日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「和解」と「嘲弄」(2)

★(承前)一人の人がすべての人に代わって人の苦しみを、人の苦労を背負う時、その大切さを理解せずに、「あんなことをしたって何にもならない」と嘲る人ばかりではない。神様は必ず、その姿に心打たれて、自分もまた、自分の安全、自分の幸福だけでなく、隣り人のために、この命を用いていく、そのようにして和解の務めを負っていくように呼びかけられていると感じ、気付かされて、立ち上がっていく人を、一人また一人と備えられる。それが教会の希望であったし、現に教会はそのように、一人また一人と、イエス様に従って、人の苦労を背負い、自分の命を隣人のために用いながら生きていく人を与えられてきました。それが教会の歴史です。
★いま、わたしたちの生きている世界は、いたるところで紛争と対立が巻き起こって、それを解決するのは武力や暴力しかないという論調が高まっています。しかし紛争や対立に対して、武力や暴力を用いることは何の解決ももたらさないことは、20世紀からの戦争の歴史を見れば明らかでしょう。本当の和解の出発点には、たとえ理解をされず、嘲られたとしても、他者のために、他者を愛して、他者の苦労を背負い、自分自身の小さな一つの命を他者に代わって用いようとする小さな一人の人の姿があるのです。神様がわたしたちに呼びかけているのは、その姿をわたしたちは嘲ることなく、その姿によって、自分のこの命にも、和解の務めが神様に呼びかけられていることに気付かされ、そして立ち上がっていくことなのでしょう。和解の出発点に立っている、他者のために生きる小さな一人の人の姿、世間的な目では、肉に従って見たとしたら見えないようなその小さな一人の人の姿を見失わずに、その人に従って与えられたこの命を大切に、また他者のために用いる歩みを歩んでゆきたいものです。
by oji-church | 2016-10-26 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
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10月19日に、王子教会を会場に第1回子ども食堂「ののはな」(プレ開催からは3回目)を開催しました。

相変わらず、どれくらい人が集まるか、気を揉む状況でしたが、蓋を開けてみれば、チラシも配っていなかったのに、参加者子ども15名、おとな20名というまずまずの成功となりました。

メニューは、タンドリーチキン、バターコーンライス、さつまいもサラダ、海藻スープ、さつまいもバナナ茶巾。

途中、ご飯が足りなく、急遽買い物に走ったりと、主催者はバタバタでしたが、北区方々や学生ボランティア助けられて、子どもたちは、ただご飯をオシマイではなくて、ゲームやおもちゃなど、ゆっくり遊ぶ時間も取れました。

「居場所」を必要としている子もいますし、通りすがり人が看板チラシを見て入ってきてもくれました。

次回、11月9日(水)16:00~20:00です。
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by oji-church | 2016-10-20 12:25 | みちばたの教会
「和解」と「嘲弄」

〈一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章14~15節)。

★北九州のバプテスト教会の牧師でホームレスの方々の支援に携わっておられる奥田知志さんという牧師さんがこんなことを仰っておられます。教会は「嘲弄教会」で行こうじゃないか、と。人から「教会は自分のためでなくて人のために、とか言ってホームレスを支援したりしてバカだね。あんなことやったって何にもならないのに。教会自体がつぶれそうなのに、人のためになんて、本当にバカだね」と、嘲られる教会であることを覚悟して、嘲られる教会であることに甘んじていこうじゃないかと。イエス様ご自身、十字架の上で「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲られたのだから。
★実際、そんな「自分のためでなく、人のために」なんてことをしたところで、何にもならないかもしれない。けれども、一人の人がすべての人に代わって人の苦しみ、人の苦労を背負う時、たとえ人からは理解されなかったとしても、実は見えないところで何かが変わっているんだ、神様との間にもう一度、出会いとつながりが回復されるんだ、なぜなら、わたしたちは一人ひとり違いと個性を持った個人として大切にされ、愛されると同時に、もともと、目に見えない「命のつながり」の中で生きているのだから。これが聖書が語る「和解の福音」というものです。(つづく)
by oji-church | 2016-10-18 18:06 | 牧師からのメッセ-ジ
信頼する関係へと招く神

〈目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第5章7~8節)。

★人間が、人間として、本当に人間らしく生きていくために是非とも必要なものは、もしかしたら「信頼する関係」ではないでしょうか。それは目に見えるものではありません。ただ生き物として生きるだけなら、目に見えて手に取れる食べるものさえあれば、生きていけるでしょう。けれども、人間として人間らしく、ということはつまり、掛け替えのない存在として、わたしらしく、あなたがあなたらしく生きることができるためには、やはり目に見えない「信頼する関係」が是非とも必要なのです。そして、聖書が最初から最後まで、繰り返しわたしたちに呼びかけているのは、「信じなさい」ということです。
★目には見えない。手に触れることもできない。目に見える証拠もしるしもない、でも、確かな住みか、永遠の命が天国には備えられている。そう聖書は語って「信じなさい」と呼びかけて、わたしたちが人間らしく、自分らしく、掛け替えのない尊い存在として生きることができる者としようとしている神様、イエス様がおられることを示します。そのようにわたしたちを信じて呼びかける神様のまなざしから、つまりは天国からみた眼差しから、もう一度、自分自身の生き様を振り返って、自分に与えられたこの一生涯をかけて、神様、イエス様との間に、また、日々出会う一人ひとりの隣り人との間に、信頼し合い、呼び応える関係を形作っていくのが、いまここで、永遠の命は見えない中で、体を負って生きているわたしたちに求められているつとめなのでしょう。
by oji-church | 2016-10-12 16:50 | 牧師からのメッセ-ジ
見えないいのちの部分に

〈わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。……だから、わたしたち落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ第4章7~16節)。
★パウロは言います。人間というのは、脆く弱い「土の器」だけれども、その土の器の中に、人間は神様から、宝物を与えられているのだ、と。その宝物って何かと言えば、「神様の霊」だということです。神様の霊というのは、神様の命の息吹であり、また、わたしたちはただ独りぼっちで生きているのではなくて、神様から命を与えられて、神様から愛され、どこまでも大事にされて生きているのだということを知らせてくれる、目には見えない力のこと。そういう、喜ばしい、輝かしい宝物をわたしたちは、この弱く脆い命の中に与えられているんだ、ということです。
★わたしたちはこの世の中の流れの中で、目に見えるところだけで物事を判断し、価値付けすることに馴らされてしまっていて、このわたしたち一人ひとりの命の奥底に与えられている宝物に気づき、目を注ぐことを忘れてしまって生きています。
★歳を重ねて弱り、衰えていく姿を、ただただ死の暗い陰の中に降りていく惨めなものとしか感じられなくなっています。だけれども、わたしたちの命にとって、目に見える部分というのは実はほんのわずかなところなのではないでしょうか。いのちの奥底には、誰しもが、わたしたちの一生分以上の計り知れない大きなものが秘められているのではないか、ということを、聖書を読む中で感じさせられるのです。
by oji-church | 2016-10-06 09:50 | 牧師からのメッセ-ジ