日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「権威はなくても自由はある」

《「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く》(マルコによる福音書1章27節)。

★ここで「権威」と訳されている言葉の元々の意味は「(あることをなすことができる)自由」「資格」「権利」というものです。エライ立場にいる人は、そうでない人と較べて、自由に振る舞うことができます。そういう意味でこの言葉は「自由」を「エライ立場」とイコールで結んで考える考え方に基づいています。
★当時ユダヤ教の礼拝で説教をする際に、ただ自分の考えた解釈だけをそのまま自由に語るなんてことは、よほどエライ先生でなければ許されないことでした。イエス様がそのような偉く立派な学者先生だったかといえば、まったくそんなことはありません。ナザレの村の一介の大工の息子に過ぎませんでした。
★でも権威も権力も持たないイエス様が一つだけ他の人にはないものを持っていました。それは何かと言えば「自由」。「権威」につながれていない「自由」。「権威」はなくても「自由」はある。わたしたちは「わたしのほうが」「俺のほうが」という「比較」に縛られて生きています。一方イエス様は、誰に対しても誰とも比較せず、ただその人に与えられている「その人らしさ」がその人自身にとっても周囲の人にとっても、喜ばしいものとして祝福されるように、ひたすらそのように人と出会い、人に触れ、人と共に生きられました。それがイエス様にとっての宣教の働きだったのです。
★だから、悪霊に取り憑かれていようが、重い皮膚病を患っていようが、徴税人であろうが、娼婦であろうが、イエス様には関係がありません。誰にでも触れて、その人の存在、その人の息づかいを受けとめて、その人がその人らしく生きられるようにと送り出していく、そういう自由な生き方をイエス様は貫かれました。
by oji-church | 2013-02-27 15:49 | 牧師からのメッセ-ジ
「人々の漁師仲間」

《イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた》(マルコによる福音書1章17節)。

★イエス様がその公の働きの最初に、弟子たちを集められた場面です。有名な場面です。この場面でイエス様がシモンたちに向かって「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけたのは、人を集めてキリスト教を宣べ伝える働きを託された伝道者=牧師の召命について語られている場面だと読むのが普通です。
★果たしてイエス様はシモン・ペトロたちに対して「伝道者となるように」という意味で「人間をとる漁師にしよう」と呼びかけたのでしょうか。
★いま日本の教会では「伝道の不振」が叫ばれています。教会に人が集まらない。とくに若い人が集まらず、教会の高齢化が激しい。焦りも加わって、どうしたら信徒の「数」を増やせるのか考えあぐね、「信徒の増えている教会は優秀な教会、信徒の減っている教会はダメな教会」と、「数」で物事を測ろうとする圧力が増しています。そのための理想像として、広く網を打って信徒を一網打尽にすることのできる「人間をとる漁師」という例えはうってつけです。
★「漁師」の「漁」という字は「あさる」とも読みます。まるで人間を「喰い物」にするために網を掛ける者にしてあげようとイエス様は呼びかけたのだろうか。
★もとのギリシア語では、実は「人間を『とる』漁師」とは書かれておらず、ただ「人間の漁師」と書かれているのです。この場合「人間」も「漁師」も複数形ですので「人々の漁師仲間」となるでしょうか。
★「人々の漁師仲間」とは、それぞれの人がそれぞれの置かれた場所で、なしうることをなしながら、それぞれに限界を持ちながらも、出会い結ばれて共に生きていこうとする姿勢を表しているのではないでしょうか。
by oji-church | 2013-02-19 15:53 | 牧師からのメッセ-ジ
「神の口から出るものが吹きわたる世界に」

《更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」》(マタイによる福音書4章8~11節)。
★ここで悪魔は本性をあらわにします。「俺を拝むなら、この世界のすべてをお前にあげよう」と。これに対してイエス様は、聖書の言葉=神様の言葉を語って、悪魔のさそいを退けました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と。大事なことは、イエス様が最後まで、聖書の言葉=神様の言葉以外の何物をも引き合いに出さなかったことです。一つ一つの事柄を、命の源に立ち返って、いつもそこから受けとめ直していくことをイエス様はわたしたちに身をもって示されているのです。
★最初の誘惑でイエス様が答えた「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」という答え。引用元の旧約聖書申命記のヘブライ語では「神の口から出る一つ一つの『こと』」となっています。つまり単に字面の言葉ということではなく、神様が人間に向かって語りかける言葉の一つ一つに込められた思いを表しているのです。
★イエス様は霊に導かれて、ひとりぼっちで荒れ野に放り出されて、悪魔の誘惑に立ち向かわされました。それでもなお、イエス様はその悪魔の誘惑に対して、一つ一つ神様の「言葉」でもって立ち向かい、それらを退けられました。わたしたちも今、ここに生きている中で、目の前に見える形で神様がおられるわけではありませんし、イエス様が目の前に見える形で共におられるわけでもありません。けれども、この誘惑の場面でイエス様が示しておられるのは、たとえ目に見える形で神様がそこにおられないようであっても、神様の「言葉」、神様の「口から出る一つ一つの」こと、神様の息吹、神様の思いは、この世に吹き渡っているということです。
by oji-church | 2013-02-14 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ
「信仰」とは「ひたむきさ」

★「信仰」という言葉は普通「なにかを信じる気持ち」というように受け取られます。けれども実は聖書で「信仰」と訳されている言葉、ピスティスというギリシア語のもともとの意味はむしろ「誰かに信じてもらえる自分自身の誠実さ」とか「ひたむきさ」ということなのです。「信仰によって救われる」というのは、わたしたちの信仰の強さによって救われるということではなく、人を助け守り救おうとする神さまのひたむきさ、その神様に従っていこうとするイエス様のひたむきさによって、わたしたちが救われるという意味なのです。であるならば、わたしたちもその神様のひたむきさ、イエス様のひたむきさに応えて、ひたむきに生きていこうじゃないかというのが、信仰の道ということなのです。ひたむきさというのは、他者の痛みや苦しみを少しでも共に分かち合っていこうという思い、生き方の姿勢に他なりません。イエス様は、たとえ神殿の屋根の上から飛び降りても助けられる「神の子」という悪魔の持ちかける誘いを退けて、人々の痛み、苦しみを自分自身の身をもって分かち合うこのひたむきさの道へと立ち上がられたということなのでしょう。
★わたしたちも、願わくは、安楽さと無事だけを追い求めるのでなく、ひたむきなる神様に応え、またひたむきなるイエス様と共に歩む、このひたむきさの道、他者と苦難を分かち合い、互いに慰め合い、励まし合う信仰の道へと踏み出してゆきたいものです。
by oji-church | 2013-02-06 16:32 | 牧師からのメッセ-ジ