日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「聞く」力としての聖霊

〈一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉(違う言葉―私訳)で話しだした〉(使徒言行録2章4節)

★牧師のくせに喋るのが苦手です。とっさに喋る自分の言葉に自信がありません。人前で喋らなければならないときには、苦労して原稿を用意します。牧師さんにはおしゃべり上手な人が多いように思いますが、その中でわたしは喋るのはどうも上手でないと思わざるを得ません。そうはいっても思い返すと、案外いろんな場面で結構好き勝手喋っている自分がいます。後になってそんな自分にとても嫌気がさすのですが。
★喋ることが得意な人も苦手な人も、実は誰もがいろいろなところで言いたいことを言っている。そのときわたしたちが話しているのは恐らく、自分を真ん中に据えたその時々の自分の「気分」のようなもの、気分がいいか悪いか。もちろん、自分の気分を語る時があっても一向に差し支えない。だけれども、聖霊がわたしたちに語らせるのは、普段わたしたちが喋る言葉とは「違う言葉」だと言うのです。
★それはどんな言葉か。それは自分を真ん中に据えたのではない言葉、です。自分を真ん中に据えない時、わたしたちがまずすることは、自分以外の人の発する声に耳を凝らして「聞く」ことです。聖霊というのは、わたしたちが言葉を語ることが出来るようにさせる力なのだけれども、でも実は、その根本にあって一番大切なことは、「語る」こととは裏腹の「聞く」ことではないかと思うのです。
★神様はわたしたちに聖霊を送り、声なき人の声、物言わぬ人の悲しみに、謙虚に、静かに、注意深く耳を凝らし、耳をそばだて、耳を傾けて、「聞く」力を、わたしたちに授けて下さいました。そうして、自分を真ん中に据えるのはなくて、物言えぬ人、声なき人に代わって、その物言えぬ悲しみ、声なき悲しみを受けとめて、それをわたしたちの口と声とで言葉に紡ぎ出す力を与えて下さったのです。
by oji-church | 2016-05-28 10:23 | 牧師からのメッセ-ジ
くるあさごとに

★讃美歌に「来る朝ごとに」という歌がありますが、岸田衿子さんという詩人の詩にも同じく「くるあさごとに」という詩があります。「くるあさごとに/くるくるしごと/くるまはぐるま/くるわばくるえ」。来る朝ごとに、くるくる生きているわたしたちですが、時に「くるわばくるえ」と言って、この“くるくる”から一歩退いて、自分自身を見返すことをしなければ、本当に大切なものを見失って、まさにただ歯車の一つにようになって、ただただ時代の流れに流されて動いていくだけの者になってしまうのかもしれません。ときにわたしたちには、この歯車を狂わせることが必要なのだと思うのです。
★イエス様が人々のただ中に現れておこなったのは、ある意味で、社会の歯車を狂わせることでした。人間みんなが目の前に見えることだけを追い求める中で、隙間のない歯車のように組み合わせられていきます。やがて、人間は神様から祝福されたいのちを与えられて生きている存在だということが忘れられて、歯車として噛み合わずに役に立たない人間は、壊れた道具のようにうち捨てられてしまいます。歯車が狂うと、隙間が生まれます。その隙間から、わたしたちにとって本当に大切なものは何かということが見えてくるのです。わたしたちは命を与えられて生きている者だ、ということ、どの人間も、愛されて、命を与えられ、その命に注がれる愛おしみは、人がいのちを終えてもなお続くものなのだということ。
★歯車の間に隙間を作りなさい、というのがイエス様が人々に呼びかけたことでした。そのために、わたしたちは「くるしゅう(週)ごとに」集まり、礼拝をやっているのではないでしょうか。それを忘れると、礼拝もおそらくはいつのまにかぎっちりと噛み合わせられた歯車の一つとなってしまうでしょう。神様を賛美し、祈りを合わせ、聖書の言葉に耳を傾けるこの時を、イエス様が作りだした歯車の隙間から響いてくる、わたしたちにとって本当に大切な声と言葉を受けとめる時として、大事にしていきたいと思うのです。
by oji-church | 2016-05-18 11:31 | 牧師からのメッセ-ジ
二階建ての信仰

