日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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モノは要らん!

〈主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。この所で、お前たちの道と行いを正し、、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。〉(エレミヤ書7章4~6節)

★「主の神殿、主の神殿、主の神殿」というのは、当時のユダの人々が自分たちの国の繁栄を言祝ぐときに呼び交わすスローガンのようなものだったのでしょう。確かにエルサレムの神殿は当時ユダの国にあっては随一の巨大で壮麗な誇るべき建物だったでしょうから。しかし神様は、そんな建物の立派さなど要らん! と言っているのです。
★聖書の神様、ヤハウェの神様は、お金掛けた壮麗な神殿で祀られることも、多大な捧げ物を献げてもらうことも、ましてや子どもの命を人身御供に献げてもらうことなど、そんなことは一つも望んでいないし、そんなことをされたってちっとも嬉しくないと言われるのです。嬉しくないどころかむしろ、そんなことは腹立たしいことだ、「わたしを怒らせる」ことだと語ります。神様が望むのは「お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従」わないことだと語ります。「寄留の外国人、孤児、寡婦」と呼ばれる人たち、これらの人たちはいずれも、ユダの国の中でいちばん弱い立場、寄る辺のない貧しさの中に置かれていた人たちです。神様が望むのは、自分が何かをしてもらうことではないのです。大きくて強い神殿を建ててもらうことでも、盛大な捧げ物をプレゼントしてもらうことでもないのです。そういう大きさ、強さがご自身に注がれることとは正反対に、自分以外のところにいる小さくされた人たちの見えない痛みや苦労にこそ、神様は目を注がれるのです。「モノは要らん!」と神様は言っているのです。
by oji-church | 2015-07-29 12:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちの分かれ道」に立っていることを忘れないで

★先週わたしたちの暮らす国では、「安全保障関連法案」という名前の戦争法案が衆議院で可決されました。議会での議論を聞けば聞くほど、「安全保障情勢の変化に従って、国民の平和と安全を守るため」という政府の説明がまったくのマヤカシに過ぎず、アメリカが自国の利益のために行う戦争や破壊の肩代わりをするための法案であることが明らかになりました。国民の多数はこの法案をこの国会で可決することに反対していましたが、国会では可決されました。国民の過半が反対する法案がどうして国会で可決されてしまうのでしょうか。それは政府与党が国会で過半数(3分の2以上)の議席を持っているからです。本来国会の議席は選挙を通じて国民の意見を反映したものになるはずですが、どうしてそうならないのか。
★最前の総選挙で与党は「安保関連法案」について説明らしきことをほとんど何もしませんでした。代わりに大きく掲げたのは「アベノミクス」と言われる経済政策です。それは富裕な人を優遇しすることで「経済成長」なるものを演出して見せる一種の「お芝居」です。その一方で富裕でない多くの人々の生活は逆に困窮へと追いやられ、生存すら危うい状況になりつつあります。そこで人々は「お金が必要」と考えることを強いられ、「アベノミクス」という「お芝居」に引き寄せられて与党に投票してしまう仕組です。小選挙区制という制度は、微細な意見区分を踏み倒して多くの死に票を生む一方で、このような「お芝居」的演出に成功した者を圧勝に導きます。
★わたしたちは気づかなければなりません。安手の紙芝居的「お芝居」を見せられながら、一部の人たちの欲望や虚栄のために、いま本当は自分の命が少しずつ削られているということに。わたしたちにとって本当に必要なのは「お金」ではありません。「いのち」です。わたしたちは今いのちの「分かれ道に立って」(エレミヤ6章16節)いることを忘れてはいけません。
by oji-church | 2015-07-22 09:36 | 牧師からのメッセ-ジ
平和―面倒くさいこと

