日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

<   2015年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「如何にして善く生きんか」

★およそ100年前の1912年、乃木希典将軍が明治天皇の死去に際して「殉死」した事件に触れながら、柏木義円という群馬県で牧会していた牧師さんがこんなことを書いています。「武士道時代には生命を重んずる思想が欠けて居りました。下の者に対しては切棄て御免、下司下郎の生命は大根や蕪青の如く、同列に対して果し合いの容易なりし事、上に対しての殉死、何れも自殺の思想と相通ふ所があって、何うしても生命を軽んずるの気風があった事は否むことは出来まいと思います。喧嘩腰、戦争本位で成立て居た社会では、これも止むことを得ないでありましたろう。併し将来の社会は、如何にして善く死せんかが大切でなくて、如何にして善く生きんかを大切と為す時代であります。」(1912年10月15日『上毛教界月報』「乃木大将と自殺」)
★今わたしたちは柏木義円が「将来の社会」と呼んだ社会に生きています。しかし今のわたしたちの社会は、競争は激化して世界大の競争社会となり、「殺(や)られる前に殺れ」という風潮が世界をおおい、弱者の犠牲はやむを得ないこととされているようでもあります。哲学者キルケゴールは「死が最大の危険であるときには、人は生きることをこいねがう。しかし、さらにおそるべき危険を学び知る時、人は死をねがう」(『死に至る病』)と語りました。競争の中で犠牲とされ絶望した者は、自他共なる死をねがうようになります。その他多くの人はただ自分の平穏無事な死を生活の目標に据えているようでもあります。そんな「如何に死せんか」という思想が暗雲のようにわたしたちの社会をおおいつつあるような気がします。
★100年前に柏木義円は、「いかに死ぬか」という思想よりも「いかに生きるか」という思想のほうが大切と訴えました。いま、わたしたちは「成長か死か」というようなスローガンに翻弄されて「死ぬ」思想を植え付けられるのではなく、小さくはあっても、今あるひとときひとときを「生きる」思想を紡いでいくことが肝要ではないでしょうか。そんなことを考えさせられた一週間です。
by oji-church | 2015-01-29 09:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「同じ人間」

★昨年末NHKテレビでイスラエルの抑圧や弾圧に苦しむパレスチナ人の人権のために活動されているパレスチナ人弁護士ラジ・スラーニさんと在日韓国人の作家徐京植さんとの対談番組がありました。その中でのこと、大学で教える徐さんが学生にパレスチナなど、人権が押しつぶされている状況について話をすると、学生がこう言うのだそうです。「同じ人間なのにあんなことが出来るなんて信じられない」と。その時に徐さんはこう言うのだそうです。「『同じ人間』という観念はまだ確立されていないのだ。それはわたしたちがまだ手に入れていないゴールなのだ」と。
★番組の最後に徐さんは、「今『同じ人間』という考え方よりも、人間が人間でなくなっていく、人間の非人間化という状況が進んでいる世界の中で、スラーニさんはどうして確固たる信念をもってパレスチナの人権のために働くことができるのか」と問いかけました。スラーニさんはこう答えました。「法は完璧なものではありません。けれども民主主義、人権といった考え方は、第二次世界大戦で8500万人の人が殺されたことを経て辿り着いた最上の何にも勝る収穫物なのです。わたしは世界市民の一人として、わたしが暮らしている地域や場所でその基準を当てはめることで、社会に貢献したいのです」。人権、わたしたちが「同じ人間」であるということは、歴史上の数々の痛ましい戦争を経て与えられた賜物に違いありません。けれどもそれはまだ、はっきりとすべての人に知られるようには表されていないのがわたしたちの世界なのです。
★イエスは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)と祈っています。「あなたがわたしの内に…、わたしがあなたの内に…」とは、握り合った手と手のような対等な関係のつながりを表しているのでしょう。それはいまだ実現されていません。しかしそれは同時に、大切なこととしてすでにわたしたちに示されていることでもあります。そしてそれは結局、一人ひとりとの出会いの中で、注意深く互いの苦しみや喜びを分かち合う中で形作っていく以外にないものなのかもしれません。
by oji-church | 2015-01-23 15:56 | 牧師からのメッセ-ジ
「ひとしずく」

