日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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「沖縄慰霊の日」

★今日6月23日は「沖縄慰霊の日」です。太平洋戦争下、沖縄は「本土決戦」を一日でも遅らせるための「捨て石」とされ、一般住民、子どもや学生も含め「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」「鉄血勤皇隊」などとして戦闘に動員されました。その結果、沖縄戦の戦死者20万人のうち、半数近い9万4千人が軍人でない一般住民でした。その中にはスパイ容疑を掛けられたり、壕の中で赤ん坊の泣き声を嫌がられたりして、日本軍によって殺害された住民、また日本軍によって集団自決を促されて自分の肉親に手を掛けて殺すことを強いられた人たちもいます。6月23日は沖縄防衛第32軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日であり、この日をもって日本軍の組織的戦闘が止んだ日として、沖縄では「慰霊の日」とされています。しかし牛島中将は「最後の一人まで戦う」ことを訓示して自害し、その後も戦闘は続き、そこでも多くの人が命を落としました。
★戦後、沖縄は、米軍による永続的な統治を望む天皇のマッカーサーに宛てたメッセージ等にもより、日本から切り離され長く米軍の軍政下に置かれました。
★日本へ復帰した後も、多くの米軍基地が残された状況が続き、現在もなお国内の米軍基地の4分の3が沖縄に置かれていることはご承知の通りです。
★普天間基地の沖縄県内辺野古への移設をもくろむ政府の首相、外務相、防衛相が今日の「慰霊の日」式典に参加するそうです。外務相、防衛相が出席するのは初めてとのこと。「沖縄に寄り添う姿勢を強調し、米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐって反発する県民の理解を得る狙いがあるとみられる」(6月12日『琉球新報』記事より)。しかしそのような「狙い」が果たして沖縄戦の戦没者の「慰霊」となるのか、考えてみなければなりません。そういう想像力がわたしたちに求められているのです。
by oji-church | 2013-06-26 14:38 | 牧師からのメッセ-ジ
「手を握ればわかること」

《ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右の手を取って彼を立ち上がらせた。》(使徒言行録3章6~7節)。

★誰かの手を握ると分かることがあります。その人の体の温かみ。その人が生きているということ。だれにでも悲しい時やさびしい時があるということ。でも誰かの手を握って分かるのは、今生きているのは自分ひとりぼっちではないということ。
★この足の不自由な人は生まれて初めて自分の手をぎゅっと握られてそういうことが分かった。そうしたら元気が出て、立ち上がることができた。歩くことも。飛び上がること、踊ることまでも。もしかしたらこの人は、もともと歩くことができたのかもしれない。でも周りの人たちから「お前は歩けない」。だから「お前は生きていたってつまらない」。「働くこともできない」。だから「ちょっとでも、幸せになりたかったら、道ばたに座って人からお金をもらいなさい」。なぜなら「一番大事なモノは『お金』だから。、お金があれば、なんでも手に入るから」。ずっとそう言われ、教えられてきたのじゃないか。
★でもこの二人が教えてくれたのは、生きていて一番うれしいことは、誰かと気持ちが通じ合えた、わかり合えたと思えることなんだということ。どんなにお金があっても、誰とも気持ちが通じ合えたと思えなかったら、それはとてもつまらない人生です。
★イエス様はきっとそんなことをお弟子さんたちに教えてくれたんだと思います。この足の不自由な人の前を通りがかって、手をぎゅっと握って立ち上がらせてくれたのは、イエス様のお弟子さんたち。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って。僕らが誰かと手を握り合って、お互いに気持ちを通じ合わせること、わかり合えたと思えること、そのことを大事にしようとする時、イエス様がきっとわたしたちのそばにいてくれるということです。
by oji-church | 2013-06-19 09:15 | 牧師からのメッセ-ジ
「人の寂しさを見つめるまなざし」

《狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない》(マタイによる福音書8章20節)。

★人は皆、一人で生まれてきてやがて一人でこの世を去ってゆかねばならない存在です。家族に看取られる人、そうでない人もいるでしょう。でもいずれにしても「その時」、死んでゆくのはこの「わたし」一人です。誰しもがそのことを知って生きています。だから人は誰しも、心の奥底に「寂しさ」を抱えている存在です。実は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」というこのイエス様の言葉は、イエス様一人の境遇ではなく、人間皆共通の境遇なのです。
★イエスという人は、人の根っこにあるこの寂しさをじっと見つめていたのではないかと思うのです。それは本当は家族によって紛らわせるものではなく、この人一人ひとり、ひとりぼっちの寂しさの傍らに、そのどん底まで共にいてくれるものがあるのだということを、イエスはじっと見つめていたのではないか。この場面のすぐ後に、舟に乗ったイエス様と弟子たちが嵐に翻弄される場面が語られています。嵐に戸惑う弟子たちの口から「主よ、助けてください。おぼれそうです」という叫びが挙がります。この弟子たちの叫びは人間が根っこに持っている「寂しさ」を言い表しているかもしれません。それに対してこの場面の中でイエス様は「眠っている」のです。あり得ない「のんきさ」と思われるかも知れません。しかしこの嵐に翻弄される舟の中で眠っているイエス様の姿は、むしろ人間の根っこの寂しさというものをじっと見つめている姿ではないかと思うのです。そして、それはただ寂しいだけの人間を見つめているのではなく、その寂しさの傍らに寄り添って、たとえ嵐のただ中にある時にも共におられる方がいるということ、神様のことをもじっと見つめている姿なのではないかと。
by oji-church | 2013-06-12 09:12 | 牧師からのメッセ-ジ
「あなたがたは地の塩だ」

《あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。》(マタイによる福音書5章13節)。

★思えば、イエス様の周りに集まっていた人々は、病いを負っていたり、しょうがいを負っていたり、体の自由がきかなかったり、貧しかったりして、世間から「役立たず」と見なされ、社会の外に「投げ捨てられ」、そういう境遇から立ち上がろうとすれば「人々に踏みつけにされる」ような人たちだったはないか。だとすれば、イエス様はそういうことになっちゃうから、「立派な行い」をしなきゃいけないよ、なんて教えただろうかと考え込んでしまいます。
★ここでまず言われているのは、「立派な行い」をしなさいということではなく、「あなたがたは地の塩『である』」ということ。「地図」とは、もともとは「地」という背景の中に、印となる「図」がある様子のことを言う言葉でした。そういう意味で「地」とは背景のこととも言えます。「地の塩」というのは背景の中に溶け込んで見えなくなっている「塩」と見ることもできるでしょう。
★そう読んでみると、このイエス様の言葉がこんなふうに聞こえてくるのです。「あなたがたの価値、あなたがた一人ひとりの大切さというのは、背景の中に溶け込んでしまっていて、人々の目から見えなくなっている。それで人々はあなたがたのことを『役立たず」なんて言って、外に放り出し、あなたがたが何かしようとすれば足蹴にして、踏みつけにしようとする。だけれども、あなたがたは地の塩だ。世間の人々がなんと言おうと、あなたは塩だ。あなたは『あなた』という一人の存在において、ただ『あなた』というその一人の存在において、働いているのだ。役立たずなんかじゃない。決して、決して……」。そんなふうに響いてくるのです。
by oji-church | 2013-06-05 13:52 | 牧師からのメッセ-ジ