〈わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない、むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』。しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった〉(エレミヤ書7章22~24節)。
★神様が喜び、求めるのは、神様の声に聞き従うこと、神様に向かって顔を向けること、でした。それはつまり、神様と呼び応える関係を持ち続けていくことです。神様の呼びかけに対して、それを無視したり、軽んじて耳を傾けないようなことをせず、「はい、わたしはここにいます」と応えていくこと、です。神様との関係に限らず、そのように、誰かとの間に呼び応える関係を築いていくというのは、実はなかなか骨の折れることです。じっくり時間を掛けて、丁寧にお互い声と言葉によく耳を傾けて、そうして苦労を分かち合い、忍耐をもって、お互いに間に信頼し合う関係が成長していくのを待つ必要があります。自分自身のありようを問い直さなければできないことです。自分中心にだけ物事を考えていたのでは絶対にできないことです。そういう意味で、面倒くさいことです。何が面倒と言って、自分自身のありようを反省し、問い直していくことが、わたしたち人間にとって一番面倒な、困難なことではないでしょうか。しかしそのように、自分自身のありようを問い直し、自分を真ん中に置くありようから変えられて、相手の声と言葉によく耳を傾け、相手の苦労を分かち合い、忍耐をもって信頼関係を築いていくことによってこそ、わたしたち人間同士というのは、お互いに安心して共に歩んでいく平和をお互いの間に打ち立てることができるのです。
by oji-church | 2015-07-15 14:58 | 牧師からのメッセ-ジ
「ここにいて、いいよ」

〈キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます〉(フィリピ1:15~18)。
★パウロのことを好ましく思っていないキリスト教保守派の人々は、パウロが逮捕されたと聞くや「パウロはローマの官憲から睨まれるような悪しき人間なのだ」と、パウロを中傷したのでしょう。とても喜んではいられないそんな状況の中で、パウロは「喜んでいます」と語るのです。いったいパウロは何を喜んでいるのか。
★それは多分、こういうことではないか。キリストはローマの兵士たちによって悪し様に見下されている状況です。一方パウロ自身は、敵方の伝道者たちによって悪し様に中傷されている状況です。悪し様に見下され、中傷を受けるという点で、キリストとパウロ自身とがこの時、重なっているのです。パウロにとって喜びとは、苦労を重ねた自分の伝道の働きが実を結んで、自分の子飼いのクリスチャンたちからねぎらわれ、誉めそやされること、ではないのです。パウロにとって喜ぶべきことは、自分がキリストのそばにいること、十字架にはりつけにされたキリストと同じように、自分も傷ついた姿で、キリストのそばにいること、それこそがパウロにとって本当の喜びとなることなのです。
★誰かからほめられる立派な自分でなくても、「ここにいていいよ」と、そばにいることを許されること。それこそがわたしたちにとって本当の喜びなのではないでしょうか。パウロには、人から見下されようが、中傷されようが、「ここにいていいよ」、そう語り掛けるイエス様の声が、どこからか聞こえていたのでしょう。
by oji-church | 2015-07-08 09:31 | 牧師からのメッセ-ジ
共感―人間のバランスを保つもの

★今、かつての戦争から七十年を経て、あの戦時下と同じように権力を押し立て、戦争へと至る道を危惧する多くの人々の声にも耳を傾けず、国の暴走を食い止める憲法の縛りも無視して、日本の国は再び、自由に戦争という横暴を揮える国へと傾いていこうとしています。人間の文明が行く所まで行き着き、地球環境を破壊し、資源の争奪戦が始まっています。そういうなかで、他を押しのけてでも自分の生き残りを図ろうとする競争が国々の間で行われているのがいまの世界ではないかと思います。人間の心の中には誰しも、人のことよりも自分のことを優先し、人を押しのけてでも自分の自由に振る舞いたいという欲望が渦巻いています。誰しもが持っているこの欲望ですが、そればかりを優先していこうとする時、人間はバランスを失って、自分自身の首を絞め、自分自身を滅びへと追いやることになっていくでしょう。
★自分を最優先しようとする欲望に対して、それを押しとどめる働きをするのは「共感」という気持ちです。とりわけ、人の苦しみや悲しみや痛みを自分自身の苦しみ、痛み、悲しみとして思い巡らし、受けとめようとする人間の気持ちこそが、自分を優先しようとする欲望を押しとどめて、人間にバランスを保たせ、自分も人も命を長らえる方向へと人を導くものです。いま、わたしたちの生きている世界、社会は、この「共感」する気持ちを圧倒的に失いつつある世界、社会ではないかと思います。弱い立場にある人の痛みや苦しみや悲しみに共感を寄せようとする人は、その人自身が「弱い人間」と見なされ、役に立たない、不必要な人間のように見なされる社会になっています。でも、聖書には「弱く見える部分がかえって必要なのです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ12章22節9という言葉が響いています。まさしく、「弱く見える部分」こそが人の心に共感する気持ちを呼び起こし、それによって人間のバランスを保ち、人の命を長らえさせるのです。
by oji-church | 2015-07-02 10:06 | 牧師からのメッセ-ジ