★昨年は首相の名前を冠した政府の経済政策が盛んに言い散らされる中で選挙が行われて、戦後最低という投票率ながら与党が議席の多くを占める結果に終わりました。国民の多くも一番の関心事は景気、つまりお金の問題だと考えているということでしょう。そのお金を儲けるために、武器の輸出を解禁すること、アメリカと共に戦争に繰り出していける集団的自衛権の承認、そうした方向に有無を言わせず国民を従わせるための特定秘密保護法の施行、といったことも昨年行われました。
★一番手っ取り早いお金儲けの方法は、いのちを犠牲にすることです。戦争をする国に武器を売り込むのはとても利益の上がる商売です。「武器だけ売って自分は血を流さない」と言われないために、日本もその戦争に加わっていくのが「集団的自衛権」の目指すところでしょう。積極的に戦争に加わっていく気持ちを高めるために、近隣の国々の脅威を強調して「国の外は敵だらけ」という警戒心や恐怖心を国民に植え付けます。お金のことにしかわたしたちが関心を向けなくなれば、やがてわたしたちは、そのようにいのちを際限なく切り刻むことへ突き進み、その果てには人類の生存そのものを破滅へと追いやってしまうことになるでしょう。そういう時代の曲がり角の中に、わたしたちはいま生きていると思います。
★けれどもわたしには中国人の友がいて、韓国人・朝鮮人の友がいて、イラン人の友がいて、クルド人の友、パレスチナ人の友、イスラエル人の友がいて、それらの人が戦争で死ぬことを望みません。人間は、ひとたび出会って、心を交わし、友となるならば、その人が死ぬことを決して望みはしません。人間の心の奥底には、そういう人の命を愛するひとしずくの気持ちが授けられています。自分自身の都合のよさ、気分のよさだけを優先するのではなく、折に触れて、自分の胸のうちに授けられているこの「ひとしずく」を、互いに確かめ合うことが、いまわたしたちに必要なことなのかもしれません。
by oji-church | 2015-01-15 12:43 | 牧師からのメッセ-ジ
「『この道』しかなくはない」

〈主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです〉(ルカによる福音書2章29節)。

★今日本の政府が推し進める〈アベノミクス〉は「成長戦略」を謳っています。しかしそれは、武器輸出、集団的自衛権という名の戦争、原発稼働といった、いのちを切り刻む振る舞いと裏腹のものです。その裏面は隠され、「この道しかない」とわたしたちは脅されて、わたしたちは「この道」を進むことを強いられようとしてます。
★シメオンの歌が「今」という言葉で始まっているのが印象的です。高齢のシメオンにとって、これから先、自分が成長していくのを待ち望むことは難しいことです。けれども彼にもなお意味あるものがあります。それは「今」という時です。シメオンは今、「この目で見た」ものについて喜び言祝いで歌います。それは、冬風の吹きすさぶ中、馬小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされた幼子のいのちです。小さな裸同然の何の力も持たない幼子であるけれども、そのたった一人の幼子の命を、この上なく尊いものとして愛おしみ、その幼子の前に身をかがめるみずみずしい気持ちがなお、今このとき、なお自分自身の心の中に息づいていることを知らされることは、シメオンにとって、驚きであり、まだ喜びであったのではないでしょうか。
★わたしたち人間は、ただ将来の華々しい「成長」だけを目標に生きているわけではありません。わたしたち人間のいのちにとっては、「成長」という「この道しかない」わけではありません。わたしたちは「今」という時を一つ一つ重ねながら生きています。今、目の前に与えられている一人ひとりの人との出会い、それを心を開いて、共に心を通わせることの出来る仲間として見出すことができるならば、お金はなくても、将来の成長はなくても、わたしたちは今、ここで、この上なく尊い喜びを見出すことができるのです。
by oji-church | 2015-01-07 09:52 | 牧師からのメッセ-ジ