日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「その見えないところで」

★聖書に語られるクリスマスは、いずれも世間の表側からは見えないところで起こった出来事を語ります。この世の見えるところでは、ヘロデ王やローマ皇帝アウグストゥスが権力を振るっていることが聖書には語られています。ヘロデ王は生まれてくる子どもたちを皆殺しにする命令を出します。皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国全域に生きる貧しい人々からも税金を取り立てるために人口調査を行います。強い立場にいる人たちによる弱い立場にいる人たちへの横暴が振るわれていることを聖書は告げています。わたしたちは聖書を読むのでそれを知りますが、当時の世の中の表側からは、そのような権力者たちの横暴はほとんど見えないように隠されていて、世の中は見た目には王や皇帝が民を思い、慈愛を注ぎ、繁栄を謳歌する麗しい社会に見えていたことでしょう。
★見た目には繁栄を謳歌する社会の、しかし見えないでは人々が苦しみ、うちひしがれている、そのただ中の、その見えないところで、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と告げられ、その見えないところで、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げられ、その見えないところで、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と告げられ、その見えないところで「今日ダビデの町で、あなたがたの救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げられるのです。
★暗闇の中、この世の表からは見えなくされた出来事を見つけ出し、それを光にもたらす出来事。これがクリスマスの本当の喜びです。わたしたちもこの本当のクリスマスの喜びを「見つけ出しなさい」と呼びかけられている一人また一人であることを心に刻んで、このクリスマスを迎える者でありたいと願います。
by oji-church | 2014-12-23 16:04 | 牧師からのメッセ-ジ
「助産婦は神を畏れていたので」

〈助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。〉(出エジプト記1章17節)

★マリアにヨセフ、ザカリアにエリサベト、東方の学者たち、羊飼いたち、老シメオン。これら一群のクリスマスを取り巻く人々は、イエスが誕生する際の助産婦でした。それぞれに立場も地位も境遇も年齢も異なる一群の人たち。しかしこの人たちは「神を畏れる」ことによって、「立派な家」ではなく、馬小屋から響いてくる、小さな声、弱い声、その神の声を畏れることによって、イエスがこの世に生まれるのを助ける助産婦となったのでした。そして今の世も、クリスマスが本当のクリスマスとされるためには、この助産婦たちが必要です。
★かつてわたしたちの教会の属する日本基督教団は、戦時下にあって軍部や国家の圧力を恐れて戦争に協力し、人々を若者を、戦争のために命を捨てることへと駆り立てました。日本基督教団の戦争責任告白は、このように語っています。「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました」。
★わたしたちは、イエス様がこの世に生まれ来るための「助産婦」の務めをないがしろにしてはならないと思います。人の目に見える大きな強い力を恐れず、小さな馬小屋から響いてくる「恐れるな」という小さく静かな声をこそ畏れて、聞き従ってゆくものでありたいと願います。
by oji-church | 2014-12-17 08:47 | 牧師からのメッセ-ジ
失敗を背負う者のもとに

〈主よ、いつわたしたちは、……病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。〉(マタイによる福音書25章37~39節)

★改めてこの場面を読んでみて、あることに気づかされした。最初に呼びかけられたグループの人はこう言っています。「主よ、いつわたしたちは、……病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。この人たちは、自分がおこなって来た、小さくされた人たちへの親切や大事にする行為、食べ物・飲み物を人に与え、宿を貸し着物を与え、病気を見舞い、牢獄を訪ねたりする、そういう「善いこと」は全部失敗だったと思っているのです。一方、後半の人たちは反対に「いつ、食べさせなかったでしょうか。飲ませなかったでしょうか。貸さなかったでしょうか。着せなかったでしょうか。世話をしなかったでしょうか」。自分たちのやった善いことは、全部成功だったと思っている人たちなのです。イエス様はどちらの人間を受けとめ、迎えるかというと、成功したと思っている人たちではなく、失敗したと思っている人たちの方なのです。
★聖書の中でイエス様は、「いちばん偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい」と教えておられます。わたしたちはこのイエス様の教えを真剣に受けとめなければいけないと思います。願わくは、愚直にこのイエス様の教えに従って生きていきたいと思います。けれども、恐らく、いやきっと、わたしたちはこのイエス様の教えに真剣に愚直に従おうとすればするほど、壁に、行き詰まりにぶち当たるでしょう。しかもその壁とは、行き詰まりとは、他ならぬ自分自身の不徹底さ、中途半端さ、怠惰さなのです。そうしてわたしの「善いおこない」は全部失敗だったと思わざるを得ない。けれども、そんな失敗を背負った者をイエス様は迎え入れ、受けとめ給う。わたしたちがこの待降節に待ち望むのは、そんなイエス様との出会い、そんなイエス様の来臨なのです。
by oji-church | 2014-12-10 12:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「小指の痛み」

★水曜日の朝、ダンボールの束を資源ゴミに出そうと牧師室から外へ出る扉を開けた。外は冷たい雨。外階段(今改めて数えてみたら5段あった)を降りようと足を踏み出したところ、ズルッ、ズルズルズルズルー、と一気に5段を滑り落ちて尻餅ついた。格好悪いので慌てて立ち上がったが、左手の小指が妙に痺れて痛い。どっかにぶつけただけかと思って、それでも痛いので湿布を巻いて、午前中は「聖書を読む会」をやった。ところが痛みは増すばかり。午後になって近くの病院に駆け込んでレントゲンを撮ったら、小指の先の骨が折れていた。なんてこったい! 思えば十年前、王子教会に赴任したての時に田端駅の階段から落ちて左手首を骨折して全治数ヶ月。あのときも秋雨の降る中だった。ちょうど十年目に同じように骨折するとは、何かのお告げと思えて仕方がない。
★あのときは利き腕でない左手一本でも使えなくなればこれだけ不便かと、普段気づかぬところで働いてくれていた左手にいたく感謝した(それでこの欄の名前も「ひだり手」となった)。今はそのときほどの不便はないけれど、添え木をして包帯を巻いているから手が洗えない。パソコンも小指が使えずミスタッチばかりで今も苦労してこれを書いている。来月北支区の教会音楽祭で弾く予定のウクレレは薬指でカバー、という具合。
★痛み止めの薬が切れてくるととたんに痛み始める。「小指の痛みは全身の痛み」という言葉を沖縄の基地問題や差別の問題に触れる中で何度となく聞いてきたが、いままさに我が身をもって実感している。小指の先まで繋がって自分は生きているんだと。しかし世の中は、非正規雇用を増やして人間をバラバラに切り離しておいて、どこまでも大企業優先という「○○ノミクス」だかに狂奔している。小指の先の痛みを感じないのは、それを感じられなくなっている脳ミソのほうがオカシイのだとも気づかずに。「頭が小指に向かって『お前は要らない』とは言えない」(Ⅰコリント12章参照)と、生きている体なら本来言えないはずのことを言っているのが今の日本という「体」なのだとしたら、その体はもう死にかけているのかもしれない。ご用心。
by oji-church | 2014-12-02 11:11 | 牧師からのメッセ-ジ