日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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イエスが書いた手紙

〈あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として、公にされています〉(コリントの信徒への手紙二第3章2節)。

★福音書に描かれたイエス様は一文字も文章を書いていません。一つだけ、ヨハネによる福音書の中で、姦淫の罪を犯したと言われる女性がイエス様の前に連れてこられて、律法学者やファリサイ派の人々が「こういう女は石で打ち殺せと律法の掟には書かれているけれども、あなたはどう考えるのか」と詰め寄った時に、イエス様はしゃがみこんで、指で地面に何か書き始められます。そうして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われます。けれども人々は誰も石を投げることができず、最後にイエス様もまた立ち上がって、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたと。そこでイエス様が指で地面に何を書いていたのかについては、何も語られていません。イエス様が文字で何を書かれたか、ではなく、イエス様がどのように生きられたか。そのことのほうがよほど大事だと言うかのように、です。
★わたしたちは、そんなイエス様が書いた手紙なのだとパウロは言います。一文字も書かれなかったイエス様、ただ人の痛みや苦しみや寂しさに心寄せ身を寄せて懸命に、精一杯生きたイエス様、そのイエス様が書いた手紙がわたしたち自身なのだと言うのです。そうならば、わたしたちもまた、資格証明書だとか推薦状だとか規則だとか、そんな紙に書かれた文字によって人を判断するのではなく、自分自身が日々、どのように生きているかということを何よりも大事にするべきではないかとパウロは問いかけているのです。人の痛み、苦しみ、悲しみ、寂しさに心寄せ、身を寄せて生きられたイエス様のその文字に表されないメッセージ、呼びかけが、イエス様の書いた手紙となって、資格も何も持たないわたしたち自身の生身のありのままの心に今も響いており、わたしたち自身の生身のありのままのこの体に生きているかどうかということの方が、よほど大事な事柄なのです。
by oji-church | 2016-07-27 08:55 | 牧師からのメッセ-ジ
それはどんな「香り」か?

〈神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。〉(コリントの信徒への手紙二第2章14節)。

★ここで「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせる」と言われているのは、どうやら凱旋行進に勝軍の兵としてではなく、敗れた側の捕虜として繋がれた姿で神はわたしたちを行進に連ならせるという意味ではないかと思われます。すると「キリストを知るという知識の香り」というのは、あまり「いい香り」ではないように思われてきます。しかしこの「神様の捕虜」としての行進の中には、イエス様も共に連なっていることが含意されてもいるように思われるのです。逮捕され、茨の冠をかぶせられ、叩かれ、唾を吐きかけられ、十字架に掛けられるために引かれていくイエス様の姿がそこに重ねられているのではないかと思うのです。
★『讃美歌21』の364番の4節はこんな歌詞です。「大いなる命の主、人の目には見えねど、神の国はここにあり」。「香り」は目には見えません。けれども「香り」は大事なことをいろいろとわたしたちに思い起こさせてくれます。364番にはこのように歌われています。「強き主、母のごと、すべてのものを支え、昼も夜もはぐくむ主、いざホサナわが母。やさしき父のごと、その慈しみ絶えず、病む者らを抱きたもう、いざ、ホサナ、わが父。年老い、弱れども、静かな配慮に満ち、知恵と理解、限りなし、いざホサナ、老いし主。若さにかがやく主、正義を叫び求め、われを忘れ、戦う主、いざ、ホサナ、若き主」。ここで母として、父として、老人として、そして若者として語られる主、イエス様の姿は、思い描いてみればどれも、香水のようにいい匂いのするイエス様ではないように思われます。どちらかと言えば、汗の匂いがしてくるようでもあります。しかしそのイエス様の汗の匂いこそが、神に献げられる良い香りなのでしょう。
by oji-church | 2016-07-20 09:17 | 牧師からのメッセ-ジ
「痛み」の向こうの「ゆるし」へ

〈彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた〉(イザヤ書53章5節)。

★最近テレビを点けると、芸能人や有名人の不倫や不祥事が次々と取り上げられて、それを追いかけ回し、騒ぎ立てる様子に出くわして、うんざりしてテレビを消すことが続いています。それは確かに問題ある振る舞いではあるでしょう。けれども、それを追いかけ回し騒ぎ立て断罪する声は、いずれも他人事なのです。その問題ある振る舞いをわがこととして受けとめて、自分自身も背負っている人間としての「悲しみ」として受けとめようという人は一人もいません。そうして、しばらくしてまた別の目立った事件が起これば、すぐに忘れ去られてしまいます。
★人の問題ある振る舞いを、しばらくして忘れ去り、それで問題としなくなる。それを「ゆるし」と呼ぶのなら、それは恐らく本当の「ゆるし」ではないでしょう。本当の「ゆるし」とは恐らく、人の問題ある振る舞いを、自分自身の「痛み」として受けとめて、そしてその「痛み」が自分自身も人間として生きる中で背負っている「悲しみ」に結晶する時、そのとき初めて本当の「ゆるし」というものがわたしたちにもとを訪れるのでしょう。
★イエス様は人の問題ある振る舞いに対して、それを他人事とはされない。それを自分自身の傷、痛み、悲しみとして受けとめて、それを自分自身のこととして担うことを通じて、本当の「ゆるし」を導き出されるのです。ゆるしというのは、痛みの向こうにあるものなのだということ。この「痛み」「悲しみ」ということを見ない「ゆるし」は、かえって人間同士をバラバラの他人事、、他人同士に遠ざけてしまうことでしょう。
by oji-church | 2016-07-12 11:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「悲しみ」を「喜び」へ

〈わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした〉(コリントの信徒への手紙2第2章4節)。

★この世に生きて、人と関わり触れ合って生きる時、時にわたしたちは人との対立を経験しなければなりません。人と対立してわたしたちの心には怒りの火が灯ります。その怒りにまかせて、相手を打ちのめすことができれば、それなりに気分は晴れるかもしれません。けれどもそれは、神様がこの世を造られ、命を造られた目的にかなったことだろうか。神様はわたしたちの怒りを満足させるためにこの世を造られたのか、命を造られたのか。そうではない、神様は命が創られたとき、「見よ、それは極めて良かった」という喜びを声を挙げられました。わたしたちの命は、お互いにお互いが生きていることを喜び合うことへと向かうように造られたのでしょう。そのようにして造られたこの世界にあって、人間同士、わたしたちが誰かと対立し合うことは、怒るべきことではなく、むしろわたしたちにとって「悲しみ」であり、「苦痛」なのだ、ということです。
★「見よ、それは極めて良かった」という神様の喜びの声と共に始まったこの世界において、人間同士が対立し合うこの「悲しみ」「苦痛」は、必ずもう一度、「喜び」へと回復されるものでなければならないし、必ずもう一度、「喜び」へと回復されるはずなのだ、ということ。パウロは、コリントの教会の人々に向かって、そのことをいつも心に留めていてほしい、と呼びかけているのではないかと思うのです。
by oji-church | 2016-07-06 10:10 | 牧師からのメッセ-ジ