日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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人間らしい生き方へと招かれる

★ヘイトスピーチの問題について取り組むために、「人種差別撤廃法」を成立させようと呼びかける集まりが参議院議員会館で行われました。そこで、朝鮮学校に通う子どもたちへの聞き取り調査の結果が発表されました。その中の問いに対する子どもたちの答えに、ハッとさせられました。「ヘイトスピーチのデモに参加する人たちをどう思うか」という問いに対して、朝鮮学校に通う子どもたちの38.7%が、「許せない、絶対に理解しあえない」と答えたとのことでした。でも、こういう選択肢もありました。「許せないけど、同じ社会に生きる人間だから、いつか分かり合える」。この答えを朝鮮学校に通う子どもたちのどれだけが選んだか。39.6%。わずかではありますが、「絶対に許せない」と答えた子どもよりも、「同じ社会に生きる人間だから、いつか分かり合える」と答えた子どものほうが多いのです。そして、「絶対に許せない」という答えに丸をつけた子どもたちの幾人かは、「絶対に分かり合えない」と「いつか分かり合える」の二つに丸を付けたということです。そうして、「あなたは共生社会を創るために、何がしたいですか? 自分がすべきことまたはしたいことを自由に書いてください」という問いに対して、多くの子どもたちが、ヘイトスピーチのデモに参加している人たちと「交流をしたい」と答えたと言うのです。そうすることで、自分たちに向かって「死ね」「殺せ」と叫ぶ人たちが気持ちを変えてほしいと願っているのです。
★差別の事柄に向き合う時、大切なことは、、差別をしたり、その痛みに気づかないわたしたちは、差別の痛みを訴える人からただ断罪されているのではなくて、人間同士の触れあいを求め、大切にする、より人間らしい生き方へと招かれている、ということを知ることなのでしょう。
by oji-church | 2016-03-31 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ
奥まった自分の部屋で祈る

〈あなたがたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。〉(マタイによる福音書6章6節)

★この「奥まった自分の部屋」というのは目に見える実際の部屋のことではないのでしょう。山の上でイエス様がお祈りしている場面が福音書には何度も出て来ますし、五千人の人たちとパンと魚を分かち合った時、イエス様は野原の真ん中で大勢の人たちの前でお祈りしました。それは、わたしという独りの人間の一番奥深いところにある一番弱い部分、生まれてやがて死ぬまでのつかの間の間、しばらく生きるだけの、芥子粒のように小さな存在、そのように、わたしという独りの人間の一番奥深いところにある場所ではないでしょうか。このわたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分、芥子粒のように小さなわたし、そこでは、このわたしを助けてくれるのは、もう神様以外には誰もいません。こうして、わたしは、「奥まった自分の部屋」、わたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分、芥子粒のように小さなわたし、そこに降りていってお祈りをする時に初めて、神様と出会うことになるのだろうと思います。
 わたし自身の一番奥深いところにある一番弱い部分に降りていってお祈りをする時、わたし以外の他の人にも、本当の意味で出会うことになるのではないでしょうか。つまり、わたしもあなたも、人間みんなが実は、神様を頼りにするより他ない、小さな芥子粒のような存在なのだということを知らされるのです。しかし神様は、どの小さな芥子粒のような存在も、「見よ、それは極めてよかった」と喜びの声を挙げて祝福し、喜んで愛を注がれる。そのことを知らされるのが、祈ることの意味なのでしょう。

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教会の植え込みの花が咲き始め、春を告げています。
by oji-church | 2016-03-23 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
一緒に食べる

〈一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」〉(マルコによる福音書14章22節)