★クリスチャンで経済学者であられた隅谷三喜男先生は、日本のキリスト教は「二階建て」になっているのではないかと指摘しておられます。日本の牧師や熱心な信徒は一生懸命、欧米から伝えられた神学を勉強しています。その一方で日常の生活を送っているわけですが、この日常の生活においては、勉強した神学とはまったく関係のない生活を営んでいる。それは、キリスト教の「教え」に従うというよりも、日本的な現世主義の幸福志向、この世での無病息災、商売繁盛のようなことを願い求めることが、キリスト教の信仰のようになっていると言うのです。つまり、神学の勉強は家の二階の部屋でやっており、一階では日本的な価値観、生活観、人生観、世界観そのままの生活を送っている。そしてこの一階と二階を繋ぐ階段がない、と言うのです。
★この信仰と生活の関係という問題は、日本でキリスト教は始まってから今に至るまで、ずっと大きな問題であり続けていると思います。日本の社会は、戦前に作られた天皇を中心とした国作りとその価値観が現在も空気のように息づいています。それとは違うキリスト教の考え方に従って日常生活を生きていくというのは簡単なことではありません。日本社会一般の価値観に馴染んで生活をしていったほうが楽なのです。神学の勉強は一生懸命します。しかしそれが日常の生活と結びつかない。すると結局、日本社会一般から見れば、キリスト教というのは、どこか人と違ったことを言っているようだけれども、実際には普通の日本人と何にも変わらない。取り立てて見るべきところもない、ということになってしまいます。
★日本にはキリスト教が根付きにくい環境があることは確かなのですが、それと同時に、キリスト教の方でも、その環境に怯んでしまい、萎縮して過度に日本の社会の価値観に馴染んでしまうことで、なおさらキリスト教が根付かなくなってしまうという面があるのではないかと思うのです。
by oji-church | 2016-05-11 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
命の尊厳を願う

〈イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。……イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った〉(マルコによる福音書10章36~51節)

★願い事をするという点では、二人の弟子たちと盲人バルティマイの間に違いはありません。でも一方に対してイエス様は「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」とたしなめ、他方に対しては「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って励まし、祝福します。いったい何が違うのか。
★わたしたちはみんな、命を与えられてここに生きています。それは限りある命で、この世界全体から見れば、一つ一つは小さな命に過ぎませんが、しかし、一つひとつの命には尊さ、尊厳が与えられています。イエス様が「空の鳥を見なさい。あなたがたは鳥よりも価値があるものではないか。野の花を見なさい。あなたがたはなおさらではないか」と言われたようにです。けれどもわたしたち人間は時に、この命一つに与えられた尊厳以上のものを求めようとします。それは、権力、財力、社会的地位、軍事力等々。弟子たちが求めたのは、そのような人間の命一つひとつに与えられた尊厳以上のものでした。
★一方、バルティマイが求めたのは、自分の命に与えられているはずの尊さそのものでした。目が見えないことによって、人間以下のもののように貶められ、道端に放り出されていたバルティマイは、自分の命一つの尊厳を求めて、たとえ叱られ遠ざけられようとしても、声を挙げ続け、叫び続けた。頑張ったのです。それに応えてイエス様は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて彼を励まし、祝福して、彼の命の尊さ、尊厳を救い出したのでした。
by oji-church | 2016-05-04 15:45 | 牧師からのメッセ-ジ
「みんなの力」をどう出し合うか

★都会の問題はやはり、人と人との「心の距離」があまりにも遠いということではないかと思います。そこら中にコンビニ、スーパーがあり、ネット通販を利用すれば、家の外に出かけなくても、翌日には、早ければその日のうちにも、家に居ながらにして欲しいものを手に入れることができます。当然、その間、誰とも触れ合いませんし、言葉を交わすこともありません。そこには、人に煩わされずに自分にいいように生活できる気安さがあるのかもしれません。都会というところは、そういう気安さを求める人たちが集まる場所になっています。
★同時に近年、個人のプライバシー、個人情報の保護ということも厳しく言われるようになりました。牧師として病院にお見舞いに行ったところ、家族ではないからと、病室を教えてもらえなかったり、転院先の病院を教えてもらえなかったりして、困ったことがありました。プライバシー、個人情報の保護という見方からすると、一人ひとりの個人が人と繋がらずにバラバラに生きていることは、あたかも「よいこと」であるかのように見なされることになります。
★個人がバラバラに生きていくことが「よいこと」と見なされる社会の中で、病いやしょうがいを負った人、貧しさの中にある人、そうした弱い立場に置かれて、一人では立ち上がることが難しい状況に陥った人は、助け手を見つけることできずに、ますます厳しい状況に追い込まれることになります。個人が個人として大切に守られるということはとても大事なことです。でも、一人だけでは、個人を守ることができません。もともと民主主義というのは、個人を個人として守るために、「みんなの力」をどう出し合うのか、ということを考えに考えた末に編み出された仕組みです。個人個人のその人らしさを守るために、「みんなの力」をどう出し合うかということを、国や人任せにせずに、自分自身の事柄としてもう一度考え直してみるべきところに、いま、わたしたちは置かれているのではないかと思うのです。
by oji-church | 2016-05-04 15:43 | 牧師からのメッセ-ジ