日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「まっすぐ」

〈イエスは、「わたしについて来なさい。人間の漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った〉(マルコによる福音書1章17~18節)

★イエス様から呼びかけられ、「すぐに」全てを捨てて従うなんてことは、誰にとっても難しいことです。実はこの「すぐに」という言葉は、この福音書を書いたマルコの口癖のようなもので、福音書のいたるところに出てくる言葉です。マルコによる福音書ではしばしば、何か新しいことが起こる時に「すぐに」という言葉が出てくるのです。
★この「すぐに」という言葉、もとは「まっすぐ」という意味の言葉です。わたしたちは日々クヨクヨしたりオロオロしたりしながら、毎日現れてくる新しいことにビクビクと恐れながら、向かっていかざるをえません。聖書が語る「すぐに」というのは、もしかしたら、わたしたち人間の振るまいであるよりも、「わたしについて来なさい」と言うイエス様の向こうから注がれる神様のまなざしを表しているのかもしれないと思うのです。進んでいくわたしたちの生身の姿に「まっすぐに」注がれる神様のまなざしです。
★谷川俊太郎さんの詩に「まっすぐ」という題の詩があります。「キューピッドの矢のように まっすぐ/レーザーの光のように まっすぐ//まっすぐはとどく/まっすぐは貫く/まっすぐは跳ね返る/まっすぐは終わらない//赤んぼの鳴き声のように まっすぐ/玉突きの玉のように まっすぐ//まっすぐを生み出す力は/まっすぐではない/まがりくねり/せめぎあってる」。神様のまなざしは、オロオロし、クヨクヨし、ビクビクしながら曲がりくねった道を歩いているわたしたちに向かって、わたしたちに寄り添って、まがりくねり、せめぎあいながら、それでもいつもまっすぐに注がれているのではないか。そのまなざしを心に刻みながら、クヨクヨ、オロオロ、ビクビクしながらでも、イエス様にしたがって生きる道を、生きてゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-07-25 13:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「不思議な時」

〈時は満ち、神の国は近づいた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★聖書には時を表す言葉が二つあります。一つは数字で表すことのできる「時間」(クロノス)、もう一つは数字では表せない「時」(カイロス)。ここでは「カイロス」が遣われています。
★わたしたちは生きている中で、不思議な「時」を経験することがあります。普段は数字で測られる時の中で、いついつまでにあれをしなくちゃ、これをしなくちゃと慌ただしく生活しています。しかし例えば、親しくしていた人が亡くなった時。その時、わたしたちはその人がもうこの世にいない現実をまざまざと突きつけられて、悲しみに暮れます。だけれどもそれと同時に、その人が生きていた時、あんなことがあった、こんなことを言っていた。そういうことが生きていたその時よりも一層しみじみと、ありありと、掛け替えのない、愛おしいものとして甦ってくることはないだろうか。そういう経験は、わたしたち人間が本当に人間として人間らしく生きて成長していく上で大切な、そして欠かすことのできない経験でありましょう。普段は時計を見い見い、せわしなく生きている。でもそんな数字で測られる時間を生きる中で、あるときふと、過去のなにげない経験が、自分にとって掛け替えなく愛おしい、尊いものとして甦ってくる。そんな不思議な「時」をわたしたちは経験します。聖書の時代の人は時計なんて持っていませんでした。その分、その時代の人たちはそういう不思議な「時」の経験を、わたしたちよりもより敏感に感じ取り、深く胸に刻みながら生きていたでしょう。
★そんな「時」を感じ受けることが、「神の国は近づいた(近くにある)」というこことなのかもしれません。
by oji-church | 2017-07-19 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「野獣と一緒にいたが」

〈霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒にいたが、天使たちが仕えていた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★野獣は自分のために、人に襲いかかり、爪を立て、食い破って省みないもの。でも実は、人は誰しもが、自分の内に、そんな野獣のような思いを秘めているものではないか。自分のために人を犠牲にして省みない残酷な思い、です。教会では「隣人を愛しなさい」「すべての人の僕になりなさい」と教えられます。野獣などもってのほか。だから表面上は、お上品に、麗しく振る舞うことを身につける。だけれども、この腹の底の野獣は死に絶えたり、どこかへ行ってしまいなんかはせずに、やっぱりそこに居続けるのです。だから、表面上は麗しく振る舞っていたとしても、人に意地悪したり、陰口を叩いたりして、野獣を時々宥め返し、自分を騙して生きている。そんなわたしたちじゃないでしょうか。
★聖書がわたしたちに語るのは、この野獣と闘って打ち勝ち、根絶やしにしてしまえ、ということではありません。聖書が語るのは「野獣が一緒にいたが、天使たちが仕えていた」ということ。自分をだまし、人をだまして、おもてづらだけお上品に、麗しく振る舞うのではなくて、わたしと同じように腹の底に野獣を抱えた人々と出会い、触れあって、時には、少しでも、その人を思って生きること。野獣を抱えていたとしても、掛け替えのない大切な存在なのだと、そう、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様から呼びかけられた存在なのだと思い返しながら。霊は、この神様の呼びかけをいっそう深くイエス様のいのちに、働きに刻み込むために、イエス様を荒れ野へと放り出したのではないだろうか。
by oji-church | 2017-07-13 11:00 | 牧師からのメッセ-ジ
「やさしいつながり」

〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」〉(マルコによる福音書1章11節)

★教会で子ども食堂を始めて八ヶ月になりました。最初はただ子どもを集めて、食事を提供すればそれで済むことと考えていました。けれども、一人また一人と、家庭にも学校にも居場所を持てない子どもたちが集まって来ました。送り迎えをする中で、その子どもたちが、この食堂の場を、自分たちの居場所としてどれだけ心待ちに、楽しみにしてくれているかが、ひしひし伝わってきます。居場所を持たない子どもたち、と言って、じゃあ「居場所」って何なのだろうかと考えます。
★子どもたちは、確かにご飯を食べにやって来るのだけれども、でも求めているのは実はご飯じゃない。子どもたちの様子を見ていると、飢えているのは、何よりも人との「つながり」です。それも「やさしい」つながり。じゃあ、やさしいつながりって、いったいどんなつながりか? それはもしかして、「あなたは大事な存在だよ」という声を、呼びかけを、語りかけを、受け取るつながりじゃないかと思い至ります。子どもたちは、家庭でも、親が病気だったり、忙しかったり、問題を抱えていたりして、その声を受け取ることができずに、やさしいつながりに、ひときわ飢えている。でも子どもだから、それが何なのか、よく分からないし、うまく言えないでいる。そんなふうに感じられます。
★わたしたち人間は、道具として生まれてくるのではないから、何かを求めて生きる。裸で生まれた赤ちゃんの時からずっと、何かを求めて生きている。その裸の存在に向かって、何の条件もなく、無条件に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、「あなたは大切な存在です」と語りかけられる時、はじめてわたしたちは、誰かのために生きることができるようになる、のではないでしょうか。

by oji-church | 2017-07-05 11:29 | 牧師からのメッセ-ジ