日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「誰も気にしない地球」

★いま、わたしたちの住まう国の周囲では、それぞれの国々が自分の国の「繁栄」を求めて自分の「力」を示そうとつばぜり合いを演じています。どの国も自分の「国と力と栄えとは、限りなく」自分のものと思って、それをさらに拡げようと軍事力を誇示し合っています。日本も同様です。
★自分の属している「国」というものを自分の「持ち物」のように考えると、これが今わたしたちが自分の「持ち物」として考えられる一番大きなものとなるでしょう。それぞれの国の国民が、この自分の一番大きな「持ち物」としての「国」をより一層豊かで、安定したものになってほしいと願う。それは当然のことです。しかし地球の広さは限られています。物質的な面での豊かさを追い求めてゆけば、それは必ずどこかで限界を迎えることになるのです。すべての国の国民が、限界ある地球の豊かさを自分の「国」だけに呼び込もうとするとどういうことになるだろうか。「ウカウカしていたら、他の国に取られてしまう」。そんな疑心暗鬼がわき上がってきます。そして「他の国のことなんか気にしてはいられない」という焦りに突き動かされることになるでしょう。Aの国はBの国のことを気にしなくなります。Bの国はAの国のことなど気にしません。みんなが自分の国のことだけを気にしています。みんなが自分の事は気遣っていますが結局は「他の国のことなど気にしない」というあり方が地球全体を覆っていくことになる。誰も「気にしない」地球がポツンと宇宙に浮かんでいます。
★残念ながら人間はまだ「国」以上に大切にするべきものを見つけていないようです。いや本当は気づかない振りをしているだけなのかもしれません。でも、そんな「振り」を続けていれば、破滅はそう遠くはありません。
by oji-church | 2013-05-21 11:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「『罪』と『借金』」(2)

★アモス書にこんな言葉があります。「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ」(2章6節)。ここでは「貧しい者」がたった「靴一足」の値段くらいの借金を返せないばかりに、奴隷として売られてしまうような、そんな当時の世相に対して、神様は「決して赦さない」と裁きの言葉を投げかけているのです。こうして読んでみると「悪い」のは、「われらに罪を犯す者」「わたしたちに借金を負っている人」の方ではなく、むしろそれを赦さない「われら」の方ではないかと思えてこないでしょうか。実はここが、この「主の祈り」の「ミソ」なのだと思うのです。
★人との間に摩擦が生じると、わたしたちは自分中心に「相手は、わたしに罪を犯す者だ」と思いがちです。しかしその相手というのは実は、わたしに借金を背負わされて苦しんでいる人なのだと言われています。苦しむ人を前にしてその人を赦さないのなら、「罪を犯す」のは他ならぬこのわたしなのだということです。
★改めてマタイによる福音書の「主の祈り」を読むとこう書いてあります。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。ここではまず、わたしたちが「自分に負い目のある人」を「赦した」ことになっています。それから神様に「わたしたちの負い目を赦してください」と祈られています。よく言われるのは、「わたしたちは、自分に『罪を犯す者』を赦すことができない。そうすると、神様に『赦してください』とお祈りすることができないのかと思ってしまう」ということです。でも、この「負い目」というのが、わたしに借金を背負わせられて苦しんでいる人と受け取るならば、やはりまずわたしがその人を赦し、苦しみから解放してあげて、それから神様に対してわたし自らの罪の赦しを乞うのがスジだろうということが分かってきます。
by oji-church | 2013-05-15 12:30 | 牧師からのメッセ-ジ
「『罪』と『借金』」(1)

★「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらをゆるしたまえ」。この主の祈りの一節は、聖書では次のように書かれています。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6:12)。ここではわたしたちが普段「罪」と言って祈っているところが「負い目」と訳されています。ちここで「負い目」と訳されている言葉は、もともと商業の用語で「負債」「借金」という意味の言葉なのです。わたしたちが律法の掟に背くような悪いことをすれば、神様に対して償うべき負債を負うことになる、とユダヤ教では考えられました。そこからこの「負債」という言葉が「罪」という意味をも表すようになったわけですが、もともとは「借金」という意味の言葉です。ですから、「われらの罪を犯す者」というのは「わたしたちに借金を負っている人」という意味にも取れるのです。(つづく)
by oji-church | 2013-05-08 09:38 | 牧師からのメッセ-ジ
「四つの目」

★いま、日本・韓国・北朝鮮・中国といった東アジアの国々の間で、いろいろな面で緊張が高まっています。それぞれに言い分があって、それぞれが互いに他を非難し合っています。こういう時に注意しなければならないのは、互いに突き合って非難し合っているのは、それぞれの国の「政府」同士であるということです。わたしたちは必ずしも政府の人間ではないし、政府と一体化しなければならないわけでもありません。
★ネイティブアメリカンの考え方の中に「四つの目」というのがあるそうです。それぞれ四つの方角、四種類の動物にたとえられていて、一つ目は南の方角に向けられたネズミの目。それは低いところに視点を持ち、信頼と無垢を表します。次に北に向けられた野牛の目。これは知恵を表します。次に西に向けられた熊の目。その目は内に向けられています。四つ目は東に向けられた鷲の目、これは物事を明瞭かつ遠くから見極めるひらめきの目です。人間はこの四つの視点をどれにもかたよらず、兼ね備えていなければなりません。
★外国に対しては、鷲の視点だけによって俯瞰で捉えて、上から相手を非難し、自国に対してはネズミの視点だけによって目先の利益を追いかけるだけならば、わたしたちはきっと行く先を間違えることでしょう。
★鷲の目によって遠く広く眼差しを向けつつ、ネズミの目によって一つ一つの事柄や一人ひとりの人間につぶさに丁寧に向き合い、熊の目によって自分自身の内面を省み、野牛の目をもって知恵を働かせて調和を見いだしていく必要があります。簡単なことではないかもしれませんが、このような複数の眼差しを持つのでなければ、わたしたちはただ自分の内面から湧き出す感情だけで突っ走り、気に障れば相手を非難し傷つけ、ついには破滅へと行き着く誤った道に進むことになるでしょう。わたしたちは生きた人間です。そのような柔らかな眼差しを持つことは可能なはずです。
by oji-church | 2013-05-01 17:04 | 牧師からのメッセ-ジ