日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30

<   2013年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

「死では終わらない」

〈イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った〉(ヨハネ11:33~36) 。

★友人ラザロの死に直面してイエス様も「涙を流された」と言われます。人々は、イエス様もラザロの死を悼んで涙を流したと受け取ります。しかしイエス様はラザロの死を悼んで涙を流されたのではないと思う。ラザロの姉のマリアが泣き、一緒に来た人たちも皆泣いているのを見て、イエス様は「心に憤りを覚え、興奮して『どこに葬ったのか』と言われた」とあります。イエス様は泣くよりも前に憤っている。何を憤っているのか。
★11章3節、初めてこのラザロについての知らせがイエス様のもとに届く場面。イエスはその知らせを聞いてこう言われます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。多くの人が常識的な予測・判断に沿って「もうお終いだ。もう泣くしかない」と思っている最中にあって、イエス様は「死では終わらない」という所に最後まで踏みとどまるのです。神様はものごとを決して死では終わらせないのだ、ということ。絶望的な死による終わりが乗り越えられ、神様は絶望に抗して、人々の切なる願いが満たされる喜びの時を必ず与えられるのだということ。そういう「信」をイエス様は決して手放さないのです。そういう喜びの時が必ず与えられるというイエス様の「信」こそが、福音、「喜ばしい知らせ」というものです。決して打ち消すことのできないこの「信」を、人々は省みずに、だれもが絶望を前にうちひしがれ、泣いている。そのような、絶望に脆くも膝を屈してしまう人々の有様に、イエス様は憤りを覚え、人々のそのような有様を悲しんで涙を流したのではないのかと思うのです。
★東日本大震災から2年と半年が経ちました。あの被災、原発事故による被害を忘れさせ、うやむやにしようとする絶望の力に対し、わたしたちはイエス様の「信」を携えて抗し、希望をもって進んでゆきたいと思います。
by oji-church | 2013-09-25 14:52 | 牧師からのメッセ-ジ
「オリンピックという目隠し」

★2020年オリンピックの東京での開催が決まりました。日本の首相は招致スピーチで「状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」(首相官邸ホームページより)と述べました。また、「まったく問題ない。汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内の中で完全にブロックされている」とも述べました。
★しかしこれはあからさまな「ウソ」に外なりません。確かに福島第一原発の港湾にはより狭い範囲の部分に汚染水の漏出を防ぐシルトフェンスという薄い膜が張られていますが、それを越えた外側の港湾内で高濃度の放射性物質が検出されています。そしてこの外側の港湾と外海とを遮断するものは何もなく、この外側の港湾内と外海とは一日に50%の海水が入れ替わっていると言われています。また他の排水溝からも港湾外の海に放射性物質が漏れ出していることが分かっています。
★1936年、ヒトラー政権下のベルリンでオリンピックが開催されました。当初ヒトラーはオリンピックは「ユダヤ人の祭典」であると難色を示していたそうです。それを側近らは、「大きなプロパガンダ効果を期待できる」と説得して、開催の承諾を得ました。オリンピックは、プロパガンダ(政治的宣伝)に大きな力を発揮するものなのです。プロパガンダは、ある政治的勢力を持つ人々に都合のよい情報を大きく示し、それ以外の情報を見えなくさせる手法です。
★今それと同じことがおこりつつあるのではないかと危惧しています。現に9月7日の東京での開催決定以後、福島原発の汚染水の問題を報じる報道はほとんど見られず、オリンピックのお祝いムードばかりが繰り返し報じられています。わたしたちは「オリンピックという目隠し」をされようとしていることに注意しなければならないと思います。
by oji-church | 2013-09-18 08:36 | 牧師からのメッセ-ジ
「もう一匹の羊」

〈「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」〉(マタイによる福音書18:12)
★ここを読んでいて最近ふと気付かされたのは、イエス様が「迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」と、問いかけているところです。「羊飼いというものは、一匹が迷い出たとしたら、九十九匹を山に残して置いてでも、捜しに出かけるものだ」と言い切るのではなく「捜しには行かないだろうか」とわたしたちに向かって問いかけ、尋ねかけているのです。
★確かに、たった一人の自分を見つけ出すまでどこまでも捜しに来てくれるイエス様と思えば、慰められるのですが、ひとたび現実に戻って「九十九匹と一匹とどちらが大事か?」と問われると、九十九匹の方が大事に思えてきます。一匹を捜してどこまでも出かけていくというのは、お話としては美しいものだけれでも、現実はそうはいかない。これはあくまで宗教上のこと、わたし一人の心の慰めであって、現実を形作っていくときにはそうはいかない。そういうふうに、わたしたちは宗教上の個人的な心の慰めと、現実社会の事柄とを分けて考えることに馴れてしまっています。でも、そういうわたしたちに向かってイエス様は尋ねかけてくるのです。「本当に、それでいいのかい?」と。
★わたしたちは九十九匹の中にいる。だけれども、わたしたちは九十九匹の中にあって、イエス様から問いかけ尋ねかけられている一匹でもあるということ。言い換えれば、わたしたちは迷い出た一匹と、それを捜して出かけていくイエス様と、そして、わたしたちの後ろにいる九十八匹との間にいるもう一匹の羊なのだということです。実は誰もがそんな迷い出た一匹と九十八匹との間にいる一匹、また一匹なのです。イエス様に「それでいいのかい?」「あなたはわたしと一緒に一匹を捜しに出かけないのかい?」と問いかけ、尋ねかけられている一匹なのだということ。
by oji-church | 2013-09-11 11:19 | 牧師からのメッセ-ジ
「千厩教会会堂・牧師館献堂式に出席して」

★先週8月30日(金)に、岩手県一関市にある千厩教会の会堂・牧師館の献堂式に出席してきました。千厩教会は戦後、日本基督教団の「東北地方特別開拓伝道」という伝道計画によって建てられた教会です。しかし東北の小さな町でキリスト教の伝道は困難を極めたことと思います。教会が建っていたのは川岸の地盤が脆弱な砂山の上でした。これまで2003年の三陸南地震、2008年の宮城・岩手内陸地震に遭い、崖の上に建つ老朽化した教会堂は危険な状態でした。それが2011年の東日本大震災によってもはやそこに人が住むことはできない建物となってしまいました。
★教会員10人余りの小さな教会です。その教会にとって新しい会堂を建てることは想像すらできないことだったかもしれません。でも東日本大震災をきっかけとして、奥羽教区の諸教会をはじめとして多くの人々の祈りと支援によって、震災から2年と5ヶ月で新しい土地を得て、新しい会堂・牧師館を建てることができました。教団からの融資金の返済の目処も立ちつつあります。
★献堂式に出席して印象的だったのは、奥羽教区の諸教会のつながりの篤さ、温かさでした。宮古教会の森分和基牧師は、同じ岩手県内ですが車で3時間の道のりを駆けつけられました。青森県からいらっしゃった方々も数多くおられました。会場の準備や後片付けは、千厩教会の教会員だけでなく岩手地区の諸教会の方々が、まるで自分の教会であるかのように率先して行っていました。恐らく岩手地区の諸教会の方々にとって千厩教会は、自分が所属している教会でなくても「自分の教会」なのです。皆がわがこととして千厩教会の会堂・牧師館の献堂を喜んでおられました。東京にあるわたしたちが学ぶべきことの多くがそこにあったような気がします。
★皆が感謝すると共に、これからが復興の長い道のりの始まりであることを強調されました。その歩みを、東京から、少しでも共にしてゆきたいと願うものです。
by oji-church | 2013-09-04 09:16 | 牧師からのメッセ-ジ