日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「つまずきましょう」

★「つまずく」という教会用語があります。人のクリスチャン「らしくない」振る舞いによって、信仰を持って生きる気力を奪われたという意味。元は何らか挫折を経験して、そこから先に進めなくなってしまうという意味でしょう。「つまずく」というのはあまりいい意味で使われません。けれども、この言葉が大切なこととして語られている場面もあります。パウロは、自分がこれまでのユダヤ教のように、救われるためには割礼が必要だと宣べ伝えていたとすれば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と語っています。つまり、イエス様のことを宣べ伝えるときには、必ず「つまずき」というものが伴うんだと言っています。
★イエスを宣べ伝えること、それは、この世の中の、世間一般の普通の見方、考え方をひっくり返すようなことを宣べ伝えるということです。そしてそれはこの世の中の表側の、目に見えるありようからは見えないことです。この世の中の表側の目に見えるありようだけを見て生きている時、わたしたちはどうしたって、イエス様の言葉やイエス様の生き方に、つまずかざるを得ないのです。
★「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」。「最も小さい者こそ、最も偉い者だ」。「貧しい人びとは幸いだ」。そんなのはこの世の常識とは違う。そんなことあるわけがない、と。わたしたちはつまずきます。そこでつまずいて止まってしまい、また世間の常識的なものの見方、考え方に帰っていくこともできます。でも、そんなふうに聖書の言葉につまずいた時が、チャンスでもあるのだと思うのです。「コレハドウイウコトカ? 仕えられるためではなく、仕えるために来るというのは、最も小さい者が最も偉い者だというのは、貧しい人々が幸いだというのは?」。考え始めると、ワケが分からなくなる。心が乱されて、バラバラになる。つまずき転んで、自分というものが地面に落ちた卵のように割れる経験。しかしそこが「始まり」なのです。(つづく)
by oji-church | 2017-03-30 16:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの傍らにいることこそ」

〈力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二12章9節)。

★いまわたしたちの生きる世界は、アメリカの大統領の選出によく現れているように、どの国も、どの人間も、競って我勝ちに自分の利潤、利益を追い求める世界になっています。この利潤競争に打ち勝つための「強さ」が求められる時代です。その中で、わたしたち一般の人びとは権力を持つ人たちに煽り建てられるようにして、お互いにお互いを分け隔てて対立し合い、貶め合い、憎しみをぶつけ合う様相を呈しています。そんな醜い自分自身の有様を繕うために、嘘偽りがそこら中に横行はびこっています。その傍らで、貧しい人や難民となる人びとが犠牲とされています。そのように「強いことこそいいことだ」と考えてきた末に、わたしたち人間の世界は、おそろしく醜く、また残酷な世界になっているのではないでしょうか。
★わたし自身も、自分の「能力」だとか「粘り強さ」(執念深さ?)だとか、そんな自分の「強さ」を頼りにしようとしている自分がいることに気付かされます。でもそんな自分の「強さ」が綻ぶとき、わたしもきっと醜く、残酷な姿をしているのです。
★「子ども食堂」を開いて、学校や家庭になかなか「居場所」を見出すことのできない子どもたちを迎えにいって、隣り合って歩き、肩を寄せて一緒に食事の準備をし、遊び、食べる、そんなささやかな「居場所」の中で、自分自身の「強さ」を解かれ、弱さの中からほんとうの「喜んで生きる力」が沸き上がってくる経験をします。嘘偽りで自分を取り繕う必要はまったくありません。ああ、これが「力は弱さの中で発揮される」ということなのかなあと思い至ります。「弱いことこそ、いいことだ」「弱さの傍らにいることこそ、嬉しいことだ」、掛け値無しにそう言い合える世の中を待ち望みたいと思うのです。
by oji-church | 2017-03-22 11:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「語る言葉を持たない声に耳を寄せて」

〈イエスは……一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。『わたしの名のためいこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。……あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』〉(ルカによる福音書9章47~48節)。

