日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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生きている人も亡くなった人も

★聖書にこんな場面があります。「復活はないと言っているサドカイ派の人々」がイエス様のところに来て、イエス様にこんな質問を投げかけます。律法の掟には「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と書かれているが、ある所に七人の兄弟がいて長男が妻を迎えたが、跡継ぎを残さないで死んだ。次男から七男まで、皆がその女を妻にしたが、跡継ぎを残さずに死んだ。さて、復活する時にその女は誰の妻になるのでしょうか、と。恐らく、このように夫の家の都合に従って、自分の意志を守ることも許されず、翻弄される生涯の末に亡くなった女性は当時、数知れずいたことでしょう。そうした女性の痛切な境遇を「話のダシ」にする人々に対してイエス様は怒りを込めて言います。「あなたたちは聖書も神の力も知らないからそんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と。さらにこうも。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。亡くなった人も、今生きている人も区別なく、皆神様によってなお生かされているのだということです。亡くなった人、今生きている人の区別なく、与えられた命を喜んで生き生きと生きることこそが、神様が求め、望んでいることなのだと。
★そんなイエス様が、十字架に釘打たれ、見世物にされて殺されるという、無残極まりない死に方をします。しかし三日目に、傷ついた姿のままで復活し、弟子たちの前に現れる。弟子たちはイエス様が逮捕される時、イエス様を見捨てて逃げ去ってしまっていました。それでもイエス様はそんな弟子たちの前に、傷ついた姿で現れて、弟子たちを怨むのではなく、ニッコリ笑って「あなたがたに平和があるように」と告げたのです。この時弟子たちは、自分たちが、不思議にも、イエス様によって赦されていると感じたのではないか。そうしてまた、招かれている、とも。どこへ招かれているか。イエス様が語った通り、生きてる人と、すでに亡くなった人との区別なく、神様が、すべての生きているもの・生きたもののために、与えられた命を喜んで生きることを求め、望んでおられる世界へと、です。弟子たちは、この新しい世界を宣べ伝えるべく出かけていったのです。それがキリスト教の始まりでした。
by oji-church | 2015-11-26 10:47 | 牧師からのメッセ-ジ
「隣人になる」とは?(2)

★(承前)たとえ話の最後にイエス様は律法の専門家に向かって「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と聞きました。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えざるを得ませんでした。この律法の専門家もまた、「隣人」とは「律法の掟を守っている生粋のユダヤ人である」という考え方を改めざるを得なかったのです。「隣人」とは「苦難や痛みを共に分かち合おうとする人」のことだと。
★イエス様は最後に言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。これをわたしたちは早合点して「困っている人を助けてあげなさい」という意味に受け取ってしまいます。でもその前にここでイエス様が言っておられる「あなたも同じようにしなさい」と言うのは、ユダヤ人であるあの追いはぎに襲われた人や律法の専門家が、あのサマリア人の旅人の振る舞いに出会って、それまでのサマリア人に対するさげすみや敵意や憎しみの気持ちを変えられていったということです。「あなたも、行って同じようにしなさい」というイエス様の教えは、そのようにわたしたちも、自分が「敵」だと思い、さげすんできた相手の「人間」としての心豊かな振る舞いに出会って、気持ちを変えてもらいなさいという勧めなのです。
★中国や韓国・朝鮮の人たちは、植民地支配下、戦時下にあって、日本人によって深く傷つけられ、塗炭の苦しみを味わわされました。それでもなお、日本人と共に生きようと、わたしたちに向かって手を差しのべています。それなのに日本人が中国や韓国・朝鮮に対して、敵意やさげすみの気持ちを持ち続けるのだとしたら、どれだけ日本人は心無い人間かということになるでしょう。
★「日韓関係」とか「日中関係」という言葉でわたしたちが、テレビに映る韓国や朝鮮や中国の政府首脳の顔を思い浮かべて、敵意をたぎらせるのだとしたら、それは日本人の視野の狭さ、人間関係の貧しさを表しています。追いはぎに襲われた人を助けたのは、サマリアの国の王様ではありません。名も無き一介の旅人です。「日韓関係」とか「日中関係」と言う時に、わたしたちは、中国や韓国・朝鮮に生きている一人ひとりの小さな人たちの姿を思い浮かべ、それらの小さな人たちと出会って、その人たちが生きてきた歴史を知るように努めなければなりません。
by oji-church | 2015-11-16 11:22 | 牧師からのメッセ-ジ
「隣人になる」とは?

〈旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』〉(ルカによる福音書10章35節)。
★エリコに降って行く道の途中で追いはぎに襲われ、半殺しの目にあって倒れた人を助けたのは、「律法の掟を守って正しく生きている救われるべき生粋のユダヤ人」である祭司やレビ人ではなく、サマリア人の旅人でした。ユダヤ人はサマリア人を異民族、知らない土地から連れてこられた「よそ者」と見て、反目し、さげすみ、憎しみと敵意を持っていました。
★彼が、「エリコに降って行く」道の途中で追いはぎに襲われて倒れたこの人に出会ったということは、何を意味しているかと言えば、エリコというのは先ほどお話ししたように、ユダヤの国の中にある町なわけですから、つまりこのサマリア人は自分がさげすまれ、憎しみと敵意を投げかけられる場所であるユダヤの国の中を旅していたということです。このサマリア人の旅人にとって、倒れている人は自分を敵視し、憎しみやさげすみを投げかけてくるユダヤ人なわけですから、そんな人間を助けようという気持ちは、普通に考えたら、起きないだろうと思われます。
★このサマリア人は、自分に対して、さげすみを投げかけ、敵意や憎しみを注いでくるユダヤ人のために、あたうかぎりの手を尽くして手当をし、介抱をし、面倒を看るのです。こういう経験をしたこの追いはぎに襲われたユダヤ人の旅人は、そのあと、どうなっでしょうか。このようにサマリア人に助けられて、それまでサマリア人に抱いてきた敵意や憎しみやさげすみの気持ちは、消えて無くなってしまったのではないでしょうか。もしそれでも、サマリア人に対する気持ちを変えずに、さげすみや敵意を抱き続けていたとしたら、どれほど心無い、無慈悲な人間か、ということになります。彼は、このサマリア人の振る舞いに触れて、サマリア人が「敵」でも「異民族」でもなく「自分のかたわらに生きている『人間』」なのだということに気づかされ、自分の気持ちを変えられていったのです。(つづく)
by oji-church | 2015-11-11 14:09 | 牧師からのメッセ-ジ
 「人権」とは、心を感じること

★今年7月東京教区の「部落解放祈りの日」集会に、ピアニストの崔善愛(チェ・ソンエ)さんをお招きしてお話を伺いました。善愛さんのお父様は九州の小倉で在日大韓教会の牧師をされていて、在日韓国・朝鮮人の人たちの人権のために多岐にわたって活躍された方でした。かつて日本の入国管理制度では、在日韓国・朝鮮の人たちは、外国人登録のために毎年指紋を提出することが義務づけられていました。それは、在日韓国・朝鮮の人たちを犯罪者予備軍と見なし、その人たちの人間性・人間としての尊厳を奪うものです。これに反対をして80年代在日韓国・朝鮮の方たちは、指紋押捺拒否の運動を始めます。善愛さんも指紋押捺を拒否して外国人登録法違反で起訴され、何度も有罪の判決を言い渡されました。そのために善愛さんは(善愛さんに限らず、指紋押捺を拒否した在日の方々はいずれも)、一旦日本を出れば日本での永住権を剥奪され、再入国不許可となると言い渡されます。善愛さんは日本に生まれ育ったにもかかわらずです。それでも善愛さんはピアノを学ぶためにアメリカに留学します。善愛さんは裁判を起こしますが、その裁判も敗れてしまいます。このことは国会でも問題となり、最終的には法務大臣が善愛さんに謝罪し、入国管理法が変えられて指紋押捺の義務はなくなり、善愛さんは再び永住権を手にすることになりました(2007年からはまた入管法が改定され、日本に入国する外国人は指紋を提出することが義務づけられるようになりました)。そんな日本の社会は、やはり自分のかたわらに、自分とは違う人が命と、そして心を持って生きているということ、そのことの尊さを忘れてしまっている社会と言わざるを得ません。
★この崔善愛さんが語っておられることが深く胸に響いています。こんな言葉です。「人権とは、手にとることも、目で見ることもできません。人権とは、他の人の心を読み取り、感じ取ることだと思っています」。「人権」と言うと、カタイこと、ムズカシイことのように感じられるかもしれませんが、それは、自分のかたわらに、自分とは違う人が命と、そして心を持って生きているということ、そのことの尊さを大切にし、それを感じ取り、読み取って、お互いに大切にし合って生きていくことなのだということです。
by oji-church | 2015-11-04 16:26 | 牧師からのメッセ-ジ