日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「何かいいもの」が無くても

〈朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。〉(ヨハネによる福音書6章27節)

★イエス様は「永遠の命に至る食べ物を『欲しがりなさい』」とは言わずに「永遠の命に至る食べ物の『ために働きなさい』」と言います。わたしたち人間が、「何かいいもの」の見返りが何もなくても、そのために働いてきたもの、あるいは少なくとも、何の見返りがなくても、そのために働くことが大事だと考えてきたはずのことが一つあるように思います。それは子どもたちの存在です。子どもたちのためにどんなに尽くしたとしても、その子どもが大人になる頃には、わたしたちはこの世を去っているかもしれません。その子どもたちから何の「いいもの」ももらえないかもしれません。だけれども人間は、子どもの命を大切にし、労して子どもたちを育ててきました。自分の子どもでなくても、子どもの命というのは大事に守り、育てていかなければならないものだ、たとえ見返りを得られなくても。そういう気持ちをわたしたち人間は自ずから心の内に宿してきたはずでした。(つづく)
by oji-church | 2014-05-29 13:59 | 牧師からのメッセ-ジ
平和の福音

★1月にパレスチナを旅して、多くの人と出会い、平和について様々に考えさせられました。その一つは、平和とは単に国と国との問題ではないということです。パレスチナの平和とは、パレスチナで出会ったあの人、この人、一人ひとりにとっての平和でなければならないということです。パレスチナで出会ったあの人、この人が、一人ひとり、安心して与えられた命を日々喜びを持って生きることができるようになるということ。仮にパレスチナとイスラエルの間に和平が結ばれたとしても、わたしの出会ったあの人、この人が本当に安心して、日々与えられた命を喜んで生きることができないのだとしたら、それは平和ではないということを思わされました。
★それはわたしたちにとって無関係なことではありません。わたしたちも一人ひとり、あの人、この人であるからです。世界中のどこへ行っても、一人ひとり、あの人、この人がいない場所はどこにもありません。この一人ひとりが、本当に与えられた命を安心して、日々喜びを持って生きることができるようになることこそが平和だと思えば、平和は国の違いを越えて広がってゆきます。
★もう一つは、キリスト教と平和の関係です。パレスチナ問題は、しばしばユダヤ教とイスラム教の宗教対宗教の対立だと誤解されます。パレスチナ問題とは、イスラエル国家が軍事的な暴力によってパレスチナの人々の住まう土地を奪い取り、パレスチナの人々が生きられなくしているという問題です。パレスチナ人の中には、古来からのキリスト教を受け継いできたクリスチャンたちがいます。パレスチナ全体の中では少数ですが、この人たちが、キリスト教の福音にのっとって、非暴力によって平和のための活動を繰り広げている姿に深く感銘を受けました。パレスチナ人とイスラエル人同士が平和のうちに出会い、心を寄せ合うことのできる場を、パレスチナ人クリスチャンたちが懸命に形作っています。その姿に接して、この世界の中でキリスト教に役割があるとすれば、それは平和を証ししていくを措いて他にはない、との思いを強くしました。
by oji-church | 2014-05-22 17:06 | 牧師からのメッセ-ジ
ほんとうのこと

★聖書は「本当のことを伝える」という意味で「証し」という言葉を使います。教会ではよく、信徒の人が自分自身の信仰について語ることを「証し」と呼びます。それは、それは神様やイエス様との出会いが「その人にとって本当のことだ」と打ち明けるという意味なのでしょう。それはとても大切なことだと思いますし、誰かが「自分にとって本当のこと」を打ち明けてくださることをわたしたちは大事にしなければなりません。ただ、それと同時にわたしたちは、「その人にとって本当のこと」をその人一人のものにするのではなく、それをみんなで、また多くの人たちと「ああ、本当にその通りだ」と思えるようにしていかなければなりません。本当に「ほんとうのこと」は、独りぼっちの胸に内にあるのではなく、わたしたちの「あいだ」にあるのです。例えば、「神様は俺だけを救ってくださる。他の奴らはみんな地獄行きだ」なんて、そんな独りよがりな信仰を、その人がどんなに独りで「本当のことだ」と思っていたとしても、それは決して本当に「ほんとうのこと」にはならないでしょう。
★韓国でその地の若い牧師さんたちと出会う機会を与えられました。その中の一人の韓国人の牧師さんが、「独島(日本で言うところの竹島という島)についてどう思うか」という質問を投げかけてきました。それに答えて、一緒に行った日本人の若い牧師さんが言いました。「わたしは、この島を日本と韓国が一緒に持つようにすればいいと思う」と答えました。すると質問した韓国の若い牧師さんがにわかに立ち上がりました。顔には、嬉しそうに満面の笑みを湛えて「俺も、全く同じ考えだ」と言って握手を求めてきました。こうして一緒に喜ぶことができることこそが本当に「ほんとうのこと」、聖書が語る「真実」「真理」というもであり、まさに「喜ばしい知らせ」つまり「福音」というものなのでしょう。
by oji-church | 2014-05-14 09:22
わたしたちの罪をのりこえて

★主イエスの十字架と復活を憶え、わたしたちに与えられた神様の救いと恵みをあらためて思い起こしましょう。
★「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と語りながら、繰り返し主を否んだペトロに対してなお、主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語って、再会を約束してくださいました。
★わたしたちは自分の言葉と行いが、真実を偽って、自分を装い、主を裏切るものであることを知ることができず、そのことによって人間同士が真に和解することができない苦しみのうちに自分自身を置いています。そうしてなお自分自身の偽りの言葉と行いを頼りにし、そうして自分自身を誇ろうとしています。
★しかし主イエスはなお、そのようなわたしたちに向かって、ガリラヤでの再会を約束してくださいます。わたしたちは皆、主を裏切る者でありながら、なお主イエスによって再会を約束され、主イエスによって呼び集められた者に外なりません。ここには主を十字架の死へと引き渡したユダもまた、呼び返されています。
★今夕、主イエスの十字架の死を憶える受難日を迎えるわたしたちが、このようにわたしたちの罪をのりこえて、傷ついた体をもってわたしたちを呼び返し、共に生きようとされていることを思い起こし、おのおのの信仰を振り返り、それぞれの生き方、教会のあり方、社会の状況や世界のありさまが、神さまの御心、愛、正義、慈しみに沿ったものになっているか、心から吟味し、イエスさまのもとへと立ち返る者でありたいと願います。(王子教会受難日夕礼拝式文より。『礼拝の詞1』(日本聖書神学校刊)を参考にしました)
by oji-church | 2014-05-07 13:39 | 牧師からのメッセ-ジ