日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「神の国=小さなものの国」(2)

★わたしたちの世の中とは逆さまの「神様の国」って、いったいどんな場所なのでしょう。『花さき山」という絵本があります。“あや”という女の子が山で道に迷って“山ンば”に出会います。そこはいちめんに美しい花の咲く野原でした。花は、ふもとの村の人が、やさしいことを一つすると一つ咲く花です。山ンばは言います。「つらいのを しんぼうして、じぶんのことより ひとのことを おもって なみだを いっぱい ためて しんぼうすると、 その やさしさと、けなげさが、こうして 花になって、さきだすのだ」。でも村にもどってあやが大人にこのことを話しても、大人は馬鹿にして信じてくれません。あやは“花さき山”をさがして、もう一度山に登ってみましたが、見つかりませんでした。でもあやは、その後、ときどき思うのです。「あっ! いま 花さき山で おらの 花が さいてるな」。
★イエス様の言われる「神様の国」というのは、もしかしたら、この花さき山のような場所かもしれないと思うのです。人が小さなもののことを大事に思うとき、花が一つ咲く花さき山です。それは目には見えないのだけれども、小さい人たちの心の中にあって、いつも小さい人たちのそばにある場所、そこで神様が一人ひとり、小さい人たちを大事に思いながら、花を一つひとつ咲かせている場所です。
★今日は、子どもの祝福とをします。それは、大人が、小さい人たちから「神様の国は、この小さい人のそばにあるのだよ」ということを、もう一度教わるということです。今日は、小さい人たちが、僕らおとなの先生です。世の中とは逆さまかもしれませんが、この世の中とは逆さまなのが「神様の国」ですから。(6月12日「花の日」礼拝説教より)
by oji-church | 2016-06-29 12:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「神の国=小さなものの国」

〈はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない〉(マルコによる福音書10章15節)

★イエス様がいるところに、小さな子どもたちを連れてきた人たちがいました。でも、イエス様のお弟子さんたちは、「イエス様は偉い人なんだから、そんな小さな子どもの相手なんかしてられないんだ、子どもと遊んでなんかいられないんだ、あっちえ行け」と言って、子どもたちを連れてきた人たちを叱ったのです。ところがイエス様は、そんなふうに言うお弟子さんたちを叱って、子どもたちを呼び寄せて、抱き上げて、こう言いました。「子どもたちに『あっちへ行け』なんて言ってはいけない。神の国は、このような小さな人たちのものなんだ。このような小さな人たちを大事にしない人は、神の国にはとうてい入ることなんて出来ないんだ」と、言いました。
★「神の国は、小さな人たちのもの」。「小さな人たちを大事にしない人は、神の国には入れない」。そういうふうにイエス様は言われます。世の中では、強い人や偉い人がこの世の中を自分たちのもののように動かしています。偉い人や強い人しか入れない場所もたくさんあります。国会の中とか、VIPルームとか。でも、神様の国ではまったく反対で、神様の国は小さい人のもので、小さい人を大事にする人しか神様の国には入れないと言うのです。イエス様はよく、こういうふうに世の中とは逆さまのことを言います。(6月12日「花の日」礼拝説教より。つづく)
by oji-church | 2016-06-22 12:09 | 牧師からのメッセ-ジ
 「わたしの軛(くびき)」(2)

★(承前)誰かが苦労や悩みを背負っている時、その人のもとにはイエス様の「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という慰めの呼びかけが響いています。しかし、そのイエス様の呼びかけは、悩み苦しみを負っているその人だけに呼びかけられているのではないのです。苦労や悩みを負っている人の傍らにいるわたしたちにも、イエス様の呼びかけは響いているのです。「わたしの軛を負い、わたしに従いなさい」というイエス様の呼びかけが、です。
★わたしたちの傍らに、苦労や悩みを負っている人がいる時、わたしたちはその人の苦労や悩みを共にしなさいと、イエス様から呼びかけられているのです。そのイエス様の呼びかけに応えて、わたしたちが傍らにいる人の苦労や悩みを共にする時、わたしたちは共にイエス様によって呼びかけられる者、共にイエス様によって、「疲れた者、重荷を負う者は、わたしの元に来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけられる慰めを受ける者となるのです。
★イエス様の慰めというのは、わたしたちの苦労や悩みと別な場所にあるのではありません。わたしたちは苦労や悩みの中でこそ、イエス様によって「わたしのもとに来なさい」と呼びかけられ、語りかけられ、「わたしと共に軛を負う者」として愛おしみを注がれている、そのように慰めを受けているのでしょう。そしてまた、わたしたちが誰かの苦労や悩みを共に分かち合う時、わたしたちは共にイエス様に結ばれて軛を負う者として、イエス様の慰めの呼びかけを受ける者とされます。
★苦労を共にすることは、慰めを共にすること、イエス様の呼びかけを一緒に受ける者とされること。どうか、この福音を受けとめて、隣り人の苦労を分かち合うことを通じて、宣教の働きを担ってゆきたいと願います。。
by oji-church | 2016-06-15 15:01 | 牧師からのメッセ-ジ
 「わたしの軛(くびき)」

〈疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。〉(マタイによる福音書11章28~29節)

★ここで言われている「軛」とは、農耕に使われる牛に付ける軛だそうです。それは、一本の棒を二頭の牛の首のところに掛けて、二頭の牛が並んで鋤を引くためのものです。ですからイエス様が「わたしの軛を負いなさい」と言われるのは、イエス様と並んで、一つの軛に結ばれて、共に歩むということです。
★わたしたちが苦労や悩みを背負う時、わたしたちはこの一つの軛によってイエス様と共に結ばれて、共に歩んでおり、そこには「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス様の呼びかけが響いているのだということです。(つづく)
by oji-church | 2016-06-08 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ
「沖縄の怒り」

★沖縄での元米軍兵士による女性殺害事件に関わって、テレビの報道では繰り返し「沖縄の怒り」と言われますが、「日本人の怒り」とは語られません。報道は「沖縄の怒り」と語ったそのすぐ後に、政治日程の話を始めます(ある閣僚は「最悪のタイミング」などと語ったと言われています。他に何か「よいタイミング」があったのでしょうか)。恐らくそこには「日本人の怒り」は無いのでしょう。
★在日米軍の74%が日本の国土の0.6%の沖縄に寄せ集められている現状は語られますが、それに対して日本人は何も行動を起こさずに来ました。そして状況は何も変わらない中、またあのような事件が置きました。「沖縄の怒り」がそのような「日本人」、つまりわたしたち自身にこそ向けられていること(報道が語らないこと)にわたしたちは気づく必要があります。他者を犠牲にしている自分自身の姿に。自分の利便のために他者を犠牲にして省みない在り方は、人間の在り方として最悪です。そこには人間を「同じ人間」として見ることをやめてしまう、人間性の崩壊があります。
by oji-church | 2016-06-01 11:58 | 牧師からのメッセ-ジ