日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「あの人よりマシ」と思うときには

〈キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした〉(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)

★イエス様が人間となり、十字架にかけられて殺されるという、ひどく無力で惨めな死に到るまで、人間として生きることを止めずに生き通されたことを、神様はよしとされたということです。
★わたしたちだって、ここにいる誰もが「自分は人間だ」と思っているでしょう。でも、実はしばしばわたしたちは「あの人よりかは自分はマシな人間」「見所のある人間」と思ったりしています。わたしたちが「あの人よりかはマシな人間」と自分のことを思う時、わたしたちは、その「あの人」のことも確かに人間だと思っています。でもそれよりも「マシな人間」としての「わたし」というのは、もしかして「人間としての『あの人』」よりも一段上にのぼっていやしないだろうか。その時、はたしてわたしたちは自分のことを本当に「人間」と思っているだろうか。わたしたちは、実はまだまだ「人間になる」ということを十分にはやり遂げていない、マスターしていないというのが、ここでパウロが語っていることなのではないかと思うのです。
★わたしたちが自分の弱さを背負って、失敗や挫折や間違いや恥ずかしいことを重ねながら、それでも「人間になる」ということを大事にして、人間として生きていくとき、必ず「人間になり、人間として生きた」イエス様が、目には見えなくてもわたしたちと共におられ、わたしたちのことを分かっていてくれる。だから、「喜びなさい。喜びなさい」というのが、パウロがこの手紙を通じて呼びかけていることです。
by oji-church | 2016-02-24 10:20 | 牧師からのメッセ-ジ
神への「負け」

〈主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです〉(エレミヤ書20章9節)。

★信仰なんて持たないほうがよかったと思うこともあります。信仰を持ったばかりに、わたしたちが生きているこの時代に、神様は何を求め、呼びかけているのかを問われることになります。結局多勢に無勢で、この世の中で「負け」を味わわなければならなくされます。そんな状況を預言者エレミヤは神様に対する「わたしの負け」と語っています。エレミヤはこの世にも負け、神様にも負け、という四面楚歌の「くぼ地」へと落ち込んでしまっています。
★くぼ地は日当たりも悪いし、雨が降れば周囲の水が流れ込んでくる辛気くさい場所です。でも一つ言えることは、くぼ地は周りの高い土地よりも、大地の真ん中に向かってはより近くにいるということです。そしてこの大地は神様が造ったものだと聖書は語っています。つまり、この大地を造られた神様のより近くにいるということでもあるわけです。
★「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。イエス様の生き様もまた「高み」を目指すものではなく、低く下ってくぼ」を目指すものでした。この世の多くの人々の「勝ち」と、神様の「勝ち」とは実は意味するものが決定的に違います。この世の多くの人々の「勝ち」は、自分だけの勝利、栄光、高みを目指すものです。だけれども神様の「勝ち」は、神様によって命与えられたすべてのものが「見よ、それは極めて良かった」という喜びの呼びかけを受けることへと向けられた「勝ち」です。だから、この神様の「勝ち」の前にわたしたちが負けることは、むしろ、すべて命を与えられてこの世に生きる者たちが、喜びの呼びかけを受けることへと向かう道なのです。
by oji-church | 2016-02-10 14:24 | 牧師からのメッセ-ジ
原発事故から5年 福島の教会の働き

★1月19日、福島県いわき市の教会・幼児施設を訪ねました。震災・原発事故から5年となる今、政府や社会には「終わったこと」にしようとする空気が日増しに濃くなっていますが、現地ではなお先の見えない苦悩の中に人々が置かれる中、教会が地域の人々と出会い結び合いながら、懸命に世に仕える姿がありました。以下は常磐教会の明石義信牧師の言葉です。
 「わたしたちの教会が被災地のただ中に立っているという現実がある。低線量被曝の影響が心配されるが、その影響が証明されるのは数十年後だろう。その間、わたしたちはこの場所で、不安と不透明性の中に生きていく。
 被災地に、主イエス・キリストがおられることを示す教会でありたい。苦難、痛み、疎外の中にいる者に対する、ことさら優しい主イエスのまなざしがある。この信仰の中で、この場所でよろこんで生きていることを伝える働きが、教会の役割ではないか。具体的な関わりの中では、真実を語ることのできない困難な人へアプローチして、心の声を聞くこと。不安の中で孤立している人にアプローチして、その歩みに伴うこと。
 現在、いわき市では空間線量が低くなってきており、この場所に住み続けるということは、他の地域と比較して低い、あるいはもう毎日考えるのも疲れたから考えないようにしようということもあるだろう。恐れの中で不安をだれにも言えず、子どもたちのために、食べ物、住まいなど自己決定を迫られている親たちもいる。わたしたちの教会に併設するいわき食品放射能計測所「いのり」は、そのような人たちが事実を見つめるための支援、安全への支援をしていきたい。いわき市民ばかりでなく避難移住者が利用している。自宅の土を計測し、帰還できるか否かのひとつの判断材料とする。時折、非常に汚染度の高い依頼品が発見されるのが現実である。
 被災地にはそれぞれの多様な事情があり、どの場所にあっても被災地を代表して語るということは不可能である。しかし、そうであるならば、わたしたちはその場所に出かけて行って、その声を聞くこと、そういう働きを担うように、主イエス・キリストが示して下さったのではないだろうか。」(日本基督教団東北教区「第20回『教区の集い』報告書」より)
by oji-church | 2016-02-03 11:59 | 牧師からのメッセ-ジ