日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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喜びの傍らには(2)

★フィリピの信徒への手紙の中でパウロは、イエス様のことについて、このように語っていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。イエス様は自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払うそのために、とことんまで「人間」として生き、他の「人間」の気持ちを理解し、分かり合い、受けとめて生きる生き様を生き通されて、その果てに十字架に掛けられて殺されるという「人間」として生き死にする痛みの極みを経験されたのだということです。だから、わたしたちは、他の誰よりもまずイエス様によって「分かり合って」もらっているのだ、ということです。
★「こんな自分の気持ちなど誰も分かってくれやしない」と思っていたわたしたちが、不思議にも「分かってもらえた」と思って「笑う」「喜ぶ」。その傍らには、他の誰よりもまず、イエス様がいるのだということです。わたしたちは何よりも、イエス様によって、分かってもらえた、理解してもらえた、受けとめてもらえた人間なんだということ。
★わたしたちは相変わらず、互いに分かり合うことの難しい世界の中に生きています。家族の中でも、教会の中でも、国々の関係を見ても。でもわたしたちが、まず何よりも、イエス様が分かってくれた、理解してくれた、受けとめてくれた、そう思って生きる時、何かが変わるのではないでしょうか。誰かに「分かってもらう」ことを過剰に期待したり、あるいはまた、どうせ誰も分かってくれやしないと捨て鉢な気持ちになったりすることなく、自分とは異なる人と出会い、今は分かり合えなくても、分かり合い、理解し合い、受けとめ合うことができるようにされ、共に生きる喜びに満たされる時が必ず来るという希望を灯火をともすことができるようにされるのではないでしょうか。
by oji-church | 2016-01-28 16:33 | 牧師からのメッセ-ジ
喜びの傍らには

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(フィリピの信徒への手紙4章4~5節)。
★わたしたちにはいろんな「喜び」があります。欲しいモノを手に入れた喜び。物事がうまくいって幸せになるという喜び。気の合う仲間や愛する人と共にいる喜び、等々。でもわたしにとって、この世の見方を変えさせてくれるような本当の喜びは、自分と違う誰かとお互いにお互いの気持ちを「分かり合えた」という、そういう経験だったように思います。
★いつだったかテレビのコマーシャルでオノ・ヨーコさんが、こんな言葉を語っていたのを憶えています。「一人で泣くことはできる。でも、一人で笑うことはできない」。本当の喜びというのは、一人で味わうものではなく、誰か自分とは違う人との間に生まれるものなのでしょう。こんな自分の気持ちなど、誰も分かってくれやしない、理解されるはずもないと思っていたのが、不思議にも、自分以外の人が分かってくれた。理解してくれた、受けとめてくれた。それが本当の意味でのわたしたちにとっての「喜び」であり、そんな「喜び」の傍らには、自分一人ではない、いつも自分と違う誰かがいるのです。
★パウロがここで勧めているのは、そんな「喜び」ではないでしょうか。と言っても、そんな本当の「喜び」を経験することは、決して簡単なことではありません。「分かり合えた」喜びよりも、結局、所詮「分かり合えない」、そういう経験の方がわたしたちはこの人生の中で圧倒的に沢山経験するものです。人と分かり合える喜びを誰かに期待しても、結局自分一人の過剰な思い込みや期待であったり、肩すかしを食らったりして、相手と分かり合うことよりも、むしろ相手に対する失望や怨みを深める結果になってしまうという経験をわたしたちはしばしばします。それでもなお、パウロは「常に喜びなさい」と繰り返し勧めるのです。そんな喜びはどこからやって来るのでしょうか。(つづく)
by oji-church | 2016-01-21 12:57 | 牧師からのメッセ-ジ
 「苦労」の傍らにある「負け」

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイによる福音書11章28節)。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。

★イエス様は「わたしは既に世に勝っている」と言われます。しかしイエス様は十字架に掛けられた殺された人でした。それは、この世の物差しから言えば、明らかな「負け」に違いありません。でもイエス様のこの明らかな「負け」が、ユダヤやローマ帝国の権力を持つ人たちの「勝ち」よりも、はるかに深い魂の震えを人々の心に刻んだのでした。それはイエスという人の生き様から響いてくるものでした。イエスという人はいつも、苦労している人、重荷を負っている人を招き、寄り添って生きた人でした。その人生の果てに、十字架に掛けられて殺された人でした。そのようなイエス様の生き様はしかし、人々にとって、その「負け」をさえ突き破り突き抜けて、苦しんでいる人、重荷を負う人のその苦労に、どこまでも寄り添い続けていく力強さを湛えていました。それは人間のどんな力を持ってしても敵わないものです。
★イエス様が「休ませてあげよう」と語るのは、このような苦労している人、重荷を負う人のその苦労、重荷に、イエス様の「負け」でありつつ「勝ち」である働きを、どこまでも寄り添わせていくぞ、という呼びかけなのでしょう。苦労や厳しさは相変わらずあるのだけれども、そのわたしたちの苦労や厳しさの傍らに、どこまでもイエス様の「負け」が共にいてくれるということ。「柔和で謙遜な者だから」。自分の「勝ち」にこだわらない、イエス様の柔らかさ、他者のために心砕く生き様がそこには響いています。
by oji-church | 2016-01-13 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
はじめに〈呼びかけ〉があった

★聖書に一貫して響いているのは、神様の「呼びかけ」です。「光あれ」という呼びかけに始まって、聖書のどの頁を開いても、そこには神様の呼びかけが響いています。この呼びかけは、単に聖書に登場する人々に向かっての呼びかけというだけでなく、この聖書を読む人々、つまりわたしたちにも向けられている呼びかけに他なりません。
★呼びかける、とは、いったいどういうことでしょうか。わたしたちは誰もいないところで誰かに呼びかけたりはしません。また、わたしたちは「モノ」に向かっては呼びかけません。足の小指を柱の角にぶつけて、痛さの余りに柱に向かって「バカヤロー」と呼びかけることはあります。でも柱に向かって呼びかけても、柱は謝りもしないし、反省もしません。そう気づいて、空しい気持ちにさせられます。言い換えれば、呼びかけるということは、呼びかけるその相手を「モノ」ではなく「生きている人間」として「認める」ということです。亡くなった方の遺影に向かって呼びかけることはあるでしょう。それは亡くなってもなお、その人が「人として生きた」という事実を、大切なこととして認める振る舞いです。
★いまわたしたちの生きている社会を見渡すと、新聞やテレビなどでは、この世界全体の人間のことは数字やパーセンテージで表されます。わたしたち自身、身近な何人かの人のことは生きている人間として出会い、触れ合います。でもそれ以上の世界にある人のことについては、もう「そこまでは考えてられない」とばかりに、考えることを止めにしてしまいがちです。そして、わたしたちにとって「身近」と考える世界の外にいる人は「どうでもいい存在」になっていきます。経済力や軍事力ばかりが優先される世界で、数字、パーセンテージで表される「モノ」とされたわたしたち自身がまた、他者を「モノ」として扱うようになるのです。
★わたしたちがお互いを「モノ」ではなく生きた掛け替えのない存在として、出会い受けとめ合って、「生きた人間」とされる平和を見出すために、聖書に響く神様の呼びかけに、大切に耳を傾けてゆく者でありたいと思います。
by oji-church | 2016-01-06 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