★聖書には、いたるところに人々が一緒に食事をする場面が出て来ます。どうしてこうも食事の場面が出てくるのでしょうか。人は食べなければ生きていくことができません。一緒に食べるという振る舞いは、自分自身と自分以外の人の「食べなければ生きていかれない」という〈弱さ〉を受け入れ合うことなのではないかと思います。この〈弱さ〉はいのちの根源にあるものです。このいのちの根っこの部分に触れようとして、聖書には沢山の共に食事をする場面が語られているのではないかと思います。
★「私たちが食べるものは私たちの日ごとの食物であって、私だけのものではない。そこで私たちは、ただ霊においてだけでなく、身体をもった存在の全体においても互いに強く結ばれている。そしてこの身体をもった生活の交わりを破る者は、そのことによって霊の交わりを破るのである。……私たちが、私たちのパンを一緒に食べている限り、私たちはごくわずかなものでも十分に持っているのである。誰かひとりが自分のためだけに取っておこうとするときに初めて、飢えが始まるのだ」(ボンヘッファー『共に生きる生活』)。いま、世の中では「こども食堂」など、〈一緒に食べる〉活動が始められています。これはイエス様がなさった、多くの人たちと共に食べる働きと重なるように思われます。現在教会も人的・財的に厳しい中にありますが、そうであればこそ、「わずかなパンを(教会という枠を越えて)一緒に食べることの大切な意味をあらためて噛みしめる時ではないでしょうか。
by oji-church | 2016-03-15 12:54 | 牧師からのメッセ-ジ
あるとき、ふっと

★2ヶ月ほど前から左肩が痛んで挙げられなくなりました。1ヶ月程前にお医者に行ったところ、「そっとしておくのが大事ですよ。2,3ヶ月して、あるときふっと、『あれ、痛くない』なんて気づくこともありますよ」なんて、治療とも言えないようなことを言われて、痛み止めの塗り薬だけもらってトボトボ帰ってきました。それからひと月たちましたが、まだ痛みは続いています。
★春が近づいて、フト見ると一昨年前に挿し木して、教会玄関脇に植えたバラの苗に小さな新芽がついているのに気がつきました。シゴトシゴトのせわしない日々の中で、じっと見ていたい気持ちに駆られますが、じっと見ていても新芽は膨らんできません。でも、あるときふっと見ると芽が出て、膨らんで、伸びているのに気づかされます。日々の傍らには、あるときふっと与えられるそんな喜びが隠されているのでしょう。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ4章26~27節)。どうやら神の国は教会の玄関脇の辺りにあるようです。
by oji-church | 2016-03-09 09:51 | 牧師からのメッセ-ジ
違いを拒否せずに

★先週は、金曜日に北支区東京教区問題委員会主催の「これからの宣教を考える集会」、土曜日には北支区社会部主催の「教会と社会を考える集会」、日曜日は四谷新生教会との講壇交換礼拝の後、国会前で行われた「辺野古新基地建設反対」のデモに参加するなど、「教会」と「社会」の間を行ったり来たりして過ごしました。
★金曜日の集会では「べてぶくろ」の向谷地宣明さん、「べてるの家」の向谷地生良さんのお話を伺いました。向谷地生良さんの著書『精神障害と教会』という本の中にこんなことが書かれています。「もっとも重要なことは、『一番大切なことを、一番大切にする』のを諦めないことと、『一番大切なことを、一番大切にできない」 私たちの惨めな現実を受け入れ、担い続ける勇気です。……そして、忘れてはならないのは、大切な人とは、私たちがもっとも受け入れにくいかたちで出会いが用意されるということです」。
★土曜日の「教会と社会を考える集会」でわたしはこんなことを話しました。「教会〈と〉社会」と言われるけれども、実は教会に集まっている人はどの人も社会の中で生きているわけで、実は「教会〈と〉社会」と二つには分けられない。教会〈が〉社会の一部であるということ。教会から教会の外の社会に向かって積極的に出かけていく人もいるし、教会の外の社会で傷つき、疲れ果てて、教会という場に「安らぎ」を求めて来る人もいます。そんな、いろんな人が教会に集まっているというのも、教会という場所が、やっぱり社会の一部であることの証しであると思います。大事なのは、そうしたお互いの違いを「拒否する」ことはしないのだということ。お互いの違いを拒否せずに、一緒にいることができるために、何ができるかを工夫していくことが、教会だけでなく、わたしたちの社会全体が、いま一番必要としていることかもしれません。
by oji-church | 2016-03-02 15:46 | 牧師からのメッセ-ジ