日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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二人は同じ。二人は違う。

〈十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」と言った。するとイエスは、「はっきり言って置くが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。〉(ルカによる福音書23章39~43節)

★この場面、普通に読めば先の方は悪い犯罪人で、後の方は善い犯罪人。善い犯罪人はイエス様から誉められて天国に入れてもらえるというお話になるります。でも「善い犯罪人」という言い方はどうも変じゃないか。どちらも罪人に変わりはありません。二人の言葉をよく読んでみると、気づくことがあります。一人の犯罪者は「お前はメシアではないか」つまり「イエス様は救い主だ」と言っています。そうして「自分自身と我々を救ってみろ」と言う。つまり「わたしを救ってください」と言うのです。こう読んでみれば、これは悪態ではなく、苦しみや困難の中で、わたしたち誰もが祈る祈りではないだろうか。もう一人の犯罪人はこう言います。「この方は何も悪いことをしていない」と。つまりイエス様に向かって「あなたは正しい人です」と語ります。そうして「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。つまり「わたしも天国に招いてください」と願っている。
★こうして読んでみると、この二人がこの十字架の上でイエス様に向かって言っていることに、それほど大きな違いはないように思えてきます。同じように信仰を告白し、イエス様への願いを語っているのです。(つづく)
by oji-church | 2015-03-29 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ
山の上の夢(2)

★(承前)弟子たちは、イエス様が祈っておられるうちに白く輝き、モーセやエリヤという伝説の預言者たちと語り合っている姿を見ます。それを見たペトロは思わず、こんなふうに口走ります。「先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
★ペトロがそんなことを言ったとたんに、この光景は見えなくなってしまい、ただ声だけが聞こえてきます。それは「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声。そこにいたのは、「ただの人」イエス様だけでした。それは、権力者の力の前にあえなくつぶされてしまう弱く小さな存在としてのイエス様です。「この山の上に小屋を建てましょう」と提案したペトロは後に残ったこの小さなイエス様の姿にがっかりしたかもしれません。でも、イエス様がこの山の上、ひとりで祈る場所に弟子たちを連れてきて示そうとされたのは、むしろこの小さな姿にむかって響く神様の声がある、ということだったのではないでしょうか。
★「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。神様は、どんなに小さく弱い存在であったとしても、その人を、その命を、ご自分の掛け替えのない子どもとして選び出し、愛し、大切にされるということ。静かにひとりで祈る時、わたしたちはこの神様の声をこそ、聞くのだということを、示すために、弟子たちをこのひとりで祈る場所に伴われたのではなかったでしょうか。考えてみれば、モーセもエリヤも、それぞれに権力者たちの前には、たった一人の弱く小さな存在でした。しかし、その弱く小さなモーセやエリヤを選び、守り、寄り添い伴われ、大切にした神様がおられたということなのです。
by oji-church | 2015-03-22 11:10 | 牧師からのメッセ-ジ
山の上の夢

〈イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。……すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。〉(ルカによる福音書9章28~36節)

★小さい頃、わたしたちはだれもが弱く小さな存在でした。弱く小さかったわたしたちに必要だったのは、ただ愛されること、大事にされることでした。弱く小さかったわたしたちは、自分が愛され、大事にされることを夢見ました。でも、それが得られなかった時、わたしたちの小さな心の中に、怒りや憎しみの種が蒔かれます。この小さな心の中に蒔かれた怒りや憎しみの種が芽生え、愛や大事にされることを受けずに、そのまま大きくなっていくとき、人はただ自分自身の「強さ」にのみ依り頼み、自分や他の人の弱さや小ささを受け入れられない人間になっていきます。弱い者、小さな者は犠牲にされて当然と考えるようになり、自分自身の弱さ、小ささを思い起こさせる者は、憎むべき敵となります。ヒトラーのような人物を思い浮かべれば、それがどんな人間か分かります。でも、いまのわたしたちの社会は、そのような弱さ、小ささを受けとめられない人を次々と生み出しているように思えてなりません。しかし、そのような人は夢見るいとまを失います。相手より強く、人よりも大きくならなければならないとされる競争社会の中で、人は自分も人も愛され、大事にされ、自分が生きているこの世界と和解して生きる夢を見ることができなくされてしまいます。
★わたしたちという弱く小さな存在。でもその中には、わたしが愛され、あなたが大事にされ、この世界と和解して和らいで生きるという夢が秘められているということ。そのことをイエス様は弟子たちに教えよう、告げようとして、普通であれば、ひとりで神様と語らうその場所に弟子たちを連れていったのではないかしら。
by oji-church | 2015-03-18 11:35 | 牧師からのメッセ-ジ
力へのあこがれ(2)

