日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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空のカラスを見ていると

★教会の前にゴミ置き場があります。このゴミをカラスが食べに来て散らかしていきます。だからゴミの日にはネットをかぶせています。けれども、ゴミの日でないのにゴミを出す人がいます。するとカラスはそれを見つけてゴミを散らかしてしまいます。それでカラスは嫌われ者です。だけれども本当は、次々に沢山ゴミばかり出していく人間がいけないのです。人間以外の動物は、みんな自分と自分の家族と自分の仲間が普通に生きることを大事にしているだけです。どうしてか僕たち人間だけが、生きるために本当に必要なものよりも「もっともっと」と欲しがって、それで戦争を起こしたり、自然を壊したりしています。
★イエス様は、僕らが「もっともっと」と欲しがるいろんなものよりも、もっとずっと大切なものがあると教えてくれます。それはわたしたちのいのち。イエス様は言われます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」。「もっともっと」と、美味しい食べ物や、カッコイイ服やカワイイ服を僕たちは欲しがるけれども、もっとずっと大切なものが、わたしたちのすぐそばにあります。それはわたしたちの命、わたしたちのこの体だということ。
★「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉も持たない。それでも、神さまはカラスを養ってくださる」。なにも仕事をしないカラスだって神さまは大切に思って、その命を愛してくださるということ。「あなたがたはカラスよりも、どれほど価値があることか」。わたしたち人間のことは、神さまはもっともっと大切に思っているということです。それはわたしたちが、仕事を沢山出来るからでも、頭がいいからでも、楽器が上手だからでも、絵が上手だからでも、スポーツが得意だからでもありません。わたしたち人間が決めたことではなくて、神さまが、どの命もとっても大切だと決めたから、命は大切なのです。嫌われ者のカラスだって大切だと神さまは決めました。だから、わたしたちがどんなにダメでも、わたしたちの命は大切なのです。(「花の日」こどもの日の礼拝で)
by oji-church | 2014-06-25 09:28
福島の苦しみ

★6月9日から11日にかけて、会津若松市の若松栄町教会を会場に開かれた「教団部落解放全国活動者会議」に出席してきました。主題は「『原発』という差別――フクシマの声に聞く」というものです。3日間にわたって、多くの人の言葉に耳を傾けました。「会津放射能情報センター」の取り組みをしておられる片岡輝美さん。強制避難者の方。自主避難者の方。農業従事者の方。国に対して子どもを疎開させることを求める訴訟を起こしている福島県の方々の弁護人。定期的に無料で子どもの健康相談をしておられる医師の方など。原発の事故から3年が経ってもなお、原発の被害は何一つ終わってはおらず、むしろ時の経過と共に県外の人の意識が薄れていくの中、福島の人たちは孤立感を深めていることを強く思わされました。
★避難地域への帰還が進められていますが、本来一般人の放射線の許容値であった年間1ミリシーベルトから、20倍の許容値20ミリシーベルトに引き上げられる中で、福島の人々は暮らすことを強いられています(これはレントゲン室などの「放射線管理区域」の基準を超える値です。人は誰も子どもをレントゲン室の中で育てようとは思わないでしょう)。また、家族が引き離されて暮らさざるをえない状況の中、県外の人の無理解から、差別的な言葉を投げかけられ、心も生活も深く傷つけられておられます。そんな中、甲状腺ガンを発症した子どもが90人に上っていることが伝えられています。けれども国は、原発事故と因果関係はないとうそぶいています。親は「なぜ自分の子が甲状腺ガンに?」という問いをどこにぶつければよいのでしょうか。
★東京に戻ってくれば、もう原発の事故など無かったかのように、以前の明るさの中でわたしたちは暮らしていることを知らされます。「わたしたちに何を求めますか?」という質問者の問いに、発言された方は「この状況をできるだけ多くの人に伝えてほしい」と訴えられました。東京の電気を作るために稼働していた原発の事故によって福島の人々に苦しみがもたらされています。このことを忘れずに、よく知るように努め、原発の再稼働を許さない声を挙げていくことが、東京に暮らすわたしたちの取るべき責任であるでしょう。
by oji-church | 2014-06-18 10:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「部分品」の福音?

〈はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない〉(マルコによる福音書10章15節)。
★レオ=レオニの絵本『ペツェッティーノ』は、体の小さな主人公が、自分は誰かの「部分品」じゃないかと思って、自分を探しに出るお話です。でも、どんな小さな存在でも誰かの部分品ではありません。
★子どもは価値の低い部分品だなんて思っていたら、神様が働いている場所には辿り着くことなんて到底できないよ、というのがイエス様の教えられたことです。でもこれは、聖書の中の弟子たちに限ったことではないかもしれません。子どもたちと一緒に礼拝を守る時、子どもが落ち着きなくて厳粛な礼拝の雰囲気が壊されてしまうとか、子どもと一緒の礼拝だと、牧師の説教が子ども向けになってしまって物足りなくなってしまうとか、そんなことを時々言われます。けれども、子どもに向かって語られる福音の価値と、おとなに向かって語られる福音の価値と、福音の価値には何の違いもありません。こどももおとなも誰一人部分品ではなくて、いのちの全部の重みを宿した同じ重さの存在であるように、子どもに向かって語られる福音も、おとなに向かって語られる福音も、いずれも福音の全部の重みを宿した福音であることに変わりはありません。
★子どもへの福音は決して部分品ではありません。落ち着きのない子どもと一緒の礼拝は、決して部分品の礼拝ではなくて、どの礼拝もいつも神様との出会いの全部の重みを宿した大切な礼拝なのです。これを、子どもと守る礼拝は部分品の礼拝、子どもと一緒に聞く福音は部分品の福音と思ってしまうのだとしたら、それはたぶん、神様との出会いの豊かさ、福音の豊かさの半分以上、いや、ほとんど全部を見失ってしまうことになるでしょう。なぜならどの礼拝もどの福音も、神様との出会いの全部、福音全部の重みを宿しているのですから。
by oji-church | 2014-06-12 09:52 | 牧師からのメッセ-ジ

アマリリス

植え込みのアマリリスが今年も大きな花をたくさん咲かせました。
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by oji-church | 2014-06-05 12:56 | みちばたの教会
「何かいいもの」が無くても(2)

★自分の子どもでなくても、たとえ見返りを得られなくても、子どもの命というのは大事に守り、育てていかなければならないものだ。そう思うことで、わたしたちは自分の命に限りがあっても、希望を持ち、永遠の命に生きることができるはずでした。そういう子どもの命の中に「わたしは命のパンである」と語るイエス様の命が宿っているはずでした。ところがわたしたちはいつの間にかそういう気持ちを失いつつあるのではないでしょうか。何年か後に、日本が世界のどこかで行われる戦争に加わっていき、そこで、今子どもである人たちの命が失われるようなことになっても、そのときには自分はもう生きていないからいい。何年か先に、原子力発電によって生じた放射性廃棄物がうずたかく積み上げられ、もう誰にもどうすることもできなくなったとしても、その時には自分は生きていないからいい。そういう価値観によって成り立つ社会にわたしたちは今生きています。その中で、わたしたちはいつの間にか、たとえ「何かいいもの」の見返りがなくても、一人の子どもの存在、一つの命の存在を、大事に思って、みんなで大切に守り育てていこうという人間本来に備わっているはずの気持ちを失ってしまってはいないだろうか、と考えます。
by oji-church | 2014-06-05 12:51 | 牧師からのメッセ-ジ