日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「誰かが弱っているなら」

〈誰かが弱っているなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ11章29節)

★先々週から先週にかけて、神学校で日本基督教団の歴史を教える授業を受け持ちました。かつての戦時下、ひたすらに戦争勝利のための「強さ」が追い求められた時代の中で、日本のクリスチャンたちが自分たちのだけの「生き残り」のために、国家崇拝に同調し、戦争を支持し、戦意昂揚に加担していった歴史を神学生たちと一緒に学んでいます。でもそれによって、どれだけ多くの人たちが戦争に駆り立てられ、また戦争によって命を奪われたか計りしれません。戦時下の教会は自分たちだけの生き残りを図って、ある意味でそれは成し遂げられましたが、そこには戦争に駆り立てられ、戦争で命を奪われていった多くの人たち、その「誰か」に心寄せる信仰を失っていたことは否めません。
★今教会はいわゆる「教勢」の落ち込みの中でじり貧の状態であることも神学生たちに教えます。その中でやはり自分たちの「生き残り」のために「強さ」の時代に同調していくことも可能でしょう。ですが、あの戦時下の教会の有様を振り返る時、いま教会が「弱さ」の中に置かれていることの中に、むしろ神様の「恵み」らしきものが感じる気がするのです。この「強さ」の時代の中で、数多く「弱さ」の中で苦労を背負わされ、ゆく先の見えない状況に追い込まれている人たちがいます。今教会が背負わされているじり貧の「弱さ」には、もしかしたら、そんな「弱さ」を背負わされて、苦労している多くの人たち、その「誰か」を離れないように、その「誰か」の傍に居続けるように、という神様の思い、神様の呼びかけが響いているのではないかないと思うのです。
★イエス様に出会い、弱さのままに、裸の姿で、しかしなお前を向いて進んでいく。そうして、同じく弱さを背負った「誰か」と出会わされ、その「誰か」の元を離れずに、弱さゆえの苦労を分かち合い、それを通じて希望を見出していく、心を温かく燃やされていく、そんな信仰の歩みを大切にしてゆきたいと願うものです。
by oji-church | 2017-02-15 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「信仰を生きるということ」

★2月11日は国の暦では「建国記念日」です。これは日本神話で神武天皇(伝説上の天皇で歴史学的には存在しなかったとされてます)の即位の日が西暦661年旧暦1月1日(現在の暦で2月11日)とされていることによります。戦前は「紀元節」と呼ばれていました。日本基督教団の暦ではこの日は「信教の自由を守る日」となっています(1968年の教団常任常議員会決議)。
★2月に入って神学校で「日本基督教団史」を教えています。1939年に各宗教団体を国の統制下に置くための「宗教団体法」という法律が公布されます。折しも救世軍に対して「英国のスパイ」だとするバッシング・キャンペーンが各地の新聞で巻き起こります。これに恐れをなした日本のプロテスタント教会諸派は、その後雪崩を打って、国の指導に沿った「日本基督教団」という一つの教団の形成へと突き進みます。
★1941年に創られた日本基督教団は、その創立当時の規則の中に「生活綱領」という信徒の生活指針とするべき箇条を掲げています。「本教団ノ生活綱領左ノ如シ 一 皇国ノ道ニ従ヒテ信仰ニ徹シ各其分ヲ尽シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルベシ 二 誠実ニ教義ヲ奉ジ主日ヲ守リ公礼拝ニ与リ聖餐ニ倍シ教会ニ対スル義務ニ服スベシ 三 敬虔ノ修行ヲ積ミ家庭ヲ潔メ社会風教ノ改善ニ力ムベシ」。ここでは国の指導する国家崇拝と、日常の「敬虔な」信仰生活とが一つにされて、信徒が生活指針とするように薦められています。当時教会はほとんど、戦争を遂行する国家の一機関となって信徒を戦争へと駆り立てる働きを担っていたのです。その中で信仰は、ただ心の中で信じるだけのもの、具体的な生き方や社会の中には反映されないものになっていきました。
★わたしたちも、ともすると信仰というのは「心の中で信じること」と思ってしまいがちですが、しかし信仰というものは、実際の生活の中での具体的な生き方や働き方として表されないならば、口では「平和の福音」を説きながら、実際には権力や暴力を追い求める世の中の風潮に同調する「偽善」になってしまいます。「信仰を生きる」とはどういうことなのか、簡単なことではありませんが、いつも心のどこかに留めておかなければいけないことでしょう。
by oji-church | 2017-02-08 10:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「『誇り』はどこからやって来る?」(2)

★2011年の3月11日の震災後、何度か救援に行きました。今から思えば、そこでわたしがやった救援活動など、いかほどか役に立ったのか、誠に心許ないものでした。ただ、そこで奥羽教区の教会の人たちから教わったことがあります。何かといえば、とにかく体を動かすのだということ。確かに救援の働きそのものの成果はほとんど無きに等しいものだったかもしれませんが、しかしとにかく体を動かして進んでいった時、その先には必ず誰か『人』がいました。苦悩と痛みと悲しみを背負った人たちです。その人たちに対して、わたしも小さな存在に過ぎず、何も役に立つことは出来なかったけれども、少なくとも、そこに向かって身体を動かして進んでいったことで、その人の苦悩と痛みと悲しみの一端を、分かち合うことができただろうか」。そんな思いを持っています。
★人間とは小さな存在です。災害や、国々の大きな権力の横暴による戦争や、大勢の人の塊によって引き起こされる差別や抑圧や、排除や反目を前にして、一人ひとりの裸の人間は誠に弱く、卑小な存在です。だけれども神様は、そんな小さな身の丈のわたしたち一人ひとりに、裸の「わたし自身」を与えて下さいます。そうして、そういうお互いの弱く小さな「わたし自身」を出会わせ、つなぎ合わせていくとき、そこに本当の「誇り」、身の丈に合ったと言っても、実はそれ以上に誇るべきものなどあり得ない、大いなる「誇り」が訪れるのでしょう。「誇り」というものは、「オレってスゴイ」「日本ってスゴイ」と、いくら自分で自分を誉めそやしてみたところで、本当の誇りというものは生まれては来ないでしょう。「誇り」というものは、小さな身の丈の自分自身を担い、その小さくて無力な自分自身を、他の小さく無力な人に触れ合わせ、その小ささ故の弱さや痛みや苦悩や悲しみを分かち合う中から、自ずとわたしたちのもとを訪れてくるものなのでしょう。
by oji-church | 2017-02-02 15:19 | 牧師からのメッセ-ジ