日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「現実に寄り添う言」

〈言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた〉(ヨハネ福音書1章14節)

★ヨハネによる福音書は神様の「言」が、「肉」となって「わたしたちの間に宿られた」と語ります。つまり神様が現実の世界の中に現実のわたしたち人間のありようで生きられたということです。人間の現実のありようは、生まれた瞬間から食べ物を欲し、成長すれば快楽やらお金やらなにやらかにやら一生の間ずっと何かを欲して喘ぎ続け、結局最後には朽ち果て塵となって滅び去っていくもの。強くも立派でも美しくもなく、惨めきわまりないものです。しかし聖書が語るのは、そんな惨めきわまりない人間の現実だけれども、ただ一つ、ひとりぼっちじゃないということ。惨めな現実の人間のありように対して、神様の方から近づいてきて、その現実に寄り添い、神様自身がその惨めなありようにその身を浸して、共に生きられるのだ、ということ。神様の「言」が「肉」となって、わたしたちの現実に寄り添って生きるのだということです。
★ケセン語訳の聖書を著された山浦玄嗣さんは、この箇所をこんなふうに訳されています。「神さまの思いが、こうして人の体をまとって、われらが間に住まいしなさった。われらはこの方の輝くようなお姿を見た。父(とと)さまからよこされた一人息子のこの方の、優しくて、親切で、嘘偽りの影もない、輝くようなお姿を見た」。
★イエス様は言葉面だけの嘘偽りをせずに、自分を強く立派で美しい者に見せかけようなどとはせず、あの惨めな現実の人間のありようそのものを生き通された。でもイエス様はそうすることによって、この現実の人間のありようは、それがどんなに悲惨極まりないものであったとしても、決してひとりぼっちではなく、生まれる前からも死んだ後にも神様が寄り添い伴われる現実の中にあるものだということを示されたのです。そういう、人をひとぼっちにしない、優しくて、親切な、神様の「思い」をイエス様はその人生全体、体全体をもって示されて生きられた、ということです。
by oji-church | 2013-10-30 17:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「脇役人生」

〈神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。〉(ヨハネによる福音書1章1~5節)

★聖書は洗礼者ヨハネは脇役であると語ります。しかしイエス様もまた、この福音書では世の中から受け入れられず、脇へと追いやられていくのです。だけれども、追いやられたその「脇」にこそ、神様はまなざしを注がれるのです。洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスによって退けられ、イエス様はユダヤのエリートとローマ総督ポンテオ・ピラトによって退けられる。けれどもその退けられゆくその人を大切に思い、それに従って共に脇へと歩み出していく人々がいた。最初の時代のキリスト者たちです。その人々は、神によって生まれた人たちだ、と聖書は語ります。他の誰よりも、この脇へと追いやられ、またそれに従って脇へと歩んでいく人々と共に神様はおられるということ。この神様こそ本当の主役に外なりません。他に主役はいないのです。人間だれしもが本来脇役なのです。でもこの脇役を本当に一生懸命に演じていくときに、そこに光が注がれるということです。
★人類はある時から、自分こそが歴史の主人であると思いなすようになりました。けれども今、そのようにわれこそ主役と振る舞ってきた人類が、その舞台たる世界を、地球を台無しにしてしまっていることが明かになってきています。人類は決してこの世界の主役ではなかった。聖書はむしろ人類が脇役として果たすべき役割がたくさんあることを告げています。どうかわたしたち一人ひとり誰もが、洗礼者ヨハネに従い、イエス様に従って、名脇役として、果たすべき役割をしっかりと果たしてゆきたいものです。
by oji-church | 2013-10-23 15:02 | 牧師からのメッセ-ジ
「現実に立ち向かうために」

〈初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。〉(ヨハネによる福音書1章1~5節)
★わたしたちの現実には、さまざまな問題や課題があふれかえっています。果たしてわたしたちはその現実を直視して、それに立ち向かい、それを担い、乗り越えることが出来ているでしょうか。原子力の問題、戦争の問題、貧富の格差や飢餓の問題、軍事力によって生活を脅かされている人々のこと、沖縄の人々のこと。そうしたこの世の現実の問題や課題の一つ一つを自分自身の事柄として向き合い、引き受け、立ち向かい、乗り越えていこうという意志を確かに持っているかどうか。むしろそうした現実の問題や課題からは目を背けて、ただ自分の身の回りの損得の勘定だけを見るようにして生きてはいないだろうか。そういうわたしたちのありようを聖書は「暗闇」と呼んでいます。現実にいろいろな問題や課題があるけれども、誰もそれを直視しないなら、それは見えないも同然、この世は暗闇というわけです。しかしこの暗闇の中に光は輝いていると聖書は語ります。この世の現実を越えたところで、光は輝き続けている。命の源である言(ことば)、イエス様はわたしたちを照らし続けていると。
★「初めに言があった」から、「命は人間を照らす光であった」までは全部過去形で書かれています。「暗闇は光を理解しなかった」という最後の言葉も。でも一つだけ、「光は暗闇の中で輝いている」という言葉だけは現在形で書かれています。この世の現実がどれだけ暗く希望を持てないものであったとしても、イエス様は今もこの世を越えたところから命の源として、光をこの現実の世界に投げかけているんだ。光を輝かせているんだ、ということです。わたしたちは、この光=命の源からこの現実の問題や課題を直視し、向き合い、立ち向かって、乗り越える力を与えられるということです。
by oji-church | 2013-10-16 15:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「年寄りで何が悪い?」

