日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「傷の中にいる人」(2)

★「テロに屈しない」とか、「決して許さない」とか、「罪を償わせる」とか。傷一つない勇ましい言葉の陰には、自分が傷つく前に相手を傷つけてやろうという歪んだ人間の心を読み取れます。その行き着くところは、またぞろ人が人を傷つけ、命を奪い、この世界の全てを死が覆うまで。死以外に出口の世界です。このような言葉は決してわたしたちの傷を癒すものではありません。
★傷つく弱さの中でわたしたちを待っていてくれる人がいる。「飢えていた時、渇いていたとき、泊まるところなく、着るものもなく、牢屋に入れられ、病いに倒れていた時、あなたは食べさせ、飲ませ、服を着せ、家に泊めてくれ、牢を訪ね、見舞ってくれた。ありがとう」と迎えるために。その姿は目には見えず、見えるのは痛々しい傷、悲しい出来事ばかりだけれども、そこで待っていてくれる人が必ずいる。そう信じることが「信じる」ということの本当の意味ではないかと思うのです。
by oji-church | 2015-02-25 15:57 | 牧師からのメッセ-ジ
傷の中にいる人

〈それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」〉(ヨハネによる福音書20章27節)

★イエス様が最後に弟子たちに示されたのが、人並み外れた華々しい奇跡ではなく、自分の手のひら、わき腹にうがたれた「傷」であることに心引かれます。わたしたちが今生きている世界は、傷、傷、傷に満ち満ちています。でもそんなものを幾ら見たところで、わたしたちは救われた気持ちにはならないし、信仰なんて持つことは出来ないと思われるでしょう。
★でも、マタイによる福音書の終わり近くにこんな場面があったことを思い出すのです。やがてイエス様が現れて、人々を二つのグループに分けて一方のグループの人にこう言われる。「あなたたちは、わたし飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。言われた人は「いつわたしたちがあなたにそんなことをしましたか」と聞き返す。するとイエス様はこう言われる。「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。わたしたちの回りにはどこを見回しても、イエス様はいない。でもわたしたちの回りには、飢え、渇く人、旅人のように寄る辺ない人、着るものに事欠く人、病気でいる人、牢屋に捕らわれている人なら、幾らでもいます。
★わたしたちの回りはそんな痛々しい傷であふれかえっている。わたしたち自身だって、率直に自分自身を省みれば、どこかしなら、何かしら傷を負っているだろう。イエス様は最後に、ご自分の手の傷、わき腹の傷を見せることで、あなたの回りに溢れているその傷の中に、「わたしも共にいる、いつも、いつでも」ということを示されたのではないかしら。そんなふうに思うのです。
by oji-church | 2015-02-17 13:21 | 牧師からのメッセ-ジ
十字架という光

〈父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を表すようになるために、子に栄光を与えて下さい。〉(ヨハネによる福音書17章1節)

★イエス様は、自分が十字架に付けられて殺されることを「栄光」と呼びました。そんな無残なことがどうして「栄光」でありえようか。そう思います。でも、もう一度考えてみるのです。「栄光」というのは、そのまま訳せば「光」です。それは神様がこの世に向かって投げかける光」。この世は、あまりにも多くの人の悲しみや苦しみに満ちあふれた闇としてあります。そこに神様は光を投げかけるのです。あまりにも多くの人々の悲しみや苦しみに満たされたこの世という闇に投げかけられる光って、いったいどんなものでしょう。それは多くの人々の苦しみや悩み、悲しみを共にするということ、同じ苦しみや痛みや悩みや悲しみを一緒になって経験するということ。それこそが多くの人の悲しみや苦しみに満ちあふれたこの世の闇に投げかけられる、ただ一つの光となるものではないでしょうか。
★この十字架の上で、イエス様は多くの人の苦しみ、悲しみに満ちあふれたこの世の闇を、自分自身の生身そのものをもって経験されました。この世の中で、苦しみのうちに生き、そうして嘲られ、いたぶられ、クズのようにうち捨てられていく痛み、苦しみを、自分自身の体の経験として知りました。それは、この世にあって苦しみ、痛み、悲しみに満たされた人々にとって、本当の意味で光となることではないか。この痛みを知っているのは、わたし一人ぼっちじゃないということ、イエスという人が、同じ痛み、苦しみを味わい、だからこそ、より深く、全くわたしのことを分かっていてくれるということ。それは、痛み苦しみに満ちあふれたこの世の闇にあって、本当の意味での光となることではないだろうか。
by oji-church | 2015-02-11 10:01 | 牧師からのメッセ-ジ
武装する「わたしじゃない」と、丸腰の「わたしだよ」

〈シモン・ペトロは立って火に当たっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と言うと、ペトロは打ち消して「違う」と言った。〉(ヨハネによる福音書18章25節)

★ここでペトロの言葉として「違う」と訳されているところは、元のギリシア語では「わたしではない」と書かれています。そのすぐ前のゲッセマネの園の場面では、イエスを捕らえようと武装してやってきた人々に対して、イエスは「誰を捜しているのか」と問い、「ナザレのイエスだ」と言われると、「わたしである」と答えています。ここではイエスの「わたしである」という言葉と、ペトロの「わたしではない」という言葉とが鮮やかに対比されています。
★武装してやって来た人々の前でイエスは丸腰のまま「わたしである」と答えました。一方ペトロは剣で武装しており、その剣で大祭司の手下に打ってかかり、右の耳を切り落としたと書かれています。丸腰で「わたしである」と答えるイエスと、武装して「わたしではない」と答えるペトロとがここにいます。二人は大祭司の屋敷の中とその中庭というすぐそばに居ながら、二人の間には遠い遠い距離が開いてしまっているといわなければなりません。
★わたしたちもまたペトロと同様に、さまざまなもので武装し、自分自身を装っています。武器のみならず、お金であったり、地位や名誉であったり、時に自分自身の誠実さや謙虚さによっても。しかしそれらの武装は、ただ生身で裸の丸腰の「わたし」をただ「わたしである」と示し、開いて、丸腰の「わたし」自身を愛することから、わたしたちを遠ざけます。イエスがおられるのは、ただ丸腰の自分自身を敵味方の壁を越えて「わたしである」と開いていく場所です。それができなかったペトロに、イエスは福音書の最後に、やはり丸腰の復活の姿で歩み寄り、「あなたはわたしを愛するか」と三度問いかけ、わたしたちとイエスとの間の隔たりを取り除こうとされるのです。この丸腰のイエスを大切に思うことによって、わたしたち丸腰の自分自身を愛し、「わたしである」示し、開いていくことへと導かれるのでしょう。
by oji-church | 2015-02-05 15:41 | 牧師からのメッセ-ジ