちがまずなすべきことではないでしょうか。亡くなった人は声を挙げることはできません。それでもなお、その声なき声に耳をそばだてようとするとき、きっと聞こえてくる声があるはず。イエス様もそう言われています。「この人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19:40)と。平和を求める石の叫びに耳を寄せ、それをわたしたち自身の声として、平和を求め、形作ってゆきたいと願います。
by oji-church | 2017-08-24 12:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(3)

★「お前は俺たちの何だ?」。この叫びに対してイエス様は「自分は関係無い」と引き下がるのではないです。「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになった。このイエス様の台詞は一見すると、この「悪霊に取りつかれた人」に向かって叱りつけているように聞こえますが、ちがうんじゃないか。むしろこの人をよってたかって虐めて、排除するあのいじめっ子たちに向かってこそイエス様は言っているんじゃないか。そんな気がしてきました。
★灰谷健次郎さんという児童文学者の『太陽の子』という作品の中には、こんな言葉が出て来ます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのではないやろうか」。主人公のふうちゃんという小学六年生の女の子の思いです。「感じて『しまう』」というのは、そうしようと思わなくても、それを「感じてしまう」ということです。そのようにわたしたちのいのちというのは、実は目に見えるわたしたちのこの身体の外にもはみ出して、広がって、人と出会い触れあい、やがて自分のほかの、自分以外の人の「痛み」や「悲しみ」が住むようになる、ということではないだろうか。
★人の「痛み」や「悲しみ」なんて、自分が幸せに暮らすためにはまさに「余計なもの」に思え、そんなものに「手を出すな」「考えるな」と思われるかもしれません。だけれども、わたしたち人間は、自分をはみ出して自分以外の人と出会い触れ合って、お互いにその「悲しみ」や「痛み」を自分の中に住まわせることを通じて、初めて、お互いを理解し合い、お互いを大切な存在、かけがえなく、愛おしいものとして見つけ出すことができるのではないでしょうか。それは決して「余計なもの」などではないでしょう。
by oji-church | 2017-08-18 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(2)

〈「ナザレのイエス、かまわないでくれ(お前は俺たちの何だ?―私訳)。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。〉(マルコによる福音書1章24~25節)

★「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」。そう叫ばれる社会の中では、必ず犠牲とされる人たちが生み出されます。お金儲けのことだけを考える社会の中で、過重労働で命を奪われる人たちが生み出されています。子ども食堂にくる子どもたちを見ていると、やはりそんな社会の中で犠牲とされ、切り捨てられ、居場所を失っている彼女ら、彼らの密かな、言葉にならない思いが伝わってきます。高齢者も同じように切り捨てられようとしています。沖縄に基地が押しつけられ、原発が地方に押し付けられているのも、やはりそんな社会の中でこそ起こっていることのように思われます。
★「お前は俺たちの何だ?」。この言葉を聞くと「余計なことに手を出すな」「余計なことを考えるな」、そう叫ばれる社会の中で一人の人をよってたかってイジメている、そのイジメっ子に向かって「そんなことをしてはいけない」と注意すると返ってくる台詞、「お前は俺たちの何だ?」「お前には関係無いだろ」。そんな台詞に聞こえてくるのです。この「悪霊に取りつかれた人」は、そんなイジメを受けて、のけものにされ排除されてきた、そんな経験を幾度となく重ねてきたのじゃないか、そんなふうに想像するのです。その内に「お前は俺たちの何だ?」というイジメっ子たちの台詞を自分の胸深くに突き立てられて、いつからか自分の口からその台詞を、自分自身に向かって叫ぶようになったのではないかと。(つづく)
by oji-church | 2017-08-09 10:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(1)

★いま日本では、クリスチャンや教会に集まる人の数が全国的にどんどんと減っています。またそれは日本ばかりの問題でもなく、世界的にクリスチャンの数は減る傾向にあるようです。そういう厳しい状況の中にあって、教会の中では、余計なことには手を出さずに、ひたすらにクリスチャンの数を増やすことを目指して、「伝道」に集中しようという動きが強まっていきます。伝道によって新しく教会を訪れる人が一人でもあることは、この上なく嬉しいことに違いありません。でも、考えて見なければならないのは「余計なことには手を出さずに」というところです。人にキリスト教のことを伝えて、洗礼を受けるまでに人を導くこと、もうそれ以外のことには「手を出さない」「考えない」ということ。信仰告白の文章や、教会の規則に則って、そこからはみださないように、それ以外のことはやらずに、考えずに、ただひたすら洗礼を受ける人を増やしなさいと、そういう動きが強まっていきます。それに従わずに「余計なこと」をやろうとする人は、ルール違反だ規則違反だ、信仰に背く行いだと言って断罪されることになります。それは今に限ったことではなく、明治以後の日本の教会の歴史を見てみると、教会が厳しい状況に置かれるたびに、繰り返しそういう動きが起こってきたことが分かります。
★教会以外の人の集まりでも厳しい状況の中では同じようなことが起こってきます。戦争中の日本の国のありようを見れば、それはすぐに分かります。「欲しがりません、勝つまでは」「進め、一億火の玉だ」「撃ちてし止まん」、そんなスローガンの下に、戦争以外のことは考えるなと教えられたのです。従わない人は「非国民」として断罪されました。長引く不景気の中で、大企業がお金儲けをすることをだけを考えるように、それ以外のことは考えるな、弱く小さな立場にある人間はその犠牲になれ、と言われていて、それに従わない人は、ヘイトスピーチの標的にされてしまう。そんな空気がこの国全体を覆っているように感じられるのです。
by oji-church | 2017-08-02 12:32 | 牧師からのメッセ-ジ