日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


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「誘惑と招きの間で」

《人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる》
(マタイによる福音書4章4節)

★わたしたちは、悪魔による安易な方へ、楽な方への誘いと、神様による厳しい道のり、しかし誰かと共に生きる道への招きとの間に立たされています。安易な道のり、楽な道のりは確かにわたしたちにとって魅力的です。労せずして欲しいもの、必要なものが手に入ったらどれだけうれしいことでしょうか。「そんなことはそう簡単には起こらないから、心配しなさんな」と思われるかもしれませんが、わたしたちは、みんなが「そんなこと」を待ち望む社会を形作ってきました。わたしたちの生きている社会は、安易に、労せず、欲しいもの、必要なものが手に入ることを目指して形作られています。その中では、苦しいこと、煩わしいこと、面倒なことは隅の方へと追いやられていきます。
★これに対して神様の「試み」は、誰かの支配や操作によってではなく、人が本当に心の底から、他者と共に分かち合って生きたいと願える場へと人を導くものです。誰かと共に生きたいと心の底から願った時、本当に必要なものが見えてきます。そしてそれは実はそんなに多くのものではありません。
★真冬の岩手の被災地を回ってきました。戻ってきて沢山の人から「寒かったでしょう」とねぎらいの言葉をいただきました。確かに寒さは厳しく、被災された方々の生活復興の見通しも厳しいものでしたが、それでもなおあまり寒さが身に応えなかったのは、おそらく人との出会い、ふれあいの熱さのせいなのでしょう。被災地では必要なものはまだまだまったく足りていません。でもそれだからこそ、人々にとって希望となるのは人間同士のつながり以外にはないのです。そこからすべてのものが生まれてきますし、そこからしか何も生まれては来ないのです。
by oji-church | 2013-01-30 14:33 | 牧師からのメッセ-ジ
「つながりを育てる」

★先週は北支区東日本大震災被災支援委員会の役目として、岩手の被災地の教会や幼児施設等を巡ってきました。各地から救援や注目が集まり、その中で「負けてなるものか」という踏ん張りを効かせられた震災直後の時期を過ぎ、具体的な日々の生活の課題に奔走させられる状況の中に、いま被災地はあります。そんな中でふと気がつくと、将来への不安と悲しい気持ちが黒雲のように心を覆っているのに気づかされるという状況でしょうか。原発の問題に注目が集まる中、地震や津波の被害に遭った人たちの苦悩は忘れ去られてしまうのではないかという不安も強く感じさせられました。
★震災直後、東京と岩手の間を行き来していた当時から、福島を中心とした原発・放射能の事柄と、津波被害の事柄との両方に同時に関わることの困難さを感じてきました。それぞれの問題・課題が底の見えない深みを持っていて、両方の事柄が合わさると一人の人間の考える能力を越えてしまうようにも思われます。どちらか一方に集中しようとすると、そのつもりはなくても他方を軽視するような姿勢に映ってしまうこともあります。その中で、せっかく芽生え始めた関係やつながりも、わたしたちが一つ一つ、それを続けて育てていくためにつぶさに丁寧に気遣いするのでなければ、わたしたちのもとを離れ去って行ってしまうような気がしてなりません。
★それでもわたしたちがそうして現地にゆけば、そこでまったく見ず知らずの人までも、わたしたちを温かく笑顔で迎えてくださいます。そのお一人お一人の表情に、厳しい課題を突きつけられながらも、新しい出会いやつながりが与えられ、育てられていることを実感しました。人間同士が出会わされ、結び合わせられ、共に生かされるということを、本当に大切に守り育てていかなければならないということを改めて思わされてきました。福島や岩手ばかりでなく、ここ東京においても、です。
by oji-church | 2013-01-23 13:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「希望そのものを見つめるまなざし」

