日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「『いいこと』と『悪いこと』」

★参議院選挙の結果が出て、政権与党の圧倒的な勝利に終わりました。首相は憲法改訂については控えめですが、早速「集団的自衛権」行使に向けた憲法解釈の変更をにおわせています。どうして、憲法改訂や国防軍の設置など、このように好戦的なナショナリズムを煽ろうとするのでしょうか。
★確かに首相は、そうした好戦的な性格を持つ人なのかもかもしれませんが、思うに、TPP参入などグローバリズムの席巻によって、いま日本の社会は解体のとば口に立っています。これによって今後ますます、格差や貧困が広がることが予測できます。そのことを政治に携わる人たちも知っています。そこで対外的な危機を煽って、軍事的な仕方で日本社会の結束をつなぎ止めようという思惑があるように思えます。一方、日本が軍隊を持つ国になれば、軍事技術を輸出入することによって経済を回していくことが可能になります。実際にいま日本の政府は、あの福島原発の事故にもかかわらず、原発を海外に輸出することに躍起なっています。
★これによって中国や朝鮮、韓国を牽制する一方、経済も回っていくことになる。それは一見すると、いまある日本を巡る問題を一挙に解決する夢のような仕組みのようにも思えます。しかしそのとき、わたしたちの社会はどのような変化を被ることになるのか想像してみなければなりません。
★軍事的な結束というのは、弱い立場にある者がこの結束に役に立つ限りはその者を守ろうとしますが、そうでなければバッサリと切り捨ててしまいます。人は多くの場合、「いいこと」は自分のもとに来るかもしれないけれど、「悪いこと」は自分のもとにはこないだろうと判断するものです。しかし軍事的結束とは、戦争をするための結束であり、戦争は「悪いこと」以外のなにものでもありません。そして戦争によって被害を被るのは、一人の例外もなくすべての人であることを忘れてはならないと思います。
by oji-church | 2013-07-30 14:32 | 牧師からのメッセ-ジ
「背中に注がれるまなざし」

★(承前)イエス様の宣教の働きとは、豊かさと貧しさという人同士を隔てる壁を具体的に打ち破って、生身の人間同士として出会っていこうという運動であったと思います。でもそれは、とっても難しいことだった。人はなかなか生身の人間になりきれずに、自分自身を財産だとか、地位だとか、立場だとか、ずるがしこさだとか、そういうもので身構えてしまうもの。そういう構えを解くことがどれだけ難しいことか。
★この人は最初「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエス様に尋ねてくる人として登場します。彼はまず「善い先生」とイエス様に向かって「お追従」を述べることで身構えています。そうして「永遠の命」といういわば最強の鎧を身にまとうことを目指して、子供の頃から、聖書に語られる戒めをあれもこれもと守ってきた。そういう具合に、あれもこれもと、自分を守る「構え」を身につけてきたということです。そういう彼に向かってイエス様は「彼を見つめ、慈しんで言われた」と書かれています。この場面には一貫して、イエス様の人を見つめる「まなざし」が注がれているのです。そしてそれは、人への「愛おしみ」を持ったまなざしなのです。
★彼は悲しみながら去っていきました。人が自分の構えを解いて、生身の人間として人と出会い、触れあい、結び合わせられていくということは難しいこと。イエス様は「人間にできることではない」とさえ言われています。しかしイエス様は続けて言う。「神にはできる。神には何でも出来るのだから」。イエス様はこのとき、伝道に失敗し、一人風に吹きさらされて、呆然と立ち尽くすしかない、情けない自分の背中に、なお愛おしみを込めて注がれる神様のまなざしを感じていたのではないでしょうか。だからこそ、イエス様もまた、伝道に失敗してもなお、愛おしみを込めたまなざしで、立ち去っていくあの人の後ろ姿を見つめ続けることができたのだと思います。
by oji-church | 2013-07-23 14:05 | 牧師からのメッセ-ジ
「イマデショ!」

《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」》(マルコによる福音書10章21節)