★「敬老の日」というのは、兵庫県多可郡野間谷村(今は兵庫県多可町八千代区となっているそうですが)の村長と助役が1947年に「としよりの日」というのを提唱したのが始まりだそうです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」ということで、農閑期に当たって気候もいい9月中旬の15日を「としよりの日」と定めて敬老会を開くようになったそうです(ウィキペディアより)。その後「としより」という表現が良くないということで「老人の日」と改称されて、やがて国民の祝日として「敬老の日」と定められるようになったということです。
★「『としより』という表現が良くない」とされて「老人の日」とされたというのが気になります。確かに辞書を調べると「年寄り」という見出し語の後には「年寄りの冷や水」だとか「年寄りには新湯(あらゆ)は毒」など、高齢者を戒める言い回しが並んでいます。ただそればかりではなくて、「としより」という言葉には「武家の政務に参与した重臣」とか「江戸時代、町村の住民の長であった役名」などという意味が記されています。あるいは「年寄り役」として「老年であるため、経験に富んだものとして物事の取り扱いを任せられること」といった言葉もあって、「としより」という言葉には必ずしもマイナスの意味合いばかりが込められているわけではないのです。
★ですが「年寄り」という言葉は避けられるようになり、その後「老人」という言葉が用いられるようになりました。最近は「老人」という言葉も避けられ「高齢者」という言葉が使われるようになっています。
★しかしどうなのだろうか。「年寄り」から「老人」へ、「老人」から「高齢者」へと、言葉は味のある、手触りの感じられる言葉から、だんだんと無機質な言葉へと変わってきています。それと共に、歳を重ねた人に対する対応も肌身触れ合う関係から、無機質な制度上のものへと変わっていっているのではないでしょうか。もう一度「としより」という言葉本来の意味へと立ち返ってみてはどうかと思う。その人のところに人生の深い年月が寄り集まっているということを感じ受ける感覚へと立ち返るということです。
by oji-church | 2013-10-09 11:09 | 牧師からのメッセ-ジ
「目が悪くなっていないか」

〈『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 〉(ヨハネ20:12~15) 。

★この主人の台詞の最後、「わたしの気前のよさをねたむのか」を、もとのギリシア語通りに訳すと「わたしが良いので、あなたの目が悪いのか」となります。元々の意味をあえて言えば、「わたしがよいことをしているのがわからないくらい、あなたの目は悪いのか」という感じになるでしょうか。「わたしがよいことをしている」とはどういうことか。それは「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたい」と思うことでしょう。「この最後の者」とは、高齢の人、子ども、しょうがいや病気を負っていて「役立たず」と見なされて、一日中寄せ場に立ち続けたにもかかわらず、誰にも雇ってもらえなかった人たちです。この人たちにも同じように支払ってやりたいと願うこと、それがいいことだと分からないくらい、それが不公平なえこひいきに見えるほどに、あなたの目は悪くなってしまっているのか、とこの主人は問うているのです。
★いろんな経済効果を複雑な計算式で割り出すほどにわたしたちは賢く未来を見通せるようになっているかも知れません。けれども、そのことによってむしろわたしたちが失ってしまっている大切なものへの眼差しというのがあるのではないか。どんな命にも意味があり、価値があり、それは数字では計ることはできないということ。その命の意味と価値とは、出会い触れ合って初めて分かるということ。その命の意味と価値とを数字でもって計って、効果が期待できないと言って捨ててしまったのでは、もうわたしたちには未来がないということ。本来わたしたちは、そういうことをしっかりと見つめる目を持っていたはずなのに、その目を悪くしてしまってはいないか、と問われているのです。
by oji-church | 2013-10-02 14:28 | 牧師からのメッセ-ジ