日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「ふり返る」という姿勢

「わたしの父はいまもなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)。

★神様の働きというのは、無条件で、人が人間として生きることができる命を紡ぐ働きです。神様はその無条件で命を紡ぐ働きを今日も今も働いておられるということです。イエス様は振り返って、自分の命にも、隣人の命にも注がれる、その神様の働きを見つめ、向き合います。そうして「わたしも働く」と言って、神様のその働きにご自身も加わっていかれるのです。信仰というのは、この「振り返る」という眼差し、「振り返る」という仕草をわたしたちに教えるものではないでしょうか。
★わたしたちは誰しもが「正しい信仰の持ち方」に収まりきらない「凸凹」を抱えた存在です。それが「罪」だと言われれば、わたしたちみんなが「罪人」に違いありません。信仰ばかりでなく、心にも体にもそれぞれどこかしらに病や欠けを負って生きています。神様はそうしたわたしたちの罪や病や欠けをすべて越えて、無条件にわたしたち一人一人に向かって「生きなさい」と呼びかけ、「あなたは人間として生きていいのだ」と語りかけ、命を紡ぐ働きを今日も今も働いておられます。イエス様がわたしたちに呼びかけるのは、そういう神様の働きが、わたしのこの命にも、あなたのその命にも、ずっと注がれ続けてきたこと、そのことに、振り返ってまなざしを注ぐこと、振り返ってその神様の働きに向き合ってみること、なのです。逆に、わたしたちがどれだけ清く正しく、「あるべき信仰」の形通りに生きていたとしても、この「振り返る」という姿勢や眼差しがそこになければ、それは「信じる」という生き様ではないでしょう。わたしたちの生き様はいつも「後知恵」です。後から振り返ってみて、そこに神様の働きが注がれていることに気づくものです。でもそれでいいのだ。振り返ってその働きを見つめ直し、向き合い直して、そうしてもう一度「わたしも働く」と言って、神様の働きに加わっていく新しい一歩を踏み出していくことです。
by oji-church | 2014-03-27 08:41 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛するということ」(3)

★フロムは「愛とは与えることであって、もらうことではない」と言います。といってフロムは決して、献身的な自己犠牲の精神を説いているのではありません。フロムが言っているのは、わたしやあなたという一人一人個性を持った存在を「人間」として大切に思うということ、相手に配慮し、責任を持ち、尊重し、知る、ということ。そのために自分という人間を用いるということ、すなわち自分を与えるということ、です。自分は「愛する」力を持った存在であると自分自身を信じ、自分をも一人の「人間」として愛すること、自分を尊重することができなければ、当然人を愛することもできません。そういう意味で「愛すること」は自分を犠牲にすることではないのです。
★いずれも簡単なことではなくて、だからこそフロムは「愛すること」ができるようになるためには修練が必要だと言うのですが、でも、そういう「愛すること」、「愛されること」ではなくて「愛すること」を通じてこそ、はじめて人間は本当の意味で孤独から解放されるのだとフロムは説くのです。一生かかることかもしれません。そういう意味では実は「愛するということ」は「生きるということ」だと言えるのかもしれません。
★あなたは何を喜ぶだろうか。愛されることを喜ぶだろうか。いや、そうではなくて、愛することを、それを通じて、わたしたちがお互いに出会い、結び合い、そのことによって孤独から本当の意味で救い出されることを喜びはしないだろうか。聖書はわたしたちに向かってそんなふうに問いかけているような気がいたします。

by oji-church | 2014-03-19 12:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛するということ」(2)

フロムが言うのは、「愛する」という振る舞いは、自然と心の底からわき上がってくるような気分や感情ではなくて、あたかもスポーツ選手が技量を磨くために練習を重ねるように、修練を積み重ねて初めて人間は「愛する」ということが出来るまでに成熟するのだということです。自然と心の底からわき上がってくる気分や感情としてわたしたちが普段思い描いている「愛」というのは実は「愛されたい」という欲求に過ぎないのです。この欲求をたどっていっても、あるときに一時的にはその欲求が満たされて、孤独から解放されたように思えるかもしれないけれども、それは決して長続きするものではない。また孤独が押し寄せてきて、また更に別の、自分を「愛してくれる」対象や刺激をわたしたちは求めるようになるのです。フロムは言います。「愛とは与えることであって、もらうことではない」と。(つづく)
by oji-church | 2014-03-12 12:10 | 牧師からのメッセ-ジ
「愛するということ」

★いまNHKの教育テレビで「100分で名著」という番組をやっています。いわゆる「名著」とされている小説や古典文学や哲学書や科学書などを分かりやすく解説してくれる番組で、結構欠かさず見ているのですが、いま取り上げられているのはエーリッヒ・フロムという心理学者の『愛するということ』という本です。わたしにとってはまだ学生だったころに一度読んだことがあるような、遠いかすかな記憶しなかった本ですが、この番組で取り上げられているのを見て「なるほど、そうだったのか」と改めて納得させられた点がありました。
★この本のなかでフロムは、すべての人間は、孤独から解放されるために愛を求める存在であると語っています。なるほど確かに「愛」は孤独の対極にあるものと言ってよいでしょう。しかし、ここからがフロムの真面目なのですが、多くの人が「愛」を求めているようでありながら、実は多くの場合人々が求めているのは「愛されること」だと言うのです。どうすれば自分は人から「愛される」存在となれるか。「愛」という言葉でもって人々が思い描くのは、ほとんどの場合、そういう「受け身」の「愛」だと言います。その一方で、わたしたちはしばしば、自分には人を愛する愛情が足りないと感じています。どうして自分には人を「愛する」愛が足りないのか。この問いに対するわたしたちが思い至る答えは、しばしばこういう答えです。「それは、相手が『愛される』に足る存在ではないからだ」と。こうしてわたしたちは「愛」という言葉でもって、往々にしてただただ「愛される」事ばかりを問題にしているのだと。
★でもわたしたちが本当に人間として生き、本当に孤独から解放されるために必要なのは、「愛される」ことよりもむしろ「愛する」ことなのだとフロムは語ります。(つづく)
by oji-church | 2014-03-05 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