★イエス様は、「誰が一番偉いか」という議論に対して「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」とは言わないのです。「自分が一番偉い」「自分が一番正しい」のだから、自分の言うことを聞け、自分を受け入れろ、とは言われないのです。そうではなくて、一人の子どもの手を取ってそばに立たせて、この子を「受け入れなさい」と言われるのです。弟子たちはびっくりしたでしょう。子どもというのは当時、ただただ世話の必要な厄介者と見なされていました。「子どもの人権」などと言われるようになったのはごくごく最近のことです。そんな中、イエス様は「誰が一番偉いか」という議論に対して「この子どもを受け入れなさい」と、つまりは「この子どもの言うことを聞きなさい」と言われたのです。そして、それがイエス様を受け入れるということであり、神様を受け入れるということなんだと言ったのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。
★よくわたしたちは謙遜して「わたしなど小さな者です」なんて言ってみたりしますが、実はそれは、ここでのイエス様の言葉に照らしてみれば「エライ」ことを言っていることになります。「自分が一番偉い」と言っていることになるのですから。「わたしなど小さな者です」と「言える」ということは、実は結構自己主張している、ということでもあるわけです。
★大人たちの間に立たされた子どもは「わたしなど小さな者です」とも言えなかったでしょう。語る言葉を持っていなかったでしょう。でもそんな小さな子どものように「語る言葉」さえ持たない者、その「弱さ」「小ささ」に、じっと耳を寄せて、耳を傾け、受けとめていくことの中に、わたしたちが神様を受け入れる、神様に聞き従って生きていくという道筋があるんだ、といういことを、イエス様は弟子たちに示されたのではないでしょうか。
by oji-church | 2017-03-15 10:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛とは与えることだけど」

★昨年7月に起きた相模原の障害者施設での殺傷事件の被害者の中で、実名を公表している尾野一矢さんのご両親がニュースの中で語っておられた言葉が、深く心に残りました。家族の真ん中にいつも一矢さんがいた、とご両親は語られます。「一緒にいて不幸だと思ったことは一度もない。わたしたちに宝だ」と。そのようにして大切に、愛して、一矢さんをご両親は育てて来られました。犯人に対する憎しみがわき起こってくるのを「そればかり考えていると、犯人に負けてしまうから」と敢えて憎しみを封印して、代わりに「障害者は不幸をつくることしかできない」「障害者なんていなくなればいい」という犯人の言葉とたたかうために、顔と名前を明かして自分たちの姿を明らかにしたと言われます。そうしてお母さんが言われた言葉が深く心に残りました。「息子は今回、被害者となったが、他人を傷つけることしかできない容疑者より幸せだ」「一矢は刺されちゃったけど、刺すよりはマシかなって。私は一生懸命かわいがって、いらない子なんかじゃなかったから」。
 この言葉を聞いて、本当に「愛する」とはどんなことなのかを教えられた気がしました。「愛とは与えること」。でもそれは「愛するばっかりで何の見返りもない」わけではないんだということです。愛するということ、自分の弱さをを人にさしだし、与えていくことを、本当に本当に、大切に、丁寧に重ね、育てていくとき、そこには本当に、深い「喜び」があるのだということを教えられました。それは人を憎む気持ちとたたかって打ち勝つ強さを持った「弱さ」「愛すること」なのです。
★自分の「弱さ」など人に差し出し与えたところで何の役に立つだろう、と思われるかもしれません。でもそれこそが、真の意味で「人間」というものを造り上げていくのでしょう。「いらない子なんかじゃない」人間、宝としての人間を、です。お互いの「弱さ」をさしだし合い、「弱さ」によって出会い、繋がれながら、お互いに大切な、宝物である人間になっていく、そういう道を見出し、進んでゆきたいと願います。
by oji-church | 2017-03-08 13:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱さの中に働く神様の力」

〈わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ〉(コリントの信徒への手紙二第12章9節)

★弱さの中にこそ満たされる神様の力って、いったいどんなものなのでしょうか。それはやはり、人と人とを繋ぐ力、人と人とを出会わせ、結び合わせる力なのではないでしょうか。パウロ自身が持病やしょうがいを負っていたように、人は生きている限り誰もが心や体に傷を負っているものです。生きるということは傷を負う弱さを背負うということです。そんな自分の弱さを心に留める時、わたしたちは自分一人では生きられないと思う。誰かと繋がり、誰かと結び合わせられることによって、初めて人間というのは生きることができる存在です。しかしわたしたちは、なかなかそのように自分を見つめる眼差しを持つことができません。自分の「強さ」、自分の「力」に寄せる思いしか持っていないから。それで、自分の「弱さ」に直面すると、もうそこで絶望するしかなくなってしまいます。「弱い」自分に直面すると、もう夢を望むことができないと思ってしまう。それで「強い」人、「力を持った」人に依り頼もうとしてしまいます。
★けれどもパウロが示されたのは、「自分の」力、「自分の」強さ、あるいは自分より「強い人」の「強さ」、自分より「力ある人」の「力」ではなく、神様の「力」でした。それは「弱さの中にこそ満たされる力」。人と人とを同じく「弱さ」を背負った者として受け容れて、出会わせ、結び合わせ、互いに助け合う者同士として繋ぐ力です。この神様の力によって、わたしたちは自分自身の「弱さ」に直面し、自分自身の「弱さ」を背負いながらも、なお夢を望むことができるのだと思うのです。
by oji-church | 2017-03-01 16:43