日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「宣教に境界線はありません」

★今年度の王子教会の主題に「神を愛し、人を愛する教会」という言葉を挙げました。その根っこにあるのは、教会の宣教ということを、皆でもう一度考えてみようということです。「皆で」というところが大切な点です。
★教会の宣教を考えるという時には、どこかに境界線を引っ張ってはいけないのだと思います。この人だけが考える。このことだけを考えるというのではいけない。なぜなら教会というのは、神様と出会って神様に繋がっていく場所だから。その神様は、この世界のすべてを造られた神様なのだから。わたしたち一人ひとり、すべての人間を創られている神様なのだから。
★福音書には、様々な人々の生きる姿が描かれています。この世の生活の中で、様々な苦労を負う人、挫折を経験している人、悲しみや痛みを背負う人、高慢な人、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われながら、ついていくことができない人。いずれも教会の外で生きている人々の姿です。でも福音書には、その教会の外で、イエス様と出会うことによって、新しい生き方に気付かされていく人たちの姿が描かれています。
★日曜日は教会に行って礼拝に出席する。でも他の日は神様のことも、イエス様のことも忘れて、この世のものの見方、考え方にすっかり浸って生活している。それではキリスト者である意味も、甲斐も無くなってしまいます。教会で神様と、イエス様と出会い、その神様・イエス様との出会いを携えてこの世に出て行き、そこでの様々な人との出会い・触れあいの中にまた、神様・イエス様との出会いを見出して、また教会に戻ってきて、神様に、イエス様に感謝を献げる。それがキリスト者としてのわたしたちの生き方ではないかと思います。
by oji-church | 2017-06-28 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちをわけあえば」

〈自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな〉(マルコによる福音書2章5から6節)。

★『世界がもし100人の村だったら』という本には、こう書かれています。「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。いま世界の人口はだいたい70億人です。計算すると14億人は栄養が十分じゃない。7千万人は食べるものが無くて死にそうです。でも10億人くらいの人たちは食べ物が有り余っています。
★わたしたちは結構、食べ物を食べないで捨ててしまったり、残してしまったりしていますよね。食べ物が余っている人がいるいっぽうで、食べるものが無くて、死にそうになっている人がいるのが、いまわたしたちの生きているこの世界です。
★日本でも、6人に1人の子どもが「貧困家庭」といわれます。日本の場合は、「今日食べるものがない」わけではないかもしれません。けれども、他の友だちと同じように、学用品を揃えたり、習い事をしたり、上の学校に進学したり、着るものや食べるものを選んだりすることができません。それでいじめられたり、ひとりぼっちにさせられたりしてしまう子がいます。そんな国の中にわたしたちはいま、生きています。
★そんな世界に生きているわたしたちに向かってイエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むのをやめなさない」と言われるのです。食べ物や着るものを選べない人がいる時、持っている人が、持っていない人と分け合ったとしたら、もしかして、みんなが生き生きと生きることができるようになるんじゃないか。「自分の命」「自分の体」「自分の食べ物」「自分の飲み物」「自分の服」、自分自分自分。わたしたちは結構いつも、自分のことばかり考えて生きています。だけれども、自分のことばっかり考えるのはやめないかい? そうイエス様は言っているのじゃないかと思うのです。(6月11日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2017-06-20 16:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「聖霊が語らせる言葉」

〈エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった〉(使徒言行録2章5から6節)。

★「信心深い」という言葉は、もともと「よく受けとめる」という意味。相手に対して「しっかり丁寧に心遣いをする」というような意味です。そういう人たちが集まって来て、「自分の言葉」(「自分の故郷の言葉」とありますが、もとのギリシア語の原文には「故郷」という言葉はありません)が話されているのを聞いたということです。
★「相手に対してしっかり丁寧に心遣いをする人たち」が、「自分の言葉」が話されているのを聞いたということ。いま、戦争が平和と言い換えられ、支配と監視が安全と言い換えられ、搾取が自由と言い換えられ、いろいろな言葉が正反対の意味に使われて、嘘がまん延して、現実が歪められている世の中にあってそれは、問いかけ、答えて、理解し合う。語りかけ、聞き受けて、共感する。そのようにして、現実の、いま目の前に現に生きている人と出会って共に生きる、そういう言葉本来の役目をきちんと果たす、丁寧な言葉が交わされた、ということではないかと思うのです。
★目の前に現に生きている人と出会うことが、とても難しい時代にわたしたちは生きています。だれもが人と出会うことよりも小さなスマホの画面に夢中になっています。自分だけの世界に浸ることが多くなれば、その分、現実のほうはどうでもよくなっていきます。実際の現実の方はいま、国々の指導者の得手勝手が大手を振って闊歩するようになっていて、世界は戦争へとまっしぐらに突き進んでいるように思えてなりません。そういう時代の中で、相手に丁寧に心遣いをし、互いに問いかけ答えて理解し合う。語りかけ聞き受けて共感する。そうして現にいま目の前にいる人と出会って共に生きる道筋を形作っていく。それが、聖霊、神様の霊がわたしたちに語らせる言葉なのでしょう。

by oji-church | 2017-06-14 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「ミンナオンナジ?」

★「それは当たらない」。テレビを見ていると、官房長官が、何か問題点や疑問点を指摘されるとそうと言って、それ以上の説明や釈明をまったくせずに、記者からの問いかけや批判を一切受け付けません。「当たらない」と言うのですから、「お前がはずれてる」「お前が間違っている」ということ、「悪いのはお前だ」と質問した側の記者をなじる言葉でもあります。問いかける言葉と答える言葉とがまったく出会うことも触れ合うこともないまま、空中分解して泡のように消えてしまうのです。問いかけ答えて理解しあう。語りかけ聞き受けて共感する。そういう言葉本来の働きは、どこかへ消え去ってしまったかのようです。その代わりでしょうか。ネット上には、立場や意見の異なる人に対する苛立ちや憎しみをぶちまけ、煽り立てる言葉が溢れています。
★「ミンナオンナジ」と思える人間同士の間では麗しい言葉が交わされますが、自分と立場や意見が異なる人には、言葉は、理解し合い、共感し合うという言葉本来の役目に用いられなくなってしまっているようです。「ミンナオンナジ」と思えるのは心地いいことですが、立場も境遇も意見もやることも、すべて同じ人間というのはどこにもいません。「ミンナオンナジ」は幻想に過ぎません。この幻想にしがみつこうとするとき人は、自分とは違う立場や意見の人に対して、居心地の良さを壊す者として、苛立ちや憎しみを持つようになり、やがてそれをぶちまけ、煽り立てる事になってしまうのでしょう。人間というのは元々バラバラの違う存在。でも、同時に人間というのは一人では生きられない存在でもあります。だから、お互いに違いを乗り越えて、理解し合い、共感し合って共に生きる社会を形作るために、言葉というものを編み出してきました。それはなかなか簡単ではない、忍耐も必要なことでしょう。しかし、言葉があるからこそわたしたち人間はその、簡単ではない、忍耐力の要ることも、成し遂げてくることができたのです。そういう言葉というものが持っている本来の意味・役割に、わたしたちはいまもう一度心を向けていく必要があるのではないでしょうか。
by oji-church | 2017-06-07 09:26 | 牧師からのメッセ-ジ