日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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宮古教会での説教応援

★先週10月19日は、北支区の東日本大震災被災支援特別委員会の働きとして、宮古教会の説教応援に行ってまいりました。東京からは盛岡までは新幹線で2時間10分。しかし盛岡からは山田線に乗り換えて2時間30分かかります。夜の9時30分に宮古駅に降り立つと、外は静かで暗く、寒さが肌を引き締めました。
★宮古教会の森分先生には前もって「到着は遅くなるのでお迎えは不要。一人でホテルに向かいます」と伝えてありました。「さて、ひとりでホテルに向かうか」と改札を出ると、北支区の「交流の旅」で知り合った教会員のKさんが笑顔で出迎えて下さいました。意外なお迎えに心がほぐされました。
★礼拝は20人弱で守りました。震災によって、またそうでなくても、それぞれに弱さや痛みを背負った人たちが集まっておられました。お互いの弱さや痛みをよく知り合う者同士で、福音を分かち合うよい礼拝の時を持つことが出来ました。
★礼拝後は、摘んできたマイタケのご飯と、ご当地のサンマのつみれ汁をいただきました。これも忘れられないおいしさでした。わずか半日の交わりでしたが、これまでの「交流の旅」では得られなかったゆったりとした豊かな時間を与えられました。感謝。
by oji-church | 2014-10-29 14:04 | 牧師からのメッセ-ジ

10月19日の週報コラム

それでも人間らしく生きる

〈イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。〉(ヨハネによる福音書11章33節)

★この場面をじっくり読んでみて注意を惹かれるのは、イエス様の振る舞いが変わっていくことです。それまでイエス様は「ラザロ危篤」の知らせにも無頓着で、「神の栄光のため」とか「あなたがたが信じるようになるため」とか、落ち着き払って、「分かったような」なりをしていた。ところがこのマルタとの対話の後、イエス様の様子が変わるのです。イエス様は「心に憤りを覚え、興奮した」と書かれています。これは「激しく息をして、自分自身をかき乱されて」訳した方がいいと思います。そうしてさらにその先ではイエス様が「涙を流した」と書かれています。もう「神の子」然として何もかも「分かったような」顔をしているイエス様ではありません。人間らしく、心かき乱され、鼻息荒く、泣いてしまうイエス様です。確かに泣くのを我慢していると鼻息が荒くなりますよね。
★大きな悲しみや失望を前にして、人は悲しみ、胸をかき乱してしまう、そういう自分の弱さを打ち消そうとして、かえって人間らしさを失ってしまう時がある。自分に対しては投げやりになり、人に対しては攻撃的になり、どうせ人はみんないずれは死んでしまうのであれば、もうどうでもいいという具合に。人は誰もがいずれ死ぬべき境遇に置かれています。どう生きるかに関わりなく。それが「絶望」というものです。
★しかしそれでもなお、イエス様はむしろ人間らしく、まことに人間らしく心揺り動かして涙を流されたのです。生きるということ、人間らしく生きるということには意味があるということを、この「激しく息をして」「自らをかき乱され」「涙を流す」イエス様の姿は、わたしたちに伝えようとしているのではないかと思うのです。
by oji-church | 2014-10-21 15:02 | 牧師からのメッセ-ジ
七十年後の約束(4)

★神様は捕囚の地、バビロニアに捕らわれて、もはや生きては再びエルサレムへと帰り着くことはできない、捕囚の地で日々暮らしてやがて年老いて命終わっていくそのユダヤの民の歩みを、ずっとそばに寄り添い伴って、ユダヤの民が呼べば応え、さがせばすぐにやって来て出会って下さる。そのようにその苦難の歩みを、年老いて行く異国での人生の旅路を、ずっと共にしてくださるということです。これが神様の約束、災いの計画ではない、平和の計画、本当の救いの計画だということです。
★若い日にも、年老いた日にも、結局目的地にたどり着けずに終わるように思われる人生の苦難の旅路を、神様は、わたしたちが心を込めて呼べば応え、さがせばすぐにやって来て出会って下さるように、寄り添い伴って歩んでいて下さる。これこそがわたしたちにとって本当の約束の地なのでしょう。
by oji-church | 2014-10-15 12:26 | 牧師からのメッセ-ジ
七十年後の約束(3)

★神様は「そのとき」と言います。この「そのとき」というのは、やがて救いが成し遂げられて捕囚の憂き目にあったユダヤの民が、再びエルサレムへと帰ることができた「そのとき」という意味ではありません。この「そのとき」というのは、捕囚に送られた人々が、捕囚の地バビロニアで日々を暮らし、その地にあったまま、やがては年老いて命果てていく「その」とき、という意味なのです。もはや故郷へと帰ることも許されない、もはや将来も希望も何も見えない、絶望しか見えないように思える「そのとき」、「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。これこそが救いではないか、とエレミヤは告げているのです。(つづく)
by oji-church | 2014-10-09 10:48 | 牧師からのメッセ-ジ
七十年後の約束(2)

★この手紙を読む人は、もはや生きて再び、神様が約束された場所へは戻ることはできないのだということを告げられているのです。それは、捕囚の地、バビロニアで、自分たちはやがて老いてゆき、息絶えることになるということを意味するものです。これは果たして捕囚の憂き目にある人たちにとって、救いの言葉、救いの約束と言えるでしょうか。
★しかしエレミヤは続けて、このように語ります。
「わたしは、あなたがたのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。
★もはや生きては再びエルサレムの地へ帰り着くことはできない。捕囚の地で年老い命果てていく運命が告げられます。けれども神様はその計画は決して災いの計画ではなく、平和の計画なのだと告げるのです。そして「将来と希望を与えるものだ」と。再び故郷へ帰ることもできず、捕囚の地で年老いていく運命が、どうして将来と希望を与える平和の計画だと言えるのでしょうか。(つづく)
by oji-church | 2014-10-01 15:05 | 牧師からのメッセ-ジ