★イエス様は悪魔の持ちかけをすべて退けられました。イエス様が語るのは「人はパンだけで生きるものではない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」「あなたの神である主を試してはならない」ということでした。自分自身を真ん中に据えるのではなくて、神様を真ん中に据えるということです。
★神様を真ん中に据えた時、わたしたちは、自分自身の本当の姿が見えてきます。それは力を持たない弱く小さな存在です。でも、神様を真ん中に据える時、聞こえてくる声があるのです。それはどんな声かと言えばこんな声です。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」。たとえわたしたちが、どんなに小さく弱いいのちであったとしても、いや、むしろ弱く小さないのちであるからこそ、わたしたちは神様から「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と呼びかけれている存在なのだということ。そのことが、自分自身ではなく、神様を真ん中に据えた時には分かってくるのです。この神様の呼びかけこそわたしたちにとって「福音」と呼ぶべきものでしょう。イエス様はあの力へのあこがれを持ちかける悪魔の誘惑を退けて、この荒れ野の中で、小さく弱いいのちを持ったわたしたち一人一人に呼びかけられている神様の声、福音をわたしたちに響かせようとされているのです。

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3月に入って、植え込みのバラに新芽が伸びてきました。もう春です。
by oji-church | 2015-03-11 12:55 | 牧師からのメッセ-ジ
力へのあこがれ

〈荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた〉(ルカによる福音書4章1節)。

★ここでの悪魔の誘惑はいずれも人並み外れた「全能の力」に関わっていることが分かります。一つ目の誘惑は「石をパンに変えられる」という自分自身の「全能の力」。二つ目は、「悪魔を拝むなら、全世界の繁栄と権力を手に出来る」という、悪魔の「全能の力」。言い換えれば自分以外の誰かの「全能の力」をあてにすること。三つ目は、聖書の言葉、つまり神様の言葉が引き合いに出されています。そこには、神様の「全能の力」をあてにするという姿勢が語られています。
★けれどもイエス様はどの誘惑も退けます。わたしたちは生きている中で、どこかでふとそんな「全能の力」にあこがれを懐くものです。それは「自分自身にそんな全能の力があったら」というあこがれであったり、自分以外の誰かの力にあやかりたいというあこがれであったりします。人間でなくても、神様の全能の力をにあやかりたいというあこがれもあります。
★力に対するあこがれは、全世界の権力と繁栄を手にしたら世界全体に平和をもたらそうというような、よいことにも用いることができるでしょう。しかし、人間の懐く力へのあこがれというのは、どんなによい動機から生まれたものであっても、結局は自分自身の願望を遂げようという、自分を真ん中に置いた思いから生まれてくるものです。自分を真ん中に置いた思いは、やがて必ず自分以外の人間のことを疎ましく思い始めます。なぜならこの世に誰一人として自分と同じ人間はいないから。自分とは違う自分の周囲の人を疎ましく思い、いなくなって欲しいと思うようになるでしょう。でも周囲の人がいなくなってしまえば、自分自身だって生きられなくなるのです。「力へのあこがれ」というのは結局は、必ず、人を死へと導くものなのです。
by oji-church | 2015-03-04 11:23 | 牧師からのメッセ-ジ