★これを読むと、持っている財産をすべて売り払って、貧しい人に渡してからでないと、イエス様に従うことができないというように思えます。しかしイエス様は、持っているものを売り払って、貧しい人に施して、「それから」でないと、わたしに従うことはできないという、そういう「順番」を第一に言っているのではないのです。もとのギリシア語の聖書を読むと「わたしに従いなさい」の前に、「デウロ」というギリシア語がある。これはもともと「いま」とか「ここ」という意味の言葉なのですが、そこから「さあ」というかけ声に派生している言葉です。だからイエス様はここで、「イマデショ! さあ、わたしについて来なさい」「さあ、一緒に行こう」と、やる気満々で彼に呼びかけているのです。
★ここでは「持っているものを『売り払い』」と訳されていて、あたかも財産の全部を売って、貧しい人々に与えなければならないかのように読めてしまいますが、もとのギリシア語の聖書では少なくとも「全部」という言葉は出てきません。単純に読めば「持っているところのものを売って、貧しい人に与えなさい」と読める書き方がされています。貧富の格差がどんどんと増大していく時代にあって、富める人が得ている財産というのは、貧しい人たちの生活を奪った上で成り立っているものではないか、というイエス様の思いがそこには込められているのだと思います。しかしだからといってすべてを売り払って、素寒貧になってからでないと、わたしに従ってくることはできないとは、イエス様要求してはいないのだと思います。余分に得ていると思うものは、貧しい人に返しなさいと、そう語りかけたのだと思うのです。(つづく)
by oji-church | 2013-07-17 13:02 | 牧師からのメッセ-ジ
「あめ、あめ、ふれ、ふれ」

★ようやく梅雨時らしく、外は雨が降ったりやんだりしています。
★わたしはどうも雨男らしく、いっときはどこへ行っても常に雨が降っている状況でした。「思い出は~いつの日も~アメ~」。そんな歌の文句の通りです。というわけで、わたしの思い出の地はどこも「次は晴れている時に来よう」という場所ばかりです。それで雨は好きではなかったのですが、ある讃美歌に出会って、雨も悪くないと思うようになりました。こんな歌です。「こころみの世にあれど/みちびきの光なる/主をあおぎ、雨の夜も/高らかにほめ歌わん」(1954年版『讃美歌』358番)。残念ながら『讃美歌21』では歌詞が変わっていて雨は出てきません。死んだら歌ってもらいたい讃美歌の一つです。
★エコのために出かける時はなるべく車でなく自転車に乗るようにしていますが雨は大敵です。人間というのは簡単に雨風に左右される実は2弱い存在だということを知らされます。それでも不思議と命をつなげてこれたのも人間です。何でも電気や燃料に頼るのでなく、雨風を自分の命の一部として受けとめることが人間には『求められているのでしょう。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。
by oji-church | 2013-07-10 13:27 | 全体のお知らせ
「語るのではなく、生きること」

《彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる》(ルカによる福音書10章27~28節)。

★「何をしたら永遠の命を得られるか」との問いに対して「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を愛しなさい」。これは、ユダヤ教徒にとっては当たり前すぎる答えでした。だから聞いたイエス様は「正しい答えですね」と言うわけです。ただイエス様はその後に一言付け加えます。「それを実行しなさい」と。「愛」について持って回ったお説教を垂れることと「愛する」こととはまったく別のものだ。語るのではなく行えとイエス様は言うのです。
★この後イエス様は「そうすれば命が得られる」と言います。「命が得られる」というのも、どうも持って回った言い方ではないか。もとのギリシア語の聖書では単純に「そうすれば生きる」と書かれています。「命が得られる」と言うと「永遠の命が得られる」「天国に行ける」という宗教的な意味のようになってしまいますが、ここでイエス様はそんな言い方をしているのではなく、ただ「生きる」と言っているのです。
★「生きる」とは、寝たり起きたり、ご飯を食べたり、昨日と同じ仕事を今日もやり、散歩に出かけたり、歯を磨いたり、そういうこと。「愛する」というのは持って回った高尚な言葉で「語る」ものではなく、そういう日常の当たり前の動作の中で振る舞うべきことでしょう、という問い返し、そして、そうでなければいくら「愛」「愛」と言ってみたところで、その「愛」はちっとも生きていないし、あなた自身も本当に人間として生き生きと生きていることにはならないでしょう、という問い返しが、この中には含まれているのだと思うのです。
by oji-church | 2013-07-03 17:40 | 牧師からのメッセ-ジ