★「もともと希望というものは、有るともいえないし、無いともいえない。それはちょうど地上の道のようなものだ。実際地上にはもとと道というものは無かったが、歩く人が多くなって、そこが道になったのだ」(魯迅『故郷』より)。希望というのは、その材料が目に見える形で「もともとそこに有る」からそれを持つというものではないのです。目に見える希望の材料となるものが見当たらなくても、それでもなお「希望を持って生きよう」とわたしたちが自分から決断する。そう決断する人が一人また一人と増えてくる。するとそれまで希望の材料などまるで見当たらなかったところに、わたしたちが共にその上を歩いて行くことのできる道が生まれてくるということです。
★目に見える材料があるかないかで左右される希望は、たぶん本当の希望ではありません。それがなければわたしたち人間が生きてけない希望。それはたぶん目には見えないものなのだと思います。目に見える希望の材料にわたしたちが希望を見いだしている時、わたしたちはその材料に目を奪われ、それが希望だと錯覚し、そして実は本当の希望を見失っているのです。もしかしたらわたしたちは、目に見える材料にばかり目を奪われてきて、それが見えなくなるとそれを欲して、実は長い間、本当の希望というものを見失ってきたのかもしれないと思うのです。
★宗教改革者のルターは、こんなふうに語りました。「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの木を植えよう」と。明日世界が滅びることが分かっている。そこには目に見える希望の材料はまったくありません。でもルターはこれから長い時間かかって成長し、実を結ぶリンゴの木を今日植えると言うのです。途方もないことです。でもおそらくこれが本当の希望というものなのでしょう。目に見える希望の「材料」はまったく見当たらなくても、ルターは「希望」そのものをはっきりと見つめているのです。
by oji-church | 2013-01-18 16:02 | 牧師からのメッセ-ジ
「自分たちの間に幻を形作る」

《主の霊がわたしのうえにおられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。……そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた》(ルカによる福音書4章18~21節)
★明けましておめでとうございます。新しい年が明けましたが、実際には「おめでとう」とは言い難い先の見えない世相が続いています。先の見えない世相の中で、わたしたちの住む国の周りでは、国家間の対立や摩擦が際立ってきています。「先が見えないのはアイツのせいだ」と言わんばかりです。
★将来の希望の手がかりとなる材料を自分の手元に見いだせない中で、わたしたちは悪者探しに駆り立てられます。そしてそれが「現実」であり、悪者探しや攻撃に加わらない者は「現実認識が甘い」と言われます。しかしそんな悪者探ししか、わたしたちに出来ることはないのでしょうか。
★聖書の書かれた時代は、先の見通しやどの時代も暗く重い時代でした。そんな中で聖書は、悪者探しをするのではなく、自分たちの中に、あるいは自分たちの間に希望(幻)を形作るようにと呼びかけます。聖書の語る「幻」とは、将来神様が実現してくださる平和を、いまここで、そのまま自分の体を持って生きることです。捕らわれている人が少しでも解放されるように、目の見えない人が少しでも視力を持つかのように生きられるように、圧迫されている人が少しでも自由にされるように、いまここでわたしたちが生きるということです。
★聖書は「幻なき民は堕落する(滅びる)」(箴言29章18節)と語ります。自分自身の内に幻を持たず、他者を悪者として攻撃し続ける限り、わたしたちは互いに互いを滅ぼし合う結果にしか行き着かないでしょう。新しい年、わたしたちの内に幻を形作る年としていきたいと願います。
by oji-church | 2013-01-11 15:37 | 牧師からのメッセ-ジ
「もっとも深い闇の中の光」

★クリスマスの夜。それは、冬至の夜のもっとも深い夜の闇の中で、あなたのまなざしの向きを変えるようにと神様の声が響く夜です。この闇の深さに絶望して「世も末だ」とあきらめのため息をつくのではなく、この闇をお祭り騒ぎでかき消そうと虚しい空騒ぎを演じるのでもなく、この闇の中で生きている小さな命の一つ一つを、神様ほどにも尊い、かけがえのない存在として見つけ出すことを、クリスマスの夜は、わたしたちに呼びかけています。
★それはクリスマスの夜を、どこで、だれと過ごすのかをわたしたちに問いかける声でもあります。闇の中で絶望のため息と共に過ごすのか、闇をかき消そうとする騒ぎの中で過ごすのか、それとも、世の小さくされた人々と共に、でもそのお互いの小さな存在の尊さを喜び迎えながら過ごすのか。
★ひと夜のうちにわたしたちにできることは多くはありません。しかしクリスマスの日からまた、わたしたちは夜の闇よりも朝の光が増していく時の中を生きていきます。今夜が過ぎても、新しい一年のひとときひとときを、わたしたちはどこで、だれと過ごすのか、一歩一歩大切に考えながら歩んでいきましょう。人を数で換算するのでなく、人を内外に分け隔てるのでなく、隣り合って生きている人の小さな存在をかけがえのない存在として受けとめて歩んでまいりましょう。そのときわたしたちは、どんなにこの世の闇が深くても、決して希望の光を見失うことなく、新しい道を進んでゆけることでしょう。
by oji-church | 2013-01-05 12:39 | 牧師からのメッセ-ジ