日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「一億総活躍」?

★国の指導者が「一億総○○」という時には注意をしなければなりません。国の指導者にとっての「活躍」とは、その人に都合のいい「活躍」でなければなりません。安保法制に反対するデモにいくら「活躍」したところで、それは国の指導者にとっては決して「活躍」とは見なされないことでしょう。国の指導者にとって都合の悪い「活躍」は活躍と見なされず、かえって「役立たず」と見なされ、切り離され、うち捨てられることになります。しかし人が人として生きていることの意味や意義は、ただ一国の指導者が決めることではありません。人が活躍しているかどうかは、その人自身が決めればいいことです。「余計なお世話だ」と言いたくなります。
★いま、わたしたちの生きている世界では、国同士の競い合いが熾烈さを極めつつあります。それで国は、わたしたちに向かって「一億総活躍」などと訴えて、わたしたちを国にとって都合のいい「活躍」へと追い立てようしています。そういう「活躍」の出来ない人たちを「役立たず」として、切り捨て、うち捨てようとしてます。このような「競争」に追い立てられる社会の中で、わたしたちが失っていくものがあります。それは、命そのものの尊さ、生きていることそのものの価高さとでもいうものです。
★自分のかたわらに、自分とは違う人が命と、そして心を持って生きているということ、そのことの尊さというもの。それが競争に追い立てられる社会の中では、見失われていってしまうのです。わたしたちそれぞれがそれぞれに、命と、そして心を持って生きているからこそ、わたしたちが互いに慰め合ったり、励まし合ったり、悲しみを分かち合ったり、喜びを共にしたりすることができます。そのことの価値を、わたしたちは競争に追い立てられる社会の中で、だいぶ忘れてしまっているかもしれません。命も心も目に見えないものですから。
by oji-church | 2015-10-30 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「人生の振り子」と「希望」(3)

★(承前)わたしたちは「なぜですか」と問い、疲れ果ててもう振り子を真ん中で止めてしまいたくなる不信仰と、「信じます」と破れかぶれに叫ぶ信仰との間で信仰を持っていかなければならないようです。イエス様もまたそのように信じ続けたのだと思います。「思い悩むな。空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と教えたイエス様はまた、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と問うたイエス様でもあります。イエス様は、わたしたちのすぐそばで、わたしたち同様、信仰と不信仰の間の揺れを持ちながら歩まれました。そのことが何よりも、わたしたちにとって消えることのない希望なのだと思います。
★わたしたちの想像を超えた希望が必ず残されていることこそが、聖書がわたしたちに告げていることです。この希望があるからこそ、わたしたちは、心置きなく、悩むこと、考えること、苦労して、頭がこんがらがって、訳が分からなくなることができます。それでもなお、希望はあり続けるのですから。(おわり)
by oji-church | 2015-10-20 14:39 | 牧師からのメッセ-ジ
「人生の振り子」と「希望」(2)

〈霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」〉(マルコによる福音書9章22~24節)
★(承前)安保関連法案の参議院採決に反対するデモの中で、若い大学生のこんな言葉が静かに語っていたとても心に響いています。「仮に法案が成立しても、終わりではありません。成立したら(抗議行動は)おさまると思っているようですが、すでに新しいうねりが起きています」。新約聖書でパウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」と語っています。また宗教改革を行ったルターはこんな言葉を残しています。「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの木を植える」と。
★子どもが悪霊に取りつかれ、火の中や水の中を転げ回る、親としては苦しみの極みのような絶望的な状況の中で、お父さんはイエス様に懇願します。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」。するとイエス様は言われます。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。びっくりしたお父さんが思わず叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。お父さんは「信じます」と叫ぶけれども、また「信仰のないわたし」とも言います。このお父さんは果たして信仰があるのか無いのか。でも「信じます」と叫びながら「信仰のないわたし」とも叫ぶこのお父さんの姿は、何だかわたし自身を見るような気もするのです。どんなに絶望的な状況の先にも希望があると呼びかける神様を信じ切ることができないわたし、でも、その神様を信じることによってしか前に進むことができないわたしです。イエス様が叫ぶ「信じる者には何でもできる」という叫びは、どんなに絶望的な状況にあってもその先になお希望があることを、力強く証ししています。(つづく)
by oji-church | 2015-10-14 14:51 | 牧師からのメッセ-ジ
「人生の振り子」と「希望」(1)

★ときどき考えることがあります。クリスチャンなんかにならずに、ましてや牧師などにならずに、教会などという場所にもかかわらずに、神様を信じるなんていうこともせずに生きていたら、もっときれいサッパリして、いろいろと考え、悩むこともなく、もっと軽い気持ちで生きることができたんじゃないだろうか、と。神様は人間に自由を与えるために、この世界を造り、人々が自由に、平和に生きることを望んでおられると、そんなことを信じようとするものだから、「じゃあ、どうしてこの世界はこんなにも、自由でもない、平和でもない、不正がはびこり、一方では一握りの人たちが権力や武力や繁栄を手にして、他方ではその一握りの人たちの犠牲になって、多くの人たちが苦しんでいる。そんな状況がいつまでも続くのか」と。そんな疑問がわき出してきて、それを説明しようとして頭がこんがらがって、訳が分からなくなってしまう。もし神様なんぞ信じなかったら、疑問を持つこともなく、説明に苦労することもなく、頭もこんがらかることなく、訳が分からなくもなりません。そうやってもう神様を信じるなんてことをやめてしまったなら、そのときにきっとわたしはこう思って落ち着くことでしょう。「世の中なんて、所詮そんなものだ」と。
★確かにそれで心はサッパリするかも知れません。でもそのとき、わたしたちはただ信仰を失うだけではないのかもしれません。もっと別なものも一緒に失ってしまうかもしれません。それは何かといえば「希望」です。振り子がぶら下がっている様子を思い浮かべます。振り子が右に振られると、その分、左にも振られます。大きく右に振られれば、左にもそれだけ大きく振られます。そうやって振り子は時間を刻んでいきます。振り子が真ん中で止まってしまえば確かに静かになるかもしれません。でもその振り子はもう時間を刻むことはありません。「世の中、所詮そんなものだ」と思うこと、それは真ん中で止まった振り子のようなものかもしれません。静かで落ち着いていますが、もうそれ以上前に進むことはありません。止まったままです。(つづく)
by oji-church | 2015-10-07 10:22 | 牧師からのメッセ-ジ