日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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心の奥底にある“塩”

〈あなたがたは地の塩である〉(マタイによる福音書5章13節)

★僕らの心の中の奥の奥の方には「このわたしを大事に思ってほしい」という気持ちがいつもあるんだと思うんです。「立派な行い」をしているわたし、先生やお父さん、お母さんの言うことをよく聞く「わたし」、勉強をしっかりやる「わたし」、困っている人を助けてあげる「わたし」だけじゃなくて、ただの「このわたし」を大事にしてほしいという気持ちが、いつもずっとあるのだと思う。でも、その気持ちというのはわたしたちの心のずっと奥のほうにあってなかなか外から見えません。だから、人はしばしば、一番外側で、その人が「立派な行い」をしているかどうかだけで、人のことを大事にしたりしなかったり、してしまいます。
★聖書には、「あなたがたは地の塩である」と書いてあります。お料理でお塩を使う時には、お料理の中に溶けて見えなくなっていないとお塩はお料理の調味料としては使えません。「あなたがたは地の塩」という時のこの「塩」って、もしかしたら、わたしたちの心の奥の奥のほうにあって見えない「この僕、このわたしを大事にしてほしい」っていう気持ちのことなのじゃないかと思います。(6月14日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2015-06-24 14:01 | 牧師からのメッセ-ジ
イエス様が祈っているから

〈あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。……わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。〉(フィリピの信徒への手紙1章6~8節)

★「祈ってるよ」「お祈りしています」。クリスチャンの間でしばしばそんな呼びかけが交わされます。有り難いことだと思う。でも時に、こんなふうに思ってしまうときもある。「祈ったところで、多分この難しい状況は変わらない」と。祈っても祈っても、願ったようにうまくいかなかった経験はいくらでも。教会は「祈りましょう」と勧めるけれど、祈ることなど何に役にも立たないではないか。祈っているヒマがあったらもっと具体的に行動することではないかと。
★パウロはローマで軟禁状態に置かれ、間もなく処刑されるかもしれないという退っ引きならない状況です。フィリピの教会の人たちは、パウロが守られるように、助けられ、救われるようにと、繰り返し祈ったことでしょう。ですがパウロは処刑されてしまいます。それでもこの手紙でパウロが繰り返し勧めているのは「喜びなさい」ということです。一体何を喜べとパウロは言うのだろうか。パウロはここで繰り返し「キリスト・イエス」「イエス・キリスト」とその名前を挙げています。パウロが語るのは「誰よりもイエス様が真っ先に祈っているではないか」ということ、そして「イエス様が実りある場所へと、わたしたちを導いてくれるだろう」という希望です。イエスという人はよく祈る人でした。最後には裸にされ十字架に釘付けにされ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と叫び、呻きながら息絶えた人でした。「この杯をわたしの前から取りのけてください」との祈りも空しく。でも、最後まで祈る人だったことは確か。
★誰よりも惨めな姿をさらしたイエスという人が、それでもなお祈っている。だからこそ、どれだけ惨めな状況に陥ったとしても、祈っても祈っても、そこから抜け出せなかったとしても、なお「喜んで」祈りなさいとパウロは勧めたのではないでしょうか。
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6月14日の礼拝後、教会学校の子どもたちが、教会近くの交番のおまわりさんにお花を届けました。
「いつもわたしたちの安全をまもってくださってありがとうございます。これからもよろしくお願いします」と、子どもたちが挨拶しました。
「おまわりさん、仲良くしようね!」
by oji-church | 2015-06-17 14:21 | 牧師からのメッセ-ジ
なぜ残忍な野心家を崇拝するのか(2)

★いま国会で、政府は何としてでも安保法制を可決しようと躍起になっています。野党議員の質問に対する首相の「早く質問しろよ」という不躾なヤジがそれを如実に語っています。質問の主旨に答えず、自説をとうとうとまくし立てているのは首相自身です。しかし、首相のとうとうたる自説を聞けば聞くほど、この安保法制なるものが一体何を目指しているのか、分からなくなっていきます。そもそも戦争・武力の放棄をうたった憲法9条の改憲が困難と見るや、9条をそのままにして勝手な解釈で集団的自衛権(他国の戦争への参加)を容認したところから矛盾は始まっているのです。
★9条により「原則」として海外派兵は禁じられている。「原則」として戦地への派遣は禁じられている。しかし「安保法制」はそれを恒常的に可能にさせる法律です。政府が語っているのは、この「原則」に対する「例外」を設け、その「例外」事態の中で派兵や武力行使を恒常的に可能にしようということです。政府はとうとうとその「例外」事態を説明しますが、そもそも「例外」をすべて網羅することはできません。「例外」とはいわば、「原則」という〈家〉の外側にあって、どこまでも拡がっている〈原野〉のようなものですから。「例外」を規定しようとすること自体がそもそも無理なのです。
★「例外」をどのように規定するのかと問われると、首相は「政府が総合的に判断する」としか答えません。「どう戦争するかはオレたちが考えるから、オマエらは黙って従えばいい」と言わんばかりです。「安保『法』制」と言いながら、これは「法」(ルール)というものの根本を踏みにじる振る舞いです。なぜなら「法」とは「原則」をしっかり確認するためのものなのですから。
★国家政府という大きな権力を持つものが「法」を踏みにじる時、そこにはむき出しの「力」(権力・暴力)が現れます。このむき出しの「力」を抑えることは容易なことではありません。いまわたしたちはむき出しの「力」というモンスターを野に放とうとしているとも言えます。それは苦しみを拒否した野心家には好ましいことでしょうが、苦しみや悲しみを共感しあって共に生きることを求める「人間らしい人間」にとっては、あってはならないことのはずです。
by oji-church | 2015-06-10 12:26 | 牧師からのメッセ-ジ
なぜ残忍な野心家を崇拝するのか

★先週から安保法制についての審議が国会で始まっている。首相らはこの法は国民の生命・財産を守るためのものと説明するが、いずれも海外で自衛隊が戦争をしやすくするための法律であることは否めない。なぜこのようないつわり、ウソが、まかり通ってしまうのか。
★ドイツの精神分析医アルノ・グリューンは『私は戦争のない世界を望む』という本の中でこんな問いを立てている。「何が、自分こそ自由で民主的だと思っている一般市民を、政治家に服従させ、残忍な野心家にすぎない政治家を『救済者』そして『強い人間』として崇拝させるのか」。答えとして語られるのは、幼少期に抑圧された苦しみを拒否しているからだということ。
★人は誰もが子ども時代から様々な苦しみを経験する。その経験は、お互いにその苦しみを共感し合うことによってしか乗りこえられない。苦しみを分かち合うことを拒否してしまうと、「自分は苦しまない『強い人間』だ」と思い込もうとして、人は暴力に依り頼むようになる。暴力ははじめから、論理や倫理を踏みにじるものだから、黒を白と言いくるめ、ウソをつくことにも平気になってしまう。苦しみを拒否する結果、わたしたちはかえってウソによって自分たちの命を損なうことになってしまうのだ。
by oji-church | 2015-06-03 10:22 | 牧師からのメッセ-ジ