日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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子どもがつくった傑作パンケーキ

by oji-church | 2016-09-28 15:08 | みちばたの教会
覆いの掛かった世界で(2)

★(承前)まさにわたしたちは「福音に覆いが掛かっている」社会の中に生きているのではないかと思うのです。パウロは、そのようにわたしたちの社会が「福音に覆いが掛かっている」社会となっているのは、「この世の神が、信じようとしない人々の心の目をくらまし」ているからだと言います。「この世の神」って、一体どんな神でしょうか。それは、お金の力に依り頼もうとしたり、武力、武器の力に依り頼もうとしたり、そのように人間の創り出す力に依り頼もうとするわたしたちの心が創り出す、「偽物の神様」なのかもしれません。お金の力や、武器の力に依り頼んで、それを神様のように崇めようとするわたしたちの心が、わたしたちの目をくらましているんだ、と言うのです。
★聖書の一番最初には、このように書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」。
★聖書には、神様自らが造られた命あるものに向かって、「見よ、それは極めて良かった」と喜びの叫びを挙げる場面が語られています わたしたちは今も、厳しい「闇」に向かってうち沈んでくような世の中に生きていますが、そのように闇のような世の中に生きているわたしたち自身のこの命には、神様から「見よ、それは極めて良かった」と呼びかけられているという光が、隠されているのだということを、改めて心に刻みたいと思うのです。そうして、わたしたち一人ひとりの、凸凹していて、失敗や惨めな経験やらを積み重ねているこのわたしたちのいのちが、覆いを取り除かれて、再び輝くように、神様は今も「闇から光が輝き出よ」と呼びかけておられる。その神様の呼び声に耳を傾けて、与えられたお互いの命を、恥ずかしいなどと思って隠してしまうことをせず、神様から与えられた何よりも輝かしいものとして大切にし、愚直に生きていくその務めを果たしてゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2016-09-28 14:56 | 牧師からのメッセ-ジ
覆いの掛かった世界で(1)

〈わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは滅びの道をたどる人びとに対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです〉(コリントの信徒への手紙Ⅱ4章3~4節)
★相模原で、19人のしょうがいを持つ人たちがいのちを奪われる事件がありました。容疑者は「障害者は生きていても意味がない」ということを語っていると言われます。それが間違った考えであることは無論言うに及ばないことです。テレビでこのことが報道される時も、解説する人は繰り返しこれは間違った考え方だと言います。
★だけれども果たして、わたしたちの暮らしているこの世界、この社会は、その「間違った考え方」ではなく、「正しい考え方」に従って、本気になって「正しい世界」「正しい社会」を形作ってきているのだろうか、と思うのです。不景気が深まっていく時代の中で、貧しい人の命が守られることよりも、企業が儲けを生む経済政策が優先されて、誰もがそのことに期待を掛ける社会の中に、わたしたちは生きています。沖縄に米軍基地を集中させて、日本を守るためには沖縄に暮らす人が負担を負うのは仕方のないことだと、そのことが正当化される社会の中にわたしたちは生きています。それはやはり命の価値に、優劣を付けていることではないのか、と思うのです。
★社会全体が命の価値に優劣を付けて、そのことをみんながよしとする、そのような社会の中に、わたしたちは生きているのではないか。その大きな社会の流れの中で、あのような事件が起こってしまったのではないかと思うのです。「障害者は生きていても意味がない」と言うあの事件の容疑者の「間違った考え方」を、あの容疑者一人の問題とすることはできないように思うのです。
by oji-church | 2016-09-21 12:19 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうの自由(4)

★(承前)力によって一人ひとりの人間の自由を「威張り散らし」と「こびへつらい」に縛り付ける序列。戦前の大日本帝国憲法が第一条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」で始まっていたことはそのような人間の序列づける社会の在り方を如実に表しています。
★その古い憲法が廃止されて70年が経ちますが、いまマスコミやメディアが政府の顔色を窺って、政府に都合のよくないことを報道しなくなれば、同じような人間の序列に基づく不自由な社会に再び舞い戻ってしまうことになります。いまの世の中がそのようになりつつあるのではないかと危惧しているのです。
★神様は、一人ひとりの命を、掛け替えのないものとして、それぞれ個性を持った個人として、「見よ、それは極めて良かった」という喜びの声によって祝福し、造り上げられました。それは、誰にもこびへつらったり、威張り散らす必要のない自由ないのちです。この自由な命を、国が損なおうとする時には、人間の力に依り頼んだり、従うのではなく神様に従わなければならないのだ、ということを聖書はわたしたちに告げているのです。
★一人ひとりがそれぞれに違っていていいという自由は、わたしたちが人間らしく、わたしたちらしく生き生きと生きていくため、つまり平和のために、是非とも必要なものです。この自由が脅かされる時、わたしたちは、人間に従うよりも、神様に従わなければなりません。一人ひとりの違いを持った命に向かって、「見よ、それは極めてよかった」という喜びの声を祝福として送って、一人ひとりの命を造り上げられた神様にしたがわなければなりません。それがわたしたちキリスト者の務めであり、キリスト者が世の人のために与えられている、大切な自由なのだと思うのです。
by oji-church | 2016-09-14 11:50 | 牧師からのメッセ-ジ

創立123年記念礼拝愛餐会

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8月28日、王子教会創立123年記念礼拝を行いました。
礼拝後は、そうめんで愛餐会。様々な具や薬味を持ち寄って、盛大な“そうめん会”となりました。
by oji-church | 2016-09-07 10:12 | 全体のお知らせ
ほんとうの自由(3)

★(承前) 敗戦によって戦争が終わり、戦前の大日本帝国憲法は廃止され、新たに国民主権・民主主義・平和主義の日本国憲法が制定されました。日本人の多くはそのことを喜んだはずでした。ところがその憲法を今、「みっともない憲法」と呼ぶ政治家がいます。恐らくその人は、日本国憲法九条に規定された交戦権の否認、つまり戦争放棄の規定が「みっともない」と思うのでしょう。またそれだけでなく、同じ憲法の第13条に「すべて国民は、個人として尊重される」と規定された「個人の尊重」、それに基づく「思想・良心の自由」や「信教の自由」「表現の自由」などが、国の意向にかかわらず、一切を保障されている点もやはり「みっともない」と感じるのかもしれません。つまり、国の力が弱く定められていることが、恐らくは気に入らないのでしょう。
★でも、人間の強い力に依り頼むことは、必ずその強い力で押さえつけられ、押しつぶされてしまう人を生み出します。今の沖縄や福島の人々はまさにそのように、強い力を追い求める国によって押しつぶされようとしている人々でしょう。しかし人は人間の力の強さを追い求めます。誰か、一番強い人間を押し立てて、いわばその「おこぼれ」に与ることで、自分も権力を振るうことができます。だから、自分ではなくても、誰か他の人間の強さ、あるいは武力の強さを追い求めるのです。こうして、自分より強い力にはこびへつらい、自分より弱い者には威張り散らす、そのような人間の序列が出来上がることになります。その中のどこかに身を置いていれば、人は誰かに対しては、こびへつらわなければなりませんが、その一方で誰かに対しては威張り散らすことができる、少なくとも、優越感を持つことができるので、心地いいのです。(つづく)
by oji-church | 2016-09-07 10:06 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうの自由(2)

★(承前)国家神道が国の全体を覆っている社会に生きている人間は、あのローマ帝国と同様に、実は見えないところで自分の「底」に他人の手を入れさせていたのです。やがて、日清・日露、第一次大戦と戦争が深まっていき、日本が次々と植民地を手に入れようと、戦いを広げていった時、自分の「底」に他人の手を入れることを許した日本人は、だんだんと自由を失い、有無を言わせずに次々と戦争に狩り出されていくことになりました。自分たちは自由だと思っていたのは、完全に幻想でした。でも恐らく、多くの人たちは、あの戦争が終わるまで、自分たちの自由が完全に人の手に奪われているとは思っていなかったのではないかと思うのです。それほどまでに、自分自身の「底」に他人の手を入れられて、自分を担ぎ上げられて、頭の先まで、自分というものが他人のものになってしまっていたのです。(つづく)
by oji-church | 2016-09-01 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