日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「幻がなければ」

〈幻がなければ民は堕落する。〉(箴言29章18節)。

★パレスチナの町ヘブロンは、アブラハム終焉の地とされ、そのお墓があるとされるモスクも建っています(アブラハムはイスラム教でも預言者の一人に数えられ崇敬の対象とされています)。現在パレスチナ人による自治が行われているこの歴史的な町を、イスラエル政府はパレスチナ人からぶん捕ろうと、いたるところでパレスチナ住民を追い出し、そこにイスラエル人の入植地を造り、重いコンクリートの分離壁で囲み、町のあちこちにチェックポイントを設けて、パレスチナ住民の生活を不自由にしています。
★パレスチナ人のイッサ・アムロさんは、それらイスラエル軍によって取り上げられたパレスチナ人の住居を、裁判を起こして取り戻す運動を進めています。厳しい裁判闘争を経て奇跡的にも取り戻せた場所は元の持ち主から買い上げて、パレスチナ人が集える公共施設を造ります。その一つである幼稚園に案内されました。その地域にはそれまで幼稚園はありませんでした。古い建物を造り替えた小さな幼稚園は、入植地の一見モダンで清潔そうな建物には及びもつきませんが、パレスチナ人にとっては夢にあふれた場所です。
★イッサ・アムロさんは、また土地を取り戻して今度は劇場を作りたいと夢を語ります。みんなが集まって映画を見たり、劇を演じたり、夢を語り合ったりする場所。圧倒的なイスラエル軍の支配下にあってはほとんど不可能と思える夢です。しかしその夢を聞けば、イスラエルが作るコンクリートの塊のような建物とは違う、喜びに満ちた豊かな場所を思い描くことができます。この違いはいったいどこから来るのでしょうか。
★それは、人が夢=幻を持っているか否かの違いかもしれません。幻を持たなければ、人はやがて物質=モノの力に取り込まれ蝕まれて、人間であることをやめてしまいます。幻を持つ人の住む町と幻を持たない人の住む町とがコンクリートの壁に分かたれています。日本の社会はこの壁のどちら側に建っているのか考えさせられます。
by oji-church | 2014-02-26 09:29 | 牧師からのメッセ-ジ
「独り子を信じる者」

〈神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである〉(ヨハネによる福音書3章16~17節)。

★ここでわたしが引っかかるのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉です。神様は「世を愛する」と言いながら、「滅びない」でほしいと願っているのは、独り子を「信じる者」だけ、ということにはならないだろうか、と気になるのです。
★パレスチナの旅では、多くの人が、宗教が違っても、人種が違っても、民族が違っても、住む場所が違っても、お互いに同じ人間同士ではないかと言って、わたしたちをこの上なく温かく迎えてくれました。そんな出会いの中で、わたしは「独り子を信じる者」というのが、ただキリスト教の信仰を持つクリスチャンという意味ではないと思うようになりました。それは「たった一人の人間でも、たった一人の小さな赤ちゃんでも、その人が人間であるという理由で、大事に思う人」という意味ではないかと思うのです。そういう人が「一人も滅びないように」というのが神様の願いだと思うのです。そういう願いを込めて、神様はこの世に独り息子を送られたのだということです。この一人の人、この一人の赤ちゃんを、人間だという理由で、大事にしてほしいという願いを込めて、です。
★神様はどこまでも、この世を裁こう(分離しよう)とは思わず、この世を救おうと、この世を助け、この世を守り、この世を大事にし、この世を愛そうとされる神様なのです。そのために一人の人を、一人の赤ちゃんをこの世に送られました。この一人の赤ちゃんがこの世の本当のありようを照らす光だと聖書は語ります。わたしたちも同じように、この世を照らす光としての小さな命を一つずつ与えられていることを忘れないようにしたいと思います。
by oji-church | 2014-02-19 12:50 | 牧師からのメッセ-ジ
「風と霊」(4)

〈「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章1~8節)。

★イエス様は「人は、新たに生まれなければ、霊によって生まれるのでなければ、神の国に入ることはできない」と語っていました。そこで、「霊」とは「風」であり、神様の「息吹」でもあって、それは「命の源」を表すものです。「霊」とか「命の源」と言っても、そんなに難しいものを想像してはいけないのかもしれません。わたしたちが生きていくために、日々の食事を作り、食べ、飲み、わたしたちは一人では生きては行かれないから、人と出会い、触れあい、一人では生きられないから、出会う一人ひとりを大切に思い、助けたり、助けられたりして生きる、そういう当たり前の日常、ありのままの一日一日を大切に、丁寧に生きる中に、霊、すなわち命の源はあるのです。
★パレスチナに行って、いろいろと厳しい状況を見聞きしてきましたが、本当に厳しい厳しい抑圧の中にあっても、出会う人一人ひとりを大切にして、丁寧に一日一日を生きている人たちが大勢おられました。まさにこの女性の姿に重なります。遠く離れた場所に暮らしているわたしたちであり、お互いにお互いのために出来ることはなかなか見つからないのですが、まずは出会う一つ一つの事柄を大切に丁寧に、知り、触れて、関心を向けること、心を向けることが大事ではないかと思います。そういう時、そういう場こそが神様との出会いの時、神様との出会いの場、ほんとうの出会いとなり、このほんとうの出会いを一つ一つ大切に丁寧に積み上げていく中で、ほんとうの平和というものが造られているのだと思います。
by oji-church | 2014-02-12 10:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「風と霊」(3)

〈さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。……「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章1~8節)。

★このニコデモという人もまたわたしたちと同様に、ファリサイ派に属するユダヤ議会の議員という大層な地位と肩書きを持って、自分は何でも心得ていると思い上がっていたのではないでしょうか。そうしてイエスの行った「しるし」を見て、これは神様のもとから来る力による「しるし」だと見極めた。そういう眼力を自分は持っている。そういう自信を持ってイエスのところを訪ねてきたのではないか。自信たっぷりに。しかしイエス様はそんなニコデモに言うのです。「風は、神様の息吹はどこから来て、どこへゆくのか分からないだろう。わたしたちはそういう人知を超えた、大きな大きないのちのただ中に、その一部に加えられて生きているに過ぎない存在なんだ。そういう大きな大きないのちの流れの中に自分のいのちというものをもう一度置き直してみるのだ。そうでなければ「神の国を見ることはできない」。神様の働きを見つけ、神様の働きに連なることなどできないのだ、ということ、です。「新たに生まれる」ということは、どこから来てどこへ行くのか分からない風の吹き渡るこの大きな大きな世界、その大きな大きな命の中に、自分自身のちっぽけな命をもう一度、置き直してみるということなのでしょう。そうでなければ、本当に大事なことは分からないのだよ、とイエス様は言われているのではないでしょうか。
by oji-church | 2014-02-06 09:35 | 牧師からのメッセ-ジ
「風と霊」(2)

★命は神様の息吹を吹き込まれて初めて生きる者となり、この世界はその目に見えない神様の息吹で覆われており、時に吹き渡る風のなかにわたしたちはそれを感じることができるのだけれど、その神様の息吹、風、霊、プネウマがどこから来てどこへ行くのか人には計り知れない。古代の人たちは、そのように考えていました。
★古代の人たちの幼稚で迷信的な考えと言って切り捨ててしまえばそれまでです。だけれども、古代の人たちはそういう人知を超えた大きな力の中で、神様の見えない力を吸い込むことによって、いのちは初めて生かされているものなのだと考えました。現代人は、自分たちの科学的知識によって何でもかんでも分かっているというように思い上がって生きています。しかし、わたしたちの周りには人の力を超えた働きがわたしたちを包んで働いているんだ、そのお陰でわたしたちは生きることができているんだと考えた古代の人たちのその謙虚さの方が、わたしたちにとってはいま何よりも必要なものなのではないかと思うのです。
by oji-church | 2014-02-06 09:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「風と霊」(1)

〈はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。……風は思いのままに吹く。あなたたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。〉(ヨハネによる福音書3章5~8節)。

★ここに突然「風」という言葉が出てくるのですが、実は聖書のギリシア語では「霊」と訳されている言葉と「風」と訳されている言葉は全く同じ「プネウマ」という言葉なのです。だからここでは「プネウマは思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。プネウマから生まれる者も皆そのとおりである」と書かれているのです。当時、人々は「風」というものと「霊」というものを区別していなかったのです。神様の息吹である「霊」が吹き込まれて、初めて命は「生きる」ものになります。同じものが空を渡り、海を渡り、山を越えて吹き渡る世界にわたしたちは生きている。そう考えていたのです。その吹き渡っているものをわたしたちは吸って生きているわけです。「空気」などという言葉はありませんし、地球は窒素、酸素、二酸化炭素からなる大気に覆われており、風は地球の自転によって起こる気流の流れである、なんていう所謂「科学的知識」も当時の人は持ち合わせていません。ただ、命は神様の息吹を吹き込まれて初めて生きる者となり、この世界はその目に見えない神様の息吹で覆われており、時に吹き渡る風のなかにわたしたちはそれを感じることができるのだけれど、その神様の息吹、風、霊、プネウマがどこから来てどこへ行くのか人には計り知れないと考えていたのです。
by oji-church | 2014-02-06 09:32 | 牧師からのメッセ-ジ