日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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境を越える(3)

★その一方で、一人でいる時、わたしたちの心には、他人を見下す気持ちも芽生えて、どんどんと膨らんでいくものではないかとも思います。他人は自分ではないから自分の思い通りにいかず、イライラします。それは相手がダメなヤツだからだと結論づけます。一人でいる時、そんな自分の思い通りにならない他人へのイライラはどんどんと膨らんでいき、他人はますます「ダメな人間」であるように思えてきます。一人でいると、誰も「いやいや、他人ってそんなにダメなばかりのものじゃないよ」と助言してくる人はいませんから。一人の中で膨らんだ他人を見下す思いはやがて、差別や暴力としても膨らみ始めます。あんなダメなヤツはいなくていいという横暴な気持ちです。相手が自分よりも強いと思えば恐れや憎しみとなり、自分よりも弱いと思えば見下す気持ちになるのです。「敵」というのは、そのように一人の自分の中で膨らんだ、他人への恐れや憎しみ、見下す気持ちの名前なのではないでしょうか。
★どうも一人ぼっちのわたしたち人間の中には、他人に対する恐れや憎しみや見下す気持ちの歯止めがないようです。一人ぼっちで思い巡らせている時、やがてわたしの回りはすべて恐れるか、憎むか、見下すかする相手、つまり「敵」になっていってしまいます。そんな、自分一人で「敵」を大きく大きく膨らませていくばかりの一人ぼっちのわたしたちに向かって、イエス様は「自分」という境を越えて、出かけていき、そして出会うことを呼びかけているのではないでしょうか。
★「自分」という境を越えて出かけていき、他人と、武器を持たない裸同士の人間として出会う時、わたしたちは初めて、他人に対する恐れや憎しみや蔑む気持ちへの歯止めを手にすることができ、他人に対する恐れや憎しみや蔑む気持ちから解放されるのではないでしょうか。つまりは、わたしたちは「敵」から解放されるのです。自分自身の中でどんどんと膨らませてきた「敵」という影、まぼろしから解放されるのです。
by oji-church | 2015-08-26 15:08 | 牧師からのメッセ-ジ
境を越える(2)

★思えば、イエス様の語ったことや行ったことの多くは、境を越えることであったように思います。当時「汚れた者」であり触れてはならない者であった病気やしょうがいを負う人たち、差別された職業の人たちに向かって、イエス様は境を越えて、寄り添い、触れ、共に食事をされました。百匹の羊のたとえ話の中で羊飼いは九十九匹の羊が集まった囲いの境を越えて、一匹の羊を追いかけて出かけていきます。羊飼いは言います。「一匹の羊が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た羊を捜しに行かないだろうか」と。羊飼いはわたしたちに向かって呼びかけているのです。「あなたもわたしと一緒に迷い出た羊を捜しに行かないかい?」と。イエス様は境を越えて出かけていくことをわたしたちに求め、呼びかけているのです。こうして誰かとの出会いを求めて、境を越えてイエス様と共に出かけていく時、どんなことが起こるでしょうか。
★人間というのはどうも、一人でいる時、他人に対する恐れの気持ちがどんどんと際限なく膨らんでいくものではないかいう気がします。他人は自分ではないから、自分の思い通りにできるものではありません。他人は自分ではないから、自分の予測以外のことをするものです。一人でいる時、そんな自分の思い通りにならない、自分の予測を超える他人のありようというのが、わたしの想像の中でどんどんと膨らんでいき、他人は自分にとってますます恐ろしいものになっていきます。一人でいると、誰も「他人って、そんな恐いばかりのものじゃないよ」と助言してくれる人はいませんから。一人の中で膨らんだ他人に対する恐れはやがて憎しみとしても膨らみ始めます。自分に怖い思いをさせる他人に対して「やられる前にやってしまえ」という攻撃的な気持ち、それが憎しみです。(つづく)
by oji-church | 2015-08-16 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
境を越える

〈あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい〉(マタイによる福音書6章43~44節)

★「敵を愛しなさい」だけだったら、何となく頭の中では「そういうことも大事だろうな」くらいには受けとめられます。でもイエス様はもっと具体的に言っています。「自分を迫害する者のために祈りなさい」と。そう言われると「ああ、もうそれはムリです」と言わずにはいられなくなります。結局これはわたしたちなど及びもつかないような理想論が書かれているのであって、「敵を愛する」ことはイエス様がやってくれるので、わたしたちは感謝してお祈りだけしていればいいんだよという優しい教えとして受けとめようとします。クリスチャンでない人は「敵を愛しなさい」というイエス様の教えをどこかで聞いて、キリスト教ってスゴイなと思うのだけれど、今わたしがお話ししたような仕方でこの教えを受けとめている実際のクリスチャンに出会うとガッカリすることになります。「敵を愛しなさい」というイエス様の教えを、わたしたちはもっと深く思い巡らせてみる必要があるように思うのです。
★二十歳のときに洗礼を受けてから今まで、様々な人と出会いを与えられ、それぞれの人たちの生きてこられた歩みを聞く機会を与えられました。ほとんどの出会いは教会を通じてでした。教会はしばしば、気の合う同士の内輪の集まりになってしまいがちです。けれども、わたしが教会を通じて様々な出会いを与えられてきたということは、そんな教会の中にあっても、内輪同士の枠を越えて、境を越え出て他人のことに注意を払うことに務めてきた人たちがいたことの証しだろうと思います。その働きの土台には、「敵を愛しなさい」と告げたイエス様の声が響き、イエス様の思いが確かに生きているのだと思います。(つづく)
by oji-church | 2015-08-12 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
平和憲法の陰で

★いま国会に「安全保障関連法案」が出され、平和憲法の意味がクローズアップされています。日本は平和憲法下でこの70年間、ひとまずの「平和」の中に暮らしてきましたが、韓国・朝鮮や沖縄に暮らす人たちにとっては、この70年は平和な年月ではまったくありませんでした。第二次世界大戦後、朝鮮ではすぐさま朝鮮戦争が起こり、国が分断され、その後には韓国では軍事独裁政権が建てられ、朝鮮でもやはり独裁政権になっていきました。その背後には、それ以前に日本が朝鮮を植民地支配していたことが深く関わっています。植民地支配下にあって日本は朝鮮から、日本にとっての利益だけを引き出そうとして、朝鮮人にとって益のある仕方で朝鮮の社会を整えることは全くしませんでした。多くの人が強制連行、強制労働に従事させられ、少女たちは従軍慰安婦とされました。このため第二次大戦後、朝鮮では社会資本や人材が十分でなく、朝鮮の人たち自身による国づくりが自由に出来ず、そのためにアメリカやソ連の都合によって戦争、分断、独裁となっていきました。日本に残った朝鮮人は、1947年5月2日、日本国憲法施行の前の日に「外国人登録令」によってそれまで日本の植民地出身者として持っていた日本国籍を奪われ、権利を保障されずに、厳しい差別の下に戦後を歩んできました。
★沖縄は明治以前、琉球王国という独立した国でしたが、明治維新の時に、日本の軍隊の威圧の下に暴力的に日本に併合されました(「琉球処分」)。太平洋戦争下、本土防衛のための「捨て石」にされ、住民の4人に1人が沖縄戦で命を落としました。戦後、人権が保障されない米軍の軍政下に置かれ、土地を奪われて基地にされ、サンフランシスコ講和条約によって日本が占領を脱したのと同時に日本から切り離され、その後も1972年の「復帰」まで、米軍軍政下に置かれました。「復帰」後も、米軍基地のほとんどが沖縄に置かれ続け、本土で米軍基地が返還されると、それが沖縄に移されて沖縄の米軍基地がさらに増えるという状況が続いてきました。その結果、日本の国土の0.6%の沖縄に在日米軍基地の74%が集中するという現在の有様になっているのです。
★日本はこの70年間、確かに平和憲法によって「平和」を得てきましたが、それは同時に戦前、日本の植民地とされた地域の人たちの犠牲の上に形作られたものなのです。平和憲法による「平和」ということを考える時には、そうした、この憲法から切り離され、わたしたちが気づかないところで、わたしたちの「平和」のために辛酸をなめさせられてきた人たちがいることを忘れてはならないでしょう。
by oji-church | 2015-08-08 12:57 | 牧師からのメッセ